嫌いな人にこそ良き祈りを捧げる ① | 満願寺窯 北川八郎

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釈尊はいわれる


清らかな澄んだ心で、信仰心を以て食物を与える人々は この世でもあの世でも まさにその食物を享ける。それゆえに 物惜しみの心を制して 汚れにうち勝って施し与える事をなせ。

功徳は来世における人々の拠りどころとなる。


釈尊がいわれるように 清らかな澄んだ心で食物(人に好意・よきもの)を与えなければ 与えるものは汚れ その行為も濁ってしまう。何事をなすも動機の純粋性を中心に置くといい。迷わず動機の純粋性に戻ろう。


少し計算があったり 利を計ったりすると その人とその食物(行為)は腐敗を発するに時間がかからない。

古代から「銅臭がにおう」といって不正な金銭によってなされた行為は「銅臭(銅銭の臭い)がする」といって その人の人格を下げ、不信を買ってしまっていた。


ここでいう<信仰心>とは 「良き祈り}を意味する。良き祈りとは その人に平和と安らぎと健康を願う心を意味するのだろう。


私たちは 自分の好きな人、大事な人に対しては素直に祈りを捧げられる。

釈尊のいわれる清らかな心とは、嫌いな人や自分に辛くあたる人にこそ 善き祈りを捧げることをいうのである。


そうすると 「この世でも かの世でも まさにその食物(幸福)を享ける」のであろう。つまり そうする事により 周りから嫌いな人がいなくなり 人に会うのが楽しくなる。街に出ても 人に会う事が苦しくなくなる。


周りから 嫌いな人や 会う事が苦になる人が少なくなると、ストレスが少なくなるだけでなく 仕事や対人関係が改善されていうことになるだろう。


「それ故に もの惜しみの心」つまり つい計算してごまかしたり、与える事を少しケチる心を乗り越えることによって、私たちは功徳を得 それが来世における転世の拠りどころになると釈尊はいわれる。


・・・・つづく・・・・



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高木書房「あなたを不安から救ってくれるお釈迦さまのことば」より

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