羅漢拳  第39回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第39回
誰もいなくなった校舎の端のところに音楽室はある。校舎の中に誰もいないのではなくて音楽室が校舎の端にあるから誰も来ないのだ。まるで病院の廊下のような音楽室へ行く廊下の天井の照明は消されていて、薄暗い。吉澤ひとみが音楽室の中に入ると教室の横に置いてあるドラムの金属の光沢が目に入った。教室の前方の黒板の横には今度来日予定の音楽家のポスターがコルクの壁に画鋲でとめてある。強制的に行かせるというわけではないが、音楽の教師がそれの関係者とのつながりからその公演のポスターを貼っているのだ。吉澤ひとみはそこに行こうという気はなかったのだが、ちらりと見たそのポスターに記憶があってその内容を確かめに来たのだ。だいだい色と黒の二色で刷られたポスターだった。掲示板のところに少し斜めに貼ってあるポスターを見ると,たしかにお目当てのものはある。クリストフ、ルカッチ、チェロ演奏会、場所は喜多野公会堂、二千年十月二日から十月二十一日という公演の内容が書かれている。それは下谷洋子の手帳の謎と一致している。犬の殺害事件に関して、その調査に現れた下谷洋子が特別の日として予告しているのが十月十一日である。大阪府警ではその十月十一日という犯行予告の日が指定されても誰にもその日が何を意味しているかわからなかった。江尻伸吾は村上弘明と吉澤ひとみの二人を自分のワゴン車に乗せて神戸港に来ていた。少し高台になっている場所に車を停めているので神戸港が一望できる。港の中に泊まっている外国汽船のライトが点滅している。江尻伸吾の乗っているワゴン車にはコーヒーサーバーも積み込まれているが、紅茶も飲めるようになっている。江尻伸吾は二人に紅茶を差し出した。港の風景に目を奪われていた二人は背後から江尻伸吾が紅茶の入ったカップを差し出すまで気がつかなかった。
「紅茶が入ったでがんす」
「ありがとう」
「何に心を奪われていたでがんすかな」
「兄貴、そんなぼんやりした顔をしていた」
村上弘明と同じように港の景色に心を奪われていた吉澤ひとみは自分の兄のその最近の変化には少しも気付いていないようだった。
「うそつけ、この風景があんまり、きれいだったからだよ」
「うそ、つくな。何か、あるんだよ、兄貴、白状しな」
江尻伸吾は一人、悟りきった坊さんのように紅茶をすすっている。しかし、うれしいことがあると人に言いたくなるものである。
「昔の憧れの君に出会ってね」
「どこで」
吉澤ひとみはひどく興味を持ったのか、顔を伸ばして村上弘明に聞いてきた。しかし、江尻伸吾はどこから持って来たのか、プリンを手に持ってスプーンでしゃくって、食べている。
「だめ、教えなきゃ」
「君にも、知らない、わが、青春の日々があるわけだよ」
「もう、兄貴の、いじわる」
江尻伸吾は一個目のプリンを食べ終わって舌を伸ばしてその底をなめていた。兄弟げんかをやり始めないとも限らないので江尻伸吾はあわてて話題を変えた。彼自身もプリンを食べ終えてほっとしたのかも知れない。
「あざみの塔にかかってきた電話はいたずらではないとミーは思うでごじゃる。」
「わたしもそう思うわ」
「ありがとうでごじゃる。それがなぜ、いたずらではないかと思うかと言えばでごじゃる。下谷洋子が残したと言われる手帳の暗号を解読した結果、犯行予告の日と手帳に書かれている日が一致しているからでごじゃる」
「その電話が犯人、もしくはただのいたずらではないということは、クリストフ、ルカッチの喜多野公会堂での公演と一致しているということ以上に重要な部分があるのですね」
「そうでごじゃる。ミーは知らなかったでごじゃるが、クリストフ、ルカッチはいつも公演を行うときは自分の十二匹の犬をどこに行くにもつれて行くという話でごじゃる。公演会場にもつれて行くという話でごじゃる」
「犯人はその犬を狙っているのに違いないわ」
「そうすると、その犬たちを守るのは比較的簡単でごじゃる。ミーが調べたところによると公演会場でいつもクリストフ、ルカッチは自分の犬たちを待たせておく部屋を確保しておくように興業主に契約として入れておくようでござる。だから、その部屋を監視しておけばいいでごじゃる」
「警察の応援も頼むんですか」
「ひとみ殿は大阪府警の中でのミーの立場を知らなさすぎでごじゃる。そんなことを言っても笑われるだけでごじゃる。もっと悪い状態を想定すれば、ミーの犯罪捜査研究所は閉鎖されて、ミーはどこかにとばされるかも知れないでごじゃる」
「じゃあ、われわれ三人で犬たちの護衛をするということですか」
「そういうことでごじゃる」
「わたしには新聞部の友達がいるの。信用できるわ。松村邦洋と滝沢秀明というんだけど、同じ高校生よ」
「うーん、むずかしい問題でごじゃる。しかし吉澤ひとみ氏が信用するというなら、その御仁にも協力を頼むでがんす」
「そうなら明日にでも学校で二人に事情を説明するわ」
十月十一日の朝がやってきた。村上弘明が吉澤ひとみと松村邦洋、滝沢秀明の二人を車に乗せて、喜多野公会堂の従業員入り口のところにやってくると、すでに江尻伸吾はやって来ていて、そこで待っていた。赤煉瓦の壁に古ぼけた鉄製のドアがついていてそこが従業員の入り口だった。その入り口のところには二段くらいの階段があってその階段の上がったころに江尻伸吾は頭から巨大なヘッドフォンをかぶってしきりに頭を左右に振っている。従業員入り口といってもそこから出演者が出入りするわけではなく、大きな楽器や舞台装置も出し入れする関係から出演者の出入り口は別にあった。世界的なチェロ奏者クリストロフ、ルカッチとその犬たちもそこから喜多野公会堂の中に入ったらしかった。
「もう、すでに、クリストロフ、ルカッチはこの中にいて、リハーサルをやっているでごじゃる」
静かな弦楽器の響きが建物の中からもれて来る。
「クリストロフ、ルカッチ氏を見たんですか」
松村邦洋が江尻伸吾を見ながら聞いた。
「見たでごじゃる。たくさんの犬たちと一緒に入って来たでござんす。そうそう忘れていたでござんす。特別な身分証明書を、報道機関の証明書を作っておいたでごさんす。みんな、これを持って欲しいでござんす。これがあればこの公会堂の中ではどこでも入って行けるでござんす」
「肝心の彼の犬たちの部屋は」
「この入り口から入ってすぐ左側の部屋でござんす。プロモーターと話をつけてあっしがその犬の面倒をクリストロフ、ルカッチが演奏をしているあいだ、見ることになっているでござんす。だから、その部屋に二人ばかり、かかりきりで犬の監視を続けていれば、犬殺しの魔の手から犬たちを守ることはできるでござんす」
「その係りは僕たち二人がやりましょう」
吉澤ひとみがつれて来た二人の新聞部員が名乗り出た。
「それならそれを頼むでござんす。犬たちは全部で十二匹いるでござんす。あっしがその部屋につれて行きゃしょう。犬の世話をそのするためのものはその部屋の中に全部、用意されているでござんす」
「観客の入場は何時からなんですか」
「十時四十五分からでござんす」
「江尻さん、じゃあ、わたし、公会堂の中を見て回って来る」
「私もこの中に不審な人間がいないか、見てまわりましょう。地下室なんかにも行けるんですよね」
「もちろんでござんす」
吉澤ひとみは前に一度、この公会堂にある劇団を見に来たことがあったが従業員の入り口からここに入ったのは初めてだった。天井には太い冷暖房の管がはしっている。細い管は電気系統の管かもしれない。無造作に白いペンキで道順などが壁に書かれている。その天井の管に沿って歩いていくと、左側から上に登っていける階段がいくつもある。特別に江尻伸吾の捜査がここで行われているということは、この公会堂の中の人間は誰も知らないから、いつものように静かである。この廊下を歩いていると一つの階段の下からビロードのような調べが聞こえてくる。吉澤ひとみはその階段をあがっていった。階段を上がりきるとその音はさらに大きくなった。上がった場所は廊下には絨毯が張られ、部屋には立派なドアがついている。そこから、音がもれていたのだ。吉澤ひとみにも察しがついた。クリストロフ、ルカッチは舞台の上でリハーサルをする前に自分の控え室で楽器の調子を整えているのだろう。短い小節をとぎれとぎれに繰り返しているだけなのだが、吉澤ひとみはその音にすっかりと耳を奪われていた。するとが外国人らしい老年といってもいい女性が吉澤ひとみの横に立っていて、聞いたこともない外国語で二言三言、はなしかけて来たので、彼女は自分でも、なんと言ったのか、憶えていない言葉を言って、あとずさりをした。するとその女性はほほえんで、そのドアをあけて入って行った。その女性がどうやらクリストロフ、ルカッチ夫人らしい。その部屋の中では楽器の響きがとだえて、話し声が聞こえた。あわてて吉澤ひとみはその場所を離れた。吉澤ひとみは今度はその廊下をさらに行き、下に降りていく階段の先に進むとホールの前の談話室のようなところに出た。そこには観葉植物がところどころに置かれていて、そのそばにはソファーもあった。少し離れた場所に売店がおいてあり、その従業員が不審な顔をしているので、これは自分が入場客であり、開演前に入って来たのだと勘違いしているのかしらと思ったから、そのそばに行き、自分の報道機関用の身分証明書を見せると納得した。
「今、ここで演奏会を開いている音楽家の人はいつも犬をつれ歩いているんですって」
「そうよ。十二匹の犬をつれあるいているの」
「今日は休日だから早めにお客さんが入ってくるかもしれない」
「忙しくなるかもね」
「そうでもないんですよ」
「この期間中、何か、おもしろいうわさとか聞きませんでしたか」
「うわさってどんなもの」
「なんでもいいんです」
「いえ、別に何も聞いていません」
「あら、今、何時かしら、もうすぐ十時四十五分じゃない、客の入って来る時間だわ」
吉澤ひとみはその場所を離れた。入場口から客が入ってくる時間だったからだ。客は正面の出入り口からしか入って来ない。ものかげから隠れて入って来る客を観察しようと吉澤ひとみは思っていた。正面入り口のそばに行くと吉澤ひとみの目的にかなった場所が見つかった。そこに隠れて正面入り口の方を見ているとガラス戸の向こうの方にこれから入ろうとする客が並んでいる。十時四十五分になると係員が正面入り口のドアをあけ、いっせいに客が入り始めた。その客たちを見ていても、その中に犬の殺害目的で入って来る人間がいるか、吉澤ひとみにはわからなかった。肩口のあたりで吉澤ひとみは声をかけられて、振り返った。
「吉澤さんやない。こんなところで何をしているんや」
「あら、深見さんじゃない。あなたこそ、ここになぜいるのよ」
「演奏会に来たんやないの。チェロの演奏を聴きに来たのよ」
吉澤ひとみを驚かせたのは、同じ高校に通う漫画を描くことを趣味にしている深見美智子だった。彼女は自分の飼っている犬に関係して、彼女の家にインチキ商品を売りつけに来た下谷洋子というセールスマンのことで相談に来た女の子だった。もちろん、彼女は江尻伸吾が解読した下谷洋子の手帳の内容から、この十月十一日が特別な意味をもっていて、あざみの塔にかかってきた脅迫電話が犬の殺害の日をその日に指定していること、手帳に喜多野公会堂のことが書かれていることによって、江尻伸吾がやまをかけて、この日、この場所、つまり喜多野公会堂のクリストロフ、ルカッチの演奏会の会場で、つねに十二匹の犬をつれ歩いているという、彼の飼い犬が殺されると判断したのだった。もちろん、深見美智子はそのことを知らないだろう。
「なんで、ここにいるかって、音楽の阿久津先生に券を無理矢理に買わされたのや」
「また、なんで、深見さんは音楽会へ行くことを趣味にしているとは聞いたことがないけど」
「今度、描く漫画のためや、今度、大阪で漫画の自主出版の大規模なフェスティバルが開かれるやろ、そこで売る漫画の主人公を音楽家に設定しているんや、それで、音楽の阿久津先生に相談したら、音楽会ぐらい聴きに行かなきゃだめだと言われて、阿久津先生が知り合いの音楽家からこの演奏会のチケットをゆずってくれたというわけや」
「そうなの」
「そういう、吉澤さんはなんでここにいるんや」
「学校新聞でクリストロフ、ルカッチのことを取り上げようと思って」
吉澤ひとみは口から出任せを言った。
「そうなんや」
「だから、松村邦洋くんも、滝沢秀明くんもここに来ているのよ。どっかにいると思うんだけど。深見さんの席はどこなの」
「右側の前から三番目の席、Tの三番よ。吉澤さんの席は」
「私は取材に来ただけだから、チケットは取っていないの」
「学校新聞にわたしの演奏会の視聴記をのせてちょうだいよ。イラストも少し描かせてもらうわ」
「ありがとう」
吉澤ひとみが深見美智子と話しているあいだ客はすっかり演奏会場の方に入ってしまい、正面入り口から入って来る客もまばらになった。吉澤ひとみがクリストロフ、ルカッチの犬を預かっているという部屋のドアを細めにあけると、松村邦洋があわてて手を振った。
「だめだめ、しめて、しめて、早く、部屋の中に入って」
部屋の片隅に毛糸玉のようなものが固まっている。松村邦洋と滝沢秀明のまわりに十二匹の小型犬がまとわりついている。ポラネシアンだ。水木しげるの漫画に出て来る毛玉という妖怪のように見える。二人の間にまとわりついているのも、もっともで二人の手には乾燥肉が握られていた。えさで動物をつろうという魂胆である。いくら動物が馬鹿であると言っても、犬が満腹になってもこの方法が使えるのだろうか。
「そんなにえさを食べさせて平気なの。おなかでもこわして死んでしまったら、警戒している意味は全くないわよ。動物は馬鹿だから、えさをあげればいくらでも食べるけど」
「江尻さんが、えさをあげていれば、静かにしているって言ったのや」
「そんなことよりドアのところに金網でも張っておいた方がいいんじゃないかしら。ほら、そこに金網があるわ。江尻さんは」
「公会堂の中を見てまわると言って出て行ったわ」
「兄貴は」
「ああ、村上弘明さんも出て行ったわ」
松村邦洋が犬の頭をなでながら言った。村上弘明は舞台の上のカーテンの陰から観客席の方を見ていた。演奏が始まる前、プログラムをめくるかすかな音が聞こえる。ここで客席を監視することが不審人物を発見する一番効果的な方法ではないかと村上弘明は判断したのだ。江尻伸吾はどう思っているのか、わからない、江尻伸吾は江尻伸吾でどこかで不審者を発見しようとして、公会堂の中を動き回っているのだろう。村上弘明は江尻伸吾から犯罪捜査のための道具を借りていた。それは外科手術のための機器を改良したもので、数ミリの隙間から百五十度の視野で部屋の内部を観察する装置だった。舞台の裏の壁にうまい具合に穴があいていてそこからその装置を使って観客席を見ることができた。もちろん、村上弘明にこの位置から見られているということを知っている観客は一人もいない。観客はそれぞれ、隣に座っているつれに向かって談笑したり、プログラムをぱらぱらとめくって出演者の経歴を参照したり、作品の背景を見たり、また、自分の持って来た本や新聞を読んだりしていた。そしてやることが何もない人間は目をつぶって黙想しているのか、寝ているのか、わからない。それらの観客たちを一人一人、目で追って行った村上弘明だつたが、そこに吉澤ひとみと同じ高校に通う深見美智子にも目がとまったが、彼女のことをすっかりと忘れていた。しかし、その目の動きもある一点ですっかりと止まってしまった。村上弘明の目はある人物に釘付けになってしまった。それは女性である。
「彼女、なんでここにいるんだ」
村上弘明を驚かせると同時に彼の表情をゆるませるのに充分な女性だった。
「志水桜さん」
村上弘明は心の中でつぶやいた。
「ぐふふふふふふ」
高校時代のときをへて十数年ぶりに再会した志水桜は村上弘明の心のオアシスだった。彼女が福原豪に関する重要な情報を与えてくれたというだけではない。岬美香に利用されていただけの自分に気づいたとき、神々しくあらわれた村上弘明の女神だったのだ。村上弘明は彼女のことを思うと幸せな気分になれるのだった。それは彼女との間の遠い昔の美しい、想い出を基盤にしていた。十数年ぶりに出会った彼女は昔のままに美しかった。さらにそのうえに大人の色気まで身につけていたのだ。
「ぐふふふふふ、結婚、結婚」
村上弘明のお気楽な空想はとどまるところを知らず、彼女との新婚生活まで、その人生設計に織り込んでいるのだった。そして、村上弘明は彼女がなぜ、ここにいるのか、考えることまで放棄していた。志水桜はその端正な横顔を村上弘明の視界に与えながら、プログラムに目を通している。とにかく、この演奏会が無事に終了したら、志水桜に声をかけようと村上弘明は思った。村上弘明がポメラニアンの宿に戻って来ると、江尻伸吾もそこに戻っていた。吉澤ひとみは自分の兄のふやけた顔の変化に気づいていた。
「どうしたのよ、兄貴、ふやけた顔をして」
「なんでもないよ」
「きっと、何か、うれしいことがあったんだわ。兄貴、白状しなさい」
犬たちと遊んでいた松村邦洋と滝沢秀明も村上弘明の方を振り向いた。村上弘明は隠しきれない内心の喜びを悟られては馬鹿にされると思ったのでわざとむずかしそうな顔をした。
「江尻さん、来ているんですよ。福原豪に関する情報提供者が、志水桜がこの演奏会の会場に来ているんです」
「川田定男が紹介したという、女性でござんすね。あっしも参考のためにあとで見に行くでござんす」
「わたしも行く」
吉澤ひとみがそう言うと村上弘明は複雑な表情をした。
「でも、なんで、ここに来ているんでござんすか」
「知らないですよ。ぐふふふ」
「あっ、そうだ。知っていた。クリストフ、ルカッチって、演奏会に犬だけをつれて来るんじゃないのね。奥さんもつれてくるみたいね」
「なんで」
「クリストフ、ルカッチの奥さんを見たのよ、チェロの美しい響きが聞こえて来たから、その場所に行ったら、控え室の中でクリストフ、ルカッチがリハーサルをしていたの、そこに外国の女の人が来て、その部屋に入って行ったから、あれが彼の奥さんなんじゃないかな」
「初耳でござんす」
「あっ、僕、そのことを知っていますよ」
クリストフ、ルカッチの奥さんって彼のマネージャーもやっているんですよね。ハンガリーの動乱のとき、彼が外国に脱出するときの援助もしたんでしょう。音楽ファンなら常識らしいですよ」
「初耳でござんす」
そういうことに疎い江尻伸吾は驚いた様子だった。
「あっ、そうだ。忘れていた。松村くん、深見美智子さんもこの演奏会に来ているのよ。音楽の阿久津先生に聴きに来るように言われたんですって、今度、描く漫画の参考にするんですって」
「深見さんも来ているの」
「偶然の一致だとしたらおもしろいなあ」
松村邦洋はポメラニアンの喉仏のあたりをさすっていた。
「ずいぶん、その犬たちも君たちになついているみたいね。乾燥肉を大部、やったみたいじゃないの」
「それほど、やっていないよ。僕たちの気持ちが伝わったんだよ。なぁ、滝沢」
「でも、あなたたちが動物を可愛がっているのをあまり見たことがないんだけど、きっと飼い主だと思わず、自分の仲間だと思っているんじゃないの」
「ひどいなぁ、吉澤さんは、お兄さんからも何か、言ってくださいよ」
「せっかく、S高のマドンナとか、言って持ち上げてくれる友達なんだから、もっと優しい言葉をかけてあげなさい」
「やだわ、いつも顔を合わせているクラスメートなのに、そんなことを言われたら、気持ち悪いでしょう。滝沢くんもそう思うでしょう」
「僕はそうでもないけど」
「とにかく、あっしの思うところ、この犬たちの毛一本、けがをさせず、この犬を殺害しようとする犯人をつかまえることでござんす」
「江尻さんは怪しい人物を見つけましたか」
「皆目」
「この場所ではなく、クリストフ、ルカッチが帰路につくときに摩の手が伸びるのかもしれませんね」
そのとき、ポメラニアンの館のドアをたたく音が聞こえた。
「誰でござんすか」
「深見美智子です。吉澤ひとみさんと同じ高校に通っています。吉澤ひとみさんがここにいると聞いたので来たんですが」
「深見美智子さんだわ。今、あけます」
ドアを細めにあけると、深見美智子が中に入って来た。深見美智子の家も犬を飼っていたので、たくさんの犬がいるのを見て、深見美智子も嬌声をあげた。
「まあ、可愛い。誰の犬」
「クリストフ、ルカッチの飼っている犬よ、」
彼女もそのことを知らなかった。しかし、本当の犬好きということを、ポメラニアンたちもわかるのか、深見美智子が部屋の中に入って行くと、犬たちもうれしそうに吠えたてた。深見美智子は犬たちのそばに行くと腰をかがめて犬たちの首をさすった。乾燥肉を差し出さなくても子犬たちは深見美智子にじゃれついた。腰をかがめていた深見美智子は首を吉澤ひとみの方に向けて、彼女の顔を仰ぎ見た。
「忘れていた。忘れていた。大切なことを言うのを忘れていたわ。吉澤さん、来ているのや、来ているのや」
「誰が」
「下谷洋子や、客席の中で見かけたのや、向こうも気づかなかったみたいやから、吉澤さんに報告に来たんや、吉澤さんは下谷洋子の顔を見たことないやろ」
「下谷洋子って」
「なんや、もう忘れたのか、犬のいんちき器具の訪問販売員や、彼女の手帳の写しを渡したやないか、ちょっと男好きの顔をしているから、美人だと言う男もいるかも知れないやで」
「えっ、下谷洋子もこの場所に来ているのか」
村上弘明は興味津々な内心をけどられないようにわざと声を沈めて聞いた。
  ウーウーウー
そのときけたたましいサイレンの音が鳴り響き、廊下の側から火事だあ、火事だあ、といさけび声が聞こえた。江尻伸吾があわててドアをあけると、廊下は煙でもうもうとしている。ドアには金網が張ってあったので子犬たちが逃げ出すことはなかったが、突然の騒ぎにびっくりしたのか、きゃんきゃんと吠えたてた。廊下に充満した煙の中から、この公会堂の責任者がかけてくる。
「みなさん、心配しないでください、これは火事ではありません、ボイラー室の故障で冷凍庫の中のドライアイスが大量の煙を発生している模様です。ご心配なく、みなさん、落ち着いてください」
「ドライアイスの故障でこんなに廊下が煙りだらけになるなんてことがあるでしょうか、江尻さん」
「あっしもそう思うでござんす」
また煙の中から誰かが、叫びながら走ってくる。
「江尻さん、大変です。大変です。大変です」
その男は廊下に立っている江尻伸吾の方へ向かって、走ってくる。その後ろには意味不明の外国語をしゃべりながら外国の夫人がついて来た。
「桝沢さん、落ち着いてくれでござんす。
何があったでござんすか」
「クリストフ、ルカッチ氏の犬が、クリストロフ、ルカッチ氏の犬が」
男は息を切らして言葉が続かないようだった。村上弘明も、この男がクリストロフ、ルカッチの通訳だということを思い出した。
「クリストフ、ルカッチ氏の犬がどうしたでござんすか、犬は十二匹全部、ここにいるでござんすよ」
「そうでないです」
後ろにいる外国夫人も通訳に負けずおとらずおろおろしている。
「ここにいるのが、はあ、はあ、クリストロフ、ルカッチ氏の夫人なんですが、最近生まれた子犬を一匹だけ、つねに手元に置いて可愛がっていたんです。はあ、はあ」
「じゃあ、犬は全部で十三匹いたんですか」
「そうなんです、それでその一番、可愛がっている犬が、黒服面をした男が突然入って来て来て、その犬を夫人から奪いさって、公会堂の時計台に上がって行く階段を上っていったんです。上がって行く途中で、ドアにかぎをかけちゃったんです」
「吉澤殿」
「江尻さん、鍵は全部、預かっていますよね」
「もちろんでござんす。ひとみ殿とお友達はここに残って、残りの犬たちを守っていて欲しいでござんす。あっしと吉澤殿は賊を追って公会堂の屋上に上がるでござんす」
公会堂のちょうど中央のところにこの喜多野公会堂の屋上へ、さらに屋上にある時計台の最上部までのぼることができる階段があった。江尻伸吾はその階段の入り口まで行くと非常入り口のドアには鍵がかかっていなかった。
「おかしいでござんす、通訳は賊は鍵をかけて屋上に上って行ったと言っていたでござんすが、まあ、いい、とにかく、急ぐでがんす」
江尻伸吾は後ろを振り向くと、村上弘明のほかにもう一人人間がいる。深見美智子だ。
「わてもついて行かせてもらうで、漫画の題材に出来るやないか、よろしいやろ」
「あっしたちから、充分、離れているでござんす、何があるのか、わからないでござんすから」
非常階段をかけあがって行くと村上弘明の息は切れた。週に一度、ランニングをおこなっている村上弘明ではあったが、こんなことなら、もっと体力を鍛えておけばよかったと思うのだった。それでも屋上に出る出口が見えたとき、青空の中に人影が見えたので、村上弘明はびっくりした。
「なんで、なんで、あの人がここにいるんだ」
「吉澤殿、どうしたでござるか」
「あそこに、あそこに、出口に立ってい人」
「誰なんでござんすか」
「想い出のマドンナ、そして福原豪の情報提供者の志水桜です」
志水桜は時計台の方をじっと見ている。時計台の中程のところには黒い人影が小さな子犬の首輪に手をかけてこちらを見ている。
「来るな、来ると、この子犬を殺すぞ」
男は大声で叫んだ。江尻伸吾と村上弘明から遅れて深見美智子もふたりのところにかけつけて来た。そして屋上への出口に立っている人影をみつけると叫び声をあげた。
「江尻さん、江尻さん、あれや、あれや、あれが、犬のインチキ、販売員、下谷洋子なんだ」
「えっ」
村上弘明は絶句した。すると階段にしかけられていたらしい発煙筒が点火され、階段に煙りがみち始めた。村上弘明はさらに階段をかけのぼり、犯人と対峙している下谷洋子であり、志水桜である女性のところに行った。
煙の中で志水桜はその端正な顔を村上弘明の方へ向けた。深見美智子が男好きのするちょっと可愛いぐらいの女と言ったのは同性のねたみかも知れなかった。
「きみは一体、誰なんだ」
村上弘明は志水桜に詰問すると彼女の襟首をつかんだ。村上弘明が押している手は力があまって滑ると彼女の襟のボタンをはじき飛ばして、彼女の鎖骨のあたりがあらわになった。そこには伝説のフリーライター、神に指名された審判官の証、天秤のあざがあったのである。
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