ぶんぶく狸  第6回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

ぶんぶく狸  第6回
光太郎はこのおもちゃの車を見たときから、この車に乗って見たかった。おもちゃと云っても三十八シーシーのエンジンはついているし、少しせまいが子どものふたり乗りで大人だったらひとりは乗れた。おはぎを食べて腹のくちくなったふたりの子どもはなにごとにも鷹揚だった。飯田かおりはその光太郎の様子をあきれるでもなく、見ていた。赤い車は遠い筑波山を背景にすくっと立っている。子供のおもちゃだとはとても思えない。光太郎がそのせまい座席に乗り込むとステンレス製で星の模様の刻印されたパネルにはエンジンの回転計やスピードメーター、始動用のチョークボタンやスターターモーターのスイッチがついている。ハンドルはレーシング仕様になっていて車の下のほうにはアクセルやブレーキ、横には変速レバーがついている。ふたりの子供はまるでレーシングチームの監督のようにその座席に頭を突っ込んだ。
「これがスターターだべ。クラッチを踏みながらスターターを入れるだべ」
ふたりの子供の言うとおりにするとエンジンはぶるぶると快適な音をあげた。光太郎はさすがに弘法池一周をすることはなかったが池のほとりを行ったり来たりして運転をした。光太郎は満足した。久しぶりに自分を解放したような気持ちになった。しかしじっと見ているふたりの子供の目のエックス光線に気付いた。その目は温かくもなかったが冷たくもなかった。しかし、自分が大人だと云うことを自覚させるには充分だった。ふたりの子供に干し柿を与えると無言でそれを受け取り、車に乗り込むとふたりは千亀亭のほうへ走って行った。
「まるで子供みたいだったわ」
台所の勝手口で腰掛けて庭のほうを見ていた飯田かおりがなかばあきれた口調で言った。
 その晩の食事は夕方に食べた胡麻のおはぎですませて六畳敷きの居間でふたりはくつろいだ。飯田かおりは英語基本文型五百例と云う単行本をひらいて黒い活字の中に赤い文字の混じった本を読んでいた。飯田かおりは外国人と話したことはなかったが外国に行ってみたいと云う憧れを持っていて外国の小説なんかも読んだりする。英語の小説も辞書を使って読んだこともある。最初にそんな小説で読んだことのあるのはサイラス・マーナーだったが外国に住んだことのない飯田かおりにはその内容はよくわからなかった。飯田かおりはそんなむかしの時代遅れと云っても良い参考書を見ると昔のことが思い出された。
 光太郎はSTARと正面に金色のプレートの貼ってある五球スーパーのラジオのスイッチを入れるとチューニングのパネルのうしろにある電球がついて受信している電波を示す文字盤がだいだい色に照らされた。文字盤の横の方には丸窓がついていてその中に電波望遠鏡を小さくしたような真空管が横向きについている。光太郎がその同調つまみをいじくると電波を受信するたびにその真空管の頭の上のほうに入っている電波望遠鏡のようなものに映し出されている蛍光塗料を電気的に発光させている円グラフのようなものが開いたり閉じたりする。五球スーパーの五球と云うのは真空管が五本ついていると云うことでこのラジオの場合はその同調指示器がついているので真空管が六本ついているのだった。真空管は熱が出るのでラジオの前にも後ろにも空気を抜くための隙間が出来ている。その隙間から真空管がついているのでそのついているオレンジ色の光が見える。
 光太郎の子供の頃は真空管は三本か二本しかついていなかった。多くとも四本だけだった。真空管のまったくついていないラジオもあった。そんなラジオは電灯線もいらなかった。そのかわりスピーカーに工夫がされていて電気的ではなく機械的に音を大きくする工夫がなされていた。
 あいかわらず飯田かおりは英語の本を見てなにかの例文を覚えようとしている。その横顔は女子学生のようでもある。外見がそう見えると云うことは彼女の内面の意識がそうなっていると云うことだろうか。相手にされない光太郎はラジオの同調つまみをいじるとラジオのスピーカーから音が出てきた。光太郎はすっかりとくつろいでいた。深山に住む野生の熊が人に知られていない温泉に入っているよりもくつろいでいただろう。今日は上田のところに行って多少不愉快な思いをしたがそのあとに良いことがふたつもあった。ひとつは胡麻のおはぎを食べたことでもうひとつはあの妖怪じみた地主の娘たちのゴーカートのようなエンジン付きの車に乗って運転を楽しんだことだ。もしかしたら背振無田夫の墓に墓参りに行ったので死んだ背振無田夫が彼にプレゼントをくれたのかも知れないといいように解釈した。
 そしてラジオから光太郎の気に入った番組が始まっていた。それはトリオの漫才師のやっている番組で、そのトリオの漫才師はアメリカのさんばかトリオと云う番組にヒントを得て結成されていた。誰がそういう判断を下したのか知らないが外見が似通っていた。そのメンバーの構成がひとりがおかっぱ頭、ひとりはお茶の水博士をやせさせたもの、もうひとりはでぶで構成されている。その内容は伊勢物語を喜劇仕立てでやるムと云うものだった。主人公のおとこはおかっぱ頭がやっていた。ある文学者の話によると西洋の恋愛話に出て来る主人公は英雄であったり、男性的で運命と闘って買ったり負けたりして話しが展開していくが、日本の古典では社会的に力のないものが運命にひきずられてもののあわれをさそう展開になると云うものが多いそうだ。そういった点ではおとこは天皇の隠し子でいろいろなところで恋愛のごだごたをおこしてもののあわれをさそうのにはぴったりしている。この精神構造がどういうところから出ているのか、平安時代からはじまっていることなのか、光太郎にはわからない。舟の中で途方に暮れる主人公の姿が目に浮かぶ。もとの伊勢物語がちゃんとした話しなのでそれを滑稽にした漫才師たちの話しはおもしろかった。光太郎はすっかりと機嫌がよくなって台所からウイスキーの瓶を持って来てちびりちびりとした。
「光太郎さん、あなたがウイスキーを飲むなんて珍しいですわね」
飯田かおりが本から目を離して光太郎を見た。
「うん、気分がいいんだ」
光太郎は自分の姿を他人が見たら宮沢賢治のカイロ団長に出てくるあまがえるに見えるかも知れないと思った。光太郎がウイスキーをちびりちびりしていると光太郎の気に入っている番組は終わってしまい、今度は素人のインタビュー番組のようなものが始まった。このまえ聞いていたときは東京湾をぽんぽん蒸気で掃除していると云う人間が出て来て東京湾の底のほうにたまっているゴミがどんなものかと云う話しになっていて途中で光太郎は寝てしまったのだが、今日は日本国中の温泉を入りまくったと云う人間が出て来た。それを仕事にしているわけではないから休みの日にそのライフワークをおこなうそうである。比較的休みの多い仕事についていると云う話しだったがそれでも数をこなすために地図とくびっぴきになって近隣にある温泉をチェックして一日に三個も四個も入るそうである。それで温泉に入る醍醐味もくつろぎもないのではないかとインタビューアが聞くと、そうではなく温泉の醍醐味はやはり味わえると言うのである。ここでインタビューアと云うのは茶話会の司会者と云うくらいの意味である。この話しを聞きながら光太郎は感心した。電気も来ていない山里でランプの明かりの中でこの人物が温泉に入っている姿が目に浮かんだからである。そしてあまり意味のないようなこの仕事か趣味かはっきりしないような行動がその温泉名人にどう作用しているのだろうかと思った。それほど温泉が好きなのだろう。ここで光太郎は経験と云うことばが浮かんだ。経験が人を形作ると云うことだ。そう思うと自分は毎日なにをしているのだろうかと思う。
 そしてその番組は二部構成になっていてその温泉研究家の次の出演者が登場した。つぎの出演者はある映画会社の社長の息子で日本から出て世界的な映画プロデューサーとして世界を飛び回っていると云う人物が出て来た。その世界中に映画を配信する裏話とかスターの知られざる横顔を紹介するのが題目になっている。なぜかその出演者は夫婦で出てくるらしい。ラジオから流れてくる声が聞こえた。司会者がそのふたりを紹介すると夫婦はその返事をした。光太郎はその声を聞くと出口のない路地裏の行き止まりに追いつめられてなにものかに恫喝されているような圧迫感を感じた。自分の心臓が脈打っているのかわかった。名字が変わっていたので最初光太郎はわからなかったが、その名前のほうは知っている。声も聞き覚えがあった。光太郎がまだ大金持ちで光り輝く世界にいたとき知っていた女だった。知っていただけではない。深く関わった女だった。女の声はピンク色に響いていた。
 その女は大金持ちの光太郎とつき合っていたのだが、大金持ちと云っても所詮地方の名士に過ぎない光太郎を捨てて、東京に住むある大会社の御曹司に鞍替えした。そしてその女は金だけでは物足りなく思ったのか、今度は名声も追求し始めた。彼女がどんな手腕を持っていたのかは今もって光太郎にはよくわからなかった。彼女に金の面でも時間の面でもすっかりとあやつられていた自分の過去の姿が情けなくも恥ずかしくもあった。その女がたとえ大金持ちの世界的な映画プロデューサーの婦人として収まっていたとしても光太郎の状態が今のようでなければこんな感情は起こらないだろうと彼は思った。今までの上機嫌はすっかりと消えてしまってみるみる光太郎の表情は森の暗がりに住むみみずでもこうはならないだろうと思えるぐらいに暗くなった。光太郎のこころを絶望が占めた。酒の酔いが変なふうに作用して本来は心地良いもののはずの酩酊状態がみぞおちのあたりが黒くどす黒いものがたまっているような不快感で満たされた
「寝る」
光太郎はぽつりと言った。いっしょの部屋で英語の参考書を読んでいた飯田かおりはなにが起こったのかわからずぱたんとその本を閉じた。
「ふとんはひいてありませんよ」
「自分でひくよ」
光太郎は暗闇に生息する夜行動物のようだった。夜行動物の目は獲物を追い求めてらんらんと輝いているものだが、光太郎の目は死んでいる。となりの部屋が寝室になっているので光太郎はよろよろと立ち上がるとふすまを開けて隣りの部屋に入った。ふとんはおりたたたまれて置いてあった。光太郎は敷き布団だけをひろげるとその蒲団の中に倒れ込んだ。飯田かおりはなにが起こったのかわからなかったがいっしょにラジオを聞くともなく聞いていたのでその原因がわかった。いぜんに何度かその女の名前を聞いていたし、その女が光太郎といぜんつき合ったことがあると想い出話しで光太郎が話したのを聞いたことがある。なにかのおりにその女がその映画プロデューサーと結婚したということも別の機会から知っていた。電気もつけないその部屋に入ると光太郎は掛け布団もかけず向こうを向いて寝ている。
「かぜをひきますよ」
光太郎のつむじが見えた。光太郎はなにも言わずにかけぶとんもかけないまま穴の中に住むレッサーパンダのように丸くなっている。
「俺の人生は失敗だったよ」
向こうを向いたまま光太郎がぽつりと言った。
飯田かおりは無言で薄がけをかけると酔っぱらった光太郎はいつの間にかすやすやと寝息をたてている。
「この人は弱い人なんだ」
飯田かおりは思った。




「光太郎さん、はやく起きて。すっかりお日様は昇っていますよ」
飯田かおりは木で出来た雨戸をがたぴしといわせながら開けると日の光が障子に差し込んで電灯よりも明るい白い色で輝いている。朝起きる頃には外もすっかりと暖かくなっている。目の前にはいつものように弘法池が見える。はるか向こうには筑波山の姿が見える。飯田かおりはその山の姿を見ると自分の父親のような気がした。そしてすがすがしい気持ちがした。飯田かおりには父親がいないからなおさらのことだ。なにもその山は言わないが飯田かおりや飯田かおりの家のことをじっと見ている。庭に植えている南天の赤い実が太陽にきらきらと輝いている。飯田かおりはその南天の実を見て赤い色をぎゅっと凝縮したようだと思った。ただ色を凝縮しただけなら色は明るさを失って黒くなってしまうが赤い色の要素だけを凝縮したと言う意味で物理的な意味ではない。美学的な意味だ。いつも思うことだが毎日毎日、日が沈んでまた太陽が上がってくると云うことは大変なことだと思う。人は眠りについて疲れを癒し、昨日と云う過去を振り払う。飯田かおりは雨戸を開け放した廊下で空気を吸い込むとやはり田舎の匂いがした。
 のっそりとよっぱらいが起きて来た。もうすっかりと酔いはさめているらしい。でも髪はもじゃもじゃで髭も少しのびている。太陽の光は公平に彼にもその光を浴びせた。
「もう、朝か」
「お風呂にでも入ったほうがいいんじゃないの」
「風呂は沸いているの」
「沸いていない。光太郎さん、入るならこれから沸かしますよ」
「近所に温泉でも沸いていればいいんだけどな」
「このへんに温泉はあるのかしら」
「温泉ぐらいあるだろう。田舎なんだから。この弘法池の水源から水がわき出しているらしいよ」
「光太郎さんは温泉の定義を知っているの。温泉名人の話を聞いていたんじゃないの」
「忘れちゃったよ」
光太郎は頭をかいた。
「じゃあ、わたしが教えてあげる。地下からわき出してくる地下水で温度が二十五度以上あって、カリウム、硫黄、ラジウム、なんかの化学物質のどれかがある一定以上含まれているということなのよ」
「やっぱり僕よりふたつ年下だから記憶力がいいね」
「当たり前よ。光太郎さん、おはぎの用意は出来ているからね。わたしも今日は出掛けようと思っているの。光太郎さんより早く帰ってくるつもりだけど」
「さっそく自転車に乗ってみるつもりなんだね」
「そうよ」
「光太郎さんばかり、ここを散歩しているなんてずるいわ。私も光太郎さんの買ってくれた自転車でここを散歩してみるつもりよ」
 光太郎に胡麻のおはぎを持たせて背振無田夫のお墓参りに出してから飯田かおりは光太郎に買ってもらった自転車でこの田舎町を散歩してみようと思った。光太郎の家からこの町のメインストリートまで歩いて行くのは少し大変だ。買い物をしようと思っても近所にはない。メインストリートまで行かなければならない。それで光太郎に自転車を買ってもらったのだ。光太郎が出発してから家の用事をある程度すませて家の用心をすると飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してサドルに腰をかけてみた。飯田かおりの丸いおしりが自転車のサドルにうまい具合に乗っかった。その姿は男の目を振り向かせるほどの効果はあるが、そんな男はこの近所には住んでいない。光太郎の家の離れたところにやはり下平の建てた建て売りが二軒あるが一軒は空き家でもう一軒の方はむかし国会で書記をやっていたと云う男が定年で退職して夫婦で悠々自適の生活を送っている。土地のことを云えば光太郎の家は借地だったがそのもと書記は土地も下平から購入したらしい。たまたまその家の前を通ったら家の中から尺八の鳴る音が聞こえた。 飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してからメインストリートに行く左とは逆の右の方にハンドルを向けた。その砂利道は少し上り坂になっていて砂利道の上がりきったところから少し下っていけるようになっていると云う話しだが飯田かおりはまだ行ったことがないからことの真偽はわからない。飯田かおりがたまたまその方に行こうと思ったのはこのまちの駅に行ったときこの町の名所図絵と云うのが切符売り場の向かいの壁に貼ってあってその地図には弘法池が中心の位置に書かれていたのだがもぐら神の伝説のあるちょうど逆のほうに弘法池の二十分の一くらいの大きさでおおさんしょう池と云うのがあった。そこにもやはり嘘か真かわからない伝説があり、その内容がごちゃごちゃと書かれていた。それが男女の愛憎に関したものでおおさんしょううおが女に化けてどうしたこうしたと云うものだったが飯田かおりはその沼に興味を持った。飯田かおりにとって光太郎ははじめての男である。飯田かおりはどろどろとした男女の愛憎などと云うことはまったく知らなかったし、経験もなかった。そんな云われの沼を見てみようと思ったのはむしろこわいもの見たさに近い好奇心からだった。もしかしたら飯田かおりのこころのおくの方にはそんなものに対する興味があるのかも知れない。
 砂利道を自転車で走って行くと砂利の上の少し安定の悪い道を走っているので少し振動するし、早く走ることは出来ない。道の片側には申し訳のような茶畑がある。誰が栽培しているのか、飯田かおりにはわからなかった。茶畑の隣りには農作業で使うための道具や材料が収納されている掘っ建て小屋がある。そのまわりは木の杭が打ち込まれていてその杭を一回りするように針金が巡らされているのだがその針金もすっかりと錆び付いている。その掘っ建て小屋の軒の下には長い竹が荒縄で結ばれてぶら下がっている。その掘っ建て小屋の前には飯田かおりの家と同じように南天の木が植わっていて赤い実をつけている。その茶畑を越えるとぜんぜん手入れをされていない畑が続いた。畑のうしろのほうは孟宗が生えたいように生えている。地面が孟宗の落とした薄黄色い葉で覆われている。道はゆっくりと坂になっていて飯田かおりが二十分もペダルを漕いでいると坂を上がりきった場所に出た。その坂も来る途中に上がったり下がったりしていてここが坂の頂上になっているんだ、とわかったのはそこからさきが明らかに下り坂になっていてそのまままっすぐ行くと小さな山の中腹にぶっかってしまう。そこを左に曲がると竹藪の中に人の通れる小道があってもちろんそこも自転車で行けるようになっているので飯田かおりはその道を行くことにした。五百メートルくらいそのやぶの中の道を走り、やぶが途切れると急に坂になっていてゆるやかなすり鉢のようになっている場所にどろの色をした水が溜まっていて大きな葉っぱを持った水草が途中からするどい角度を持って茎が折れているのがたくさん水中から首を出している。男女不問と変な文句の書かれた看板が立っている。これがおおさんしょう沼だと云うことが飯田かおりにもわかった。まわりを孟宗と林に囲まれているので昼間から薄暗い。沼の真ん中には岡倉天心がどこかの海岸に建てたようなお堂のような住まいのようなものが建っていて沼の右手のほうからところどころ朽ちて穴のあいた小橋がついていて行けるようになっている。ますます飯田かおりのこわいもの見たさの欲望が刺激されて飯田かおりはその小橋を渡ってその六角堂の中に入ってみることにした。飯田かおりはその小橋の入り口のところに自転車をとめた。六角堂もその橋も古い木造の建物特有のオリーブグリーンに大量に白い絵の具を混ぜたような色をしている。その小橋を渡って行くと橋の途中の板が朽ちていてその下に名前のわからないうちわよりももっと大きい葉っぱがうかんでいる。こんなところに来る人はほとんどいないように思われる。沼の中央まで来ると六角堂の入り口の戸は開いていた。入り口の中から六角堂の中央が見えたのだがそこにはまた奇妙なものが置かれていた。六角形の上がり框のようなものがしつらえられていてその上に木製の像が置かれている。その像がまた奇妙なものだった。大きなおおさんしょううおがとぐろを巻いてひれ伏している上に吉祥天女がそれを踏みつけているように立っているのだ。これがどのような仏教的な教義にもとづいて立てられたものではないことはあきらかだった。その奇妙な立像に目を釘付けにされていると飯田かおりは心臓が飛び出すほどびっくりした。
「久しぶり」
入り口のかげからにゅっと首を出した者がいた。
「上田先生」
背振無田夫の指導教官であった上田がここにいたのだ。いつもはと云うよりも光太郎の母校で会ったときはフランスのどこかの宮殿の屋根で魔よけになっている魔物のようにぶっちょうづらをしていたのにここでは笑みを浮かべている。
「驚かせないでください。びっくりしましたわ」
「ふふふふ。びっくりさせて申し訳ない」
上田は口をもぐもぐさせてあやまったがやはりにやにやしていた。上田はレンズの上がエボナイト、下が金属になっている眼鏡のつるをいじくってまた空気のもれたような笑い声をあげた。そのとき目尻のしわが変な具合にできた。
「ふひょ、ふひょ」
「なんで、ここにいるのですか」
飯田かおりは上田の研究室で「しあわせか」などと云う変な質問をされたときからこの変人の学者には反感を持っていたが、なぜここに上田がいるのかは疑問に思っていたのでむげにも出来なかった。
「ここは研究の宝庫だよ。弘法池を筆頭にしてね。もちろんここもだ。三輪田さんはここがおおさんしょう池と呼ばれていることを知っていましたか」
「ええ、駅の観光図会で見て知っています。それで興味を持って来たんです」
「愚劣じゃ、愚劣じゃ、ここの学問的価値はそんな観光図会にのせるほど低級なものではない」
「愚劣」
飯田かおりは驚いて上田の顔をじっと見た。学問的なことなど飯田かおりが知るわけがない。だいたいいっぱんの人間がお祈りのときに祈祷師が祭壇の燃える火の前にあげるのがさんまのしっぽなのか鮭の頭なのかと云うことなどなんの興味もないだろう。煎じ詰めて云えば上田にしろ死んだ背振無田夫にしろさんまか鮭かに興味と云うよりも第一の主眼にしている人種と言えるだろう。飯田かおりはたぶんこの上田と云う学者が日常生活における精神活動は単純な人間なのではないかと思う。しかし、その研究生活においてはどんな思考回路を有しているのかわからない。ただふだん会いたいと云う人間ではないことは明らかである。そしてただたんに日常生活における単純な反応の仕方がある部分くずれているのではないかと思った。げすな言葉で言えば変態だと云うことではないか、古代の半ば化石となった人骨にあるやじりのあとを見て性的興奮を覚えるのではないかと思った。しかし、そういった方面にはまったくのなんの知識も素養もない飯田かおりではあったが光太郎とふたりで背振無田夫の遺品の研究を彼の研究室に届けた結果ではないかと云うことはわかった。それでこの変人の学者がこの土地に興味を持ち、飯田かおりにもこころを奪われているのではないか、しかし、上田の少し残っている男の部分を飯田かおりが刺激していることを彼女自身は知らなかった。
「背振無田夫さんの遺品からここに目を付けたんですか」
すると上田はなにも言わずににやりとした。飯田かおりの予想は当たっているらしかった。六角堂の内部のはじのほうに上田の研究道具が入っているらしいリュックが無造作に投げ出されている。飯田かおりはこの年になってもひとりも弟子もいず、リュックを背負ってこんなところにとぼとぼとやって来た上田を少し哀れになった。しかし飯田かおりはそれを上田が望んでいると云うことを知らない。ひょこひょことリュックひとつで研究対象の場所へ行き、弟子は死んだ背振無田夫だけで満足していたのだ。
「背振無田夫はやはり天才だった。自分の弟子であることを誇りに思うよ。自分がもしここに住めなかったら飯田かおりさんのご主人にここに住まわせるように遺言を残したそうですね」
「ええ、そうです」
「じつはわたしもこの町に引っ越して来たのですよ」
いつのまにか上田の顔は学者のそれに変わっていた。
「いつですか」
「五日前」
「お勤めは」
「通勤時間は二倍になったけど通えない場所ではない」
「本当ですか」
飯田かおりは不快感を押し隠した。こんな変人に近所に住まわれるのはいやだ。
「ここはわたしの研究の宝庫ですよ。そしてあなたも」
あやしい光が上田の目に光った。
そう言った上田の口調にはたしかに男が女にみせる不純なものがあった。変人と云っても特別に上田が性の倫理観が欠如しているというわけではないかもしれない。そこにはふたりだけしかいなかったからだ。それもふだんは誰も来ないような場所だった。そこで飯田かおりと顔をあわせているのである。
「なんでわたしが宝庫なんですか」
飯田かおりはぷりぷりして口をとがらした。
「あなたはどこの出身ですかな」
上田は学者らしくもなくにやにやして飯田かおりに聞いた。
「どこでもいいでしょう。わたし帰ります」
飯田かおりは向こうを向いたがやはり上田はにやにやしている。そのことを飯田かおりは知らなかった。飯田かおりは六角堂の橋を渡りきると自転車のところに行き、スタンドを跳ね上げてまたサドルにおしりを乗せた。
「なんでわたしが宝庫なのよ。失礼だわ。わたしの生まれ故郷がどこでもいいじゃない」
飯田かおりはかっかしながら自転車のペダルをふんだ。頭の中には上田のいやらしい顔が残っている。その映像を振り払うようにペダルを踏む足に力をいれた。そしてまたもと来た道を帰ることにした。飯田かおりの怒っている精神状態は自転車の運転を不安定にした。ハンドルが必要以上にふれて、来る道の途中にあった茶畑が見えるところまで来たときに道のはたに寄りすぎて落ちている小枝をはねあげた。はね上げた小枝はどういう具合かチェーンと前の歯車のあいだにはさまった。飯田かおりは空ペダルをふんだ。ペダルを踏む足に力が入らなかった。
「きゃあ」
飯田かおりは自転車から降りて横から自転車を見るとチェーンがはずれている。飯田かおりは困った。ここから自転車を押して帰るのは大変だ。この時代には携帯電話などと云うものはなかった。もちろんここはど田舎で近所に電話があるとは思えない。ここに一時的に自転車を置いて帰ろうか、飯田かおりは思案に困って自転車を見ていた。すると誰かの視線を感じた。
「チェーンがはずれただべか」
「ふん」
飯田かおりが鼻を可愛く鳴らして振り返ると中学一年生ぐらいの坊主頭の男の子がものおじをしながら飯田かおりの方を見ている。全体の印象から中学の一年生だと飯田かおりは判断したのだが平均に比べると少し背が低いかもしれない。どことなく天文クラブにでも入っていて理科室の二階から夜空をにらんでいるかもしれない。そしてクラブの発表会には大きな模造紙にガラス瓶に入ったマジックインキで天体図を描いている姿が飯田かおりの頭に浮かんだ。ごくごくふつうの中学生に見える。
「近所の子」
「うん」
たぶんむかしから代々ここに住んでいる家の子供なんだろう。
「おねえさん、道具があるから直せるよ。あの茶畑の向こうに掘っ建て小屋が建っているだべ。あの中に大工道具が入っているからな。ドライバーもレンチもあるだべ」
「かってにそこのを使っていいの」
「いいだべ。あれはうちの家の持ち物だべ」
坊主頭は上目使いで飯田かおりのことを見ている。そしてさびた鉄条網で囲まれたどこの田舎にでもあるような納屋のほうを見た。納屋の軒先には女郎蜘蛛が巣を張っていて黄色と黒のしましまの体で獲物をねらって巣の中央のあたりで逆さになりながらじっとしている。飯田かおりは既婚者ではあるがおねえさんと呼ばれてうれしかった。
「ええ、いいわ。行きましょう」
朽ちた木の入り口が道に面した逆のほうにあってそこから入れると飯田かおりは気付かなかった。光が漏れている。その光はこの掘っ建て小屋の板と板の継ぎ目から入り、さるかに合戦に出て来るような農家の古道具に当たって、光と影の境界を明確に形作っている。こんな大きな臼は久しぶりに見たような気がした。そして光の当たっている中で飯田かおりの目をひいたのは壁に立てかけてある折り畳み式のイーゼルだった。そのイーゼルには書きかけの絵がかかっている。それがルノアールの裸婦像の模写だと云うことはすぐにわかった。
「家族の中に絵を描く人がいるのね」
「うん」
中学生は恥ずかしそうにうなずいた。その返事の口調も少しなまっている。この大画家が陶器工場の絵つけ職人から出発したと云うことを飯田かおりも知っていた。その腕を見込まれて画家としての道を歩み始めて印象派と歩みをともにしながらそこを離れて女性の裸体画に生命を表現しようと試みた。もちろんその挑戦は成功したわけだが晩年は手が不自由になって手に絵筆を縛り付けて絵を描いたと云うことや、視力が衰えたこと、豊かな色彩がその絵の具の薄塗りの技法から生じていることは知らなかった。その模写が色鮮やかなことは漏れた光がそのキャンパスにあたっているからだろう。中学生はそのキャンパスのところに行くとあわてて絵を裏返した。そのイーゼルの足のそばには薄い茶色をした絵の具箱があった。そこから少し離れたところに脱穀機やくわやすきがあった。そして農作業の道具の横に置いてある工具箱を取り上げると道においてある自転車のほうに行ったので飯田かおりもそのあとをついて行った。
「簡単に治ると思うよ」
中学生の口調はやはりぶっきらぼうだった。中学生がかがんで自転車のペダルを持っているのを飯田かおりは上から見下ろしていた。中学生は工具箱からドライバーを一本取り出すとチェーンとペダルのほうについているギャーの下のほうに入れてペダルを逆回転させるとすんなりとチェーンはギャーにおさまった。
「ありがとう」
「またはずれるかも知れないだべ」
中学生はまた道具箱からスパナを取り出すと今度は自転車の後輪のほうについているチェーンの張り具合を調節するナットをいじってまたペダルを持って後輪を回転させた。
「これでいいだべ」
「ここのお茶畑も君の家でやっているの」
「そうだべ。でもこんなぐらいの茶畑では小遣いぐらいにしかならないだべ」
農家の経営と云うのは思ったよりも大変なのかもしれない。それがこの中学生の頭の上からおおいかぶさっていて頭の上から木槌でたたかれているように自分自身を縮ませているのかも知れないと飯田かおりは思った。
「ありがとう。君の名前はなんて云うの」
「いいだべ」
中学生はやはり飯田かおりを上目遣いで見るだけで何も言わない。
「わたしは弘法池に新しく建て売り住宅が出来たじゃない、あそこに住んでいるの」
「知っているだべ」
そう言った中学生の声は小さくて飯田かおりにはよく聞こえなかった。飯田かおりはまた自転車にまたがるとペダルにかけた足に力をこめた。中学生のくちびるがかすかに動いてなにかを言おうとしたが声は出てこなかった。それだけだったらその中学生のことを飯田かおりは忘れていたかも知れない。
 駅のそばにある煎餅屋の横に細い道があってそのさきがゆるい坂になっていてのぼって行けるようになっている。その坂のさきのほうが赤や桃色の色で満たされている。買い物にこの町のメインストリートのほうに来るたびに飯田かおりはその色が気になっていた。思い切って煎餅屋の横に自転車を止めてその小道を登って行こうと思った。その赤や桃色はつつじの花の群生だった。しかしそれは人工的に植えられたものだろう。そこはゆるやかな坂になっていてつつじの花の花畑になっている。しかし道がついていてさらに上のほうにあがれるようになっていたので飯田かおりはその道を上がって行った。すると高さが二メートルもありそうな大きな御影石の柱が二本立っていてその柱の並びには塀があるはずなのに塀もなく、きっとその敷地のまわりを塀で囲む計画があったのになにかの理由で立派すぎる門柱だけを作っただけで塀を作る余裕がなく、計画は途中でとん挫してしまったのだろう。その敷地の中には人もいない染め物工場らしい建物がひっそりと建っている。飯田かおりは赤ん坊の泣き声を聞いた。しかしそれは赤ん坊の泣き声ではなかった。その稼働していない工場の軒先にダンボールが置かれていてその中で子犬が泣いている。飯田かおりは興味を持ってそのそばに行った。そこに行ってダンボールの中の子犬を見下ろすと哀れっぽい表情で子犬は飯田かおりのほうを見て泣いている。飯田かおりは買い物に行ったばかりなのでその買い物かごの中にビスケットのあることを思い出した。飯田かおりがくだいたビスケットを与えると捨て犬はむさぼるようにそのビスケットを食べ始めた。その食べている姿を見ると飯田かおりはおおいに満足を感じた。飯田かおりはその子犬をしばらく見ていた。するとどこから来たのか玉子を順当に立てたような頭のはげた六十才くらいの男性がそこに立っている。
「困るんだよね。かってに捨て犬に餌をあげるようなことをすると、野良犬もここに寄って来るし、犬を捨てる人間も出てくるからね。わしはここの家主なんだけど。もしかしたらここに今犬を捨てて別れを惜しんでいるところじゃないの」
「いいえ、違います」
「本当」