羅漢拳   第23回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第23回
設計者
南海電鉄の泉大津駅で今泉寛司は待っていると電話で答えた。井川と栗林の住んでいる倉庫から井川が教えてくれた電話番号でK病院の設計者である今泉寛司に連絡がつき、今泉寛司は紀伊勝浦に建てる水族館の設計に関して泉大津に用があるので泉大津の駅でなら会うことができるという返事だった。高校生たちをのせて愛車のルノーを走らせた。途中で道路のはたにあるファーストフード店で四人は食事をすませた。有力な建築家に似つかわしくなく、駅の待合室で今泉寛司は待っていた。村上弘明がテレビ局でちらりと見たときは頭に動物の首をかぶせたような印象を持っていたのだが、地方の駅の待合室にいる今泉寛司はただの三十五才の男性に見えた。四人が今泉寛司の方へ行くと彼は挨拶をした。彼は日芸テレビに何度か出演したことがあり、そのために彼の知名度もいささか増えて仕事の依頼も増えたのかも知れない。異才の建築家は名を売る必要があり、テレビ局の方は鮮度のあるネタを必要としていた。この両者の欲求が一致していたために、日芸テレビと今泉寛司は接点を持つことができたのだ、村上弘明が彼に会いたいと言って会うことができたのも、ここに理由がある。もしかしたら今泉寛司は全国区で名前を売りたかったのかも知れない。今泉寛司は愛想を見せて手を軽く挙げて合図をした。彼にもルノーで駅に乗り付けて来たのでわかったのだろう。
「これから食事をするところです。この駅前に大正時代から続くという鍋料理の店があるんです。そこに入りますか。いえ、鍋料理と言っても、冷たいそばやうどん、蜜豆なんかも出しますから大丈夫ですよ。車はそこに停めておけば、ここらへんでは駐車違反はありませんから大丈夫ですよ。」
四人は大正時代から続くという鍋料理の店の前に立った。煤でくすんだ店構えは大正時代から続いているという歴史を感じさせる。店の屋根にかけられている変にねじれた年輪の看板に書かれた店の屋号の墨の色も長年の風雨のためにかすんでいた。四季のある国に育つ木は夏と冬では成長の度合いが違うから堅い部分と柔らかい部分ができる、だから柔らかい部分は凹んで、堅い部分は浮き出てくる。この店を作っている材木も木地のところは縞模様になっている。だからと言ってただ古いだけで乱雑に汚れているというわけではなく、年月が小綺麗に軟着陸していた。村上弘明をつれて今泉寛司がその店の中に入っても、たぶん、今泉寛司はその店の常連であるには違いないのだが、店員はとおりいっぺんの愛想をふりまくだけで素っ気がなかった。一階はランチメニューを中心にして大きな丸太を縦に裂いたようなテープルが五つぐらい適当に並べられていて五、六人の客が冷たいうどんを食べていた。天井には大きな古木の梁がある。天井は細い竹が張り巡らされている。一階の半分は調理場になっているらしい。一階の端に二階に上がる階段がついている。灰褐色な御影石はつるつるに磨かれていた。その一階を通ると、今泉寛司は吉澤たちを二階に案内した。
「二階に行くよ。」
今泉寛司は店員が二階に案内する前に吉澤たちをつれて二階に上がって行った。後からエプロンをつけた二十歳前後の女の子が彼らの後を追ってお盆にお茶をのせて上がって行った。古ぼけた店の外観に比べて店の中は随分ときれいになっていた。
「こういうところって。一階と二階では同じ料理を出しても値段が違うのよね。」
吉澤ひとみの言ったことは正しかった。二階で食事をするときは席料を別にとるのだ。二階の部屋は三つぐらい部屋が仕切られていて、そこで小さな声で話せば他人に聞かれずに話しができた。今泉寛司が連れてきた部屋はしいの木のような壁で囲まれていた。
「冷たいうどんにしますか。」
今泉寛司は他の四人の顔をちらりと見ただけで勝手に決めてしまった。
「僕が皆さんに食事をおごりますよ。」
今泉寛司はなかなか金持ちのようだった。他の四人が何か言いたそうなのを見越して今泉寛司は両手をテーブルの上で会わせて中国人のやるような挨拶の、手だけだが、格好をした。
「こう見えてもお金は持っているんですよ。冷たいうどんと言っても、そばに具もちゃんとついてくるんですよ。たらいが二つに受け皿が一つ、それにだし汁の入ったお銚子が一つくるんです。二つのたらいのうち一つはうどんが入っていて、もう一つの方には軽く湯がいたえびや魚介類、それにいろどりに野菜がついているんですよ。」
あくまでも自分のペースで話しを進めていく今泉寛司に吉澤ひとみは毒気を抜かれたような気がした。
「海老なんかも随分と新鮮なものを使っているらしいんですよ。持って来たおかみに聞いたんですよ。この海老、海で採れてどのくらいたっているのって。そうしたら、おかみの奴が今泉さん、海老語がはなせるなら、直接、聞いて見ればって。あはははは。」
たいがいのことではおどろかない高校生たちもすっかり毒気を抜かれてしまった。だいたい、どこがおもしろいのかよくわからない。今度は今泉寛司の方が滝沢秀明の方へ話しかけた。
「家を造っている外見から見た三要素ってなんだと思う。」
滝沢秀明は急に自分の方に声をかけられたのでとまどった。外見から見た三要素、それはすぐにわかった。しかし滝沢秀明が答える前に今泉寛司が答えた。
「屋根と壁と床だよ。この三要素があるから家は家でいられる。屋根は何と対話している。壁は何と対話している。そして、床は何と対話している。」
「屋根のない家というものもあるわ。イタリヤの映画館って屋根がないんでって。」
「対話をしているという言い方がよくないのかも知れない。対話を拒否していると言ったらいいのかも知れない。なぜならそれは情報の遮断のための障壁だからだ。」
「イタリヤの映画館に屋根がないなんて話しは聞いたことがないや、わてが聞いたことがあるのは夏なんか、夕方に映画を上映して、夕暮れには大部涼しくなるので、屋根を開け放して空気を入れ換えるという話しは聞いたことがるわ。」
「じゃあ、映画館も家の部類に入るのね。」
「だから、質問を変えよう。それらの障害物が何との対話をうち切っているか。屋根は天、だ。それは宇宙と言い換えてもいいかも知れない。宇宙から雨が降ったり、雪が降ったり、それは宇宙の信号だ、屋根はそれを遮断しているのだ。壁は社会だ。隣人の訴訟騒ぎ、うるさい物売り、自動車の騒音、子供の甲高い遊び声、じゃあ、床は床は家を人間にたとえるなら足に履いた靴のようなものだ。大昔の人間は足にくつなんか履いていなかった。大昔の人間は裸足で大地の鼓動を直接聞いていたのだ。十七世紀の最大の発見は何だと思う。このわれわれがよって立つ地球と天井に輝く星がこの地上と同じ力のために運行しているという事実、月も火星も木星も太陽も同じものに引っ張られて円運動をしている。この事実を発表したためにイタリヤの科学者ガリレオは宗教裁判に掛けられた。そしてりんごが木から落ちるのを見たイギリスの偏狭な若者がそれを幾何学の言葉に言い表した。大原理などと。床、つまり足の裏はこの原理との対話なわけだよ。このことからインドで発達した仏教が信仰の中心をその崇拝物の足の裏に見いだしているのは東と西の世界の妙な一致だよ。足の裏を信仰の対象にしている。気の医学では足の裏をいくつもの地図に分けてそこに人間のどういう機能が存在するか、細かく分析している。もし家が何かを感じる自我があったなら、家は床を通して自然の法則を学んだというだろう。これはちょっとおもしろいよ。屋根と壁がそれが障害となって対話ができないというのに、床は目や耳をふさぐことによって自然法則との対話をしているんだから。つまり対話の一つの結果として、自然法則の一つ、重力というものを学んでいる。何も、床が奥深い森に住む明哲なふくろうだというばかりではないよ。市場原理だって床は学ぶかも知れない。その家の所有者の所得とその土地の有り様、駅に近いか、元は国有地だったか、地盤はどうか、地下に有望な地下資源が眠っているかどうか、彼はいろいろなことを知るんだ。」
今泉寛司はここまで話すと目の前に置いてあるお茶を一口すすった。
「宇宙との対話、社会との対話、それを一時的に遮断して、それでもかつ、自然の摂理からは抜けられないでいるとしても、人々は家を建てるのか。」
そう言ったあとで、今泉寛司は目の前に置いてある爪楊枝を勿体ぶって一本つまんだ。
「人々は何故、家を建てるのか。」
村上弘明は何故今泉寛司がこれほど饒舌になっているのか、よくわからなかったが、とりあえず、たらいに入れられたうどんが彼の目の前に運ばれて来るまでは彼の話を聞いて置こうと思った。
「そりゃ、外敵から身を守るためでしょう。森を抜け出した猿は動物たちの中でもっとも弱い種族だった。それで岩の横穴を見つけてそこに寝床を敷き、入り口をふさいで安眠したそうや、ないか。」
「じゃあ、今の人間は弱いか。」
「今の人間だけではないさ。全ての生物は弱い、それが古代白亜紀の恐竜だったとしても、それがある方向、ある目的を持って、細胞を系統的、組織づくられて構成された集合体だったとしたら、道ばたに転がっている石だったらどんなに細かくくだけても、水だったら、川の中で流れていたとしても、雨として降っても、空気だつたら、金持ちの家の空気でも、貧乏人の家の空気でも、誰に吸われようが、雷をうけたか、信じられないような高温で熱を受けたりして、化学変化を受けたりしなければ、石は砂になろうが、土になったとしても、水は花瓶の中に入っていても、どぶ川の中でどろを押し流していても、扇風機で吹き飛ばされた無風でも、台風となって吹き荒れる風でもカビ臭い棺におしこめられた空気でも、それはそれであるんだ。人間なんて単に生物学的に見てさえも五分も脳に酸素がいかなかったりしてみてよ、もう人間は死んじゃうんだからさ、金魚なんて冷凍窒素の中に瞬間的に入れて、冷凍金魚にしてまた外に出してみてよ、生き返ってまた泳ぎだすんだから、狼の住む森の中に赤ちゃんをおきざりにしてみて、運よく赤ちゃんが狼に買い殺されなかったとしてだよ。その狼が全てのほ乳類が持つ、赤ちゃんに対する保護欲を持っていたとしてだね、自分の母乳、それは母親狼のなんだけど、狼に育てられて、月夜の晩に吠えることや、生肉を手も使わずに歯でかみ切ることしか知らなくて、見知らぬ人間にあっても挨拶もできないでただうなるだけだったり、言葉を使ってレストランに入ってメニューをたのめなかったり、テーブルマナーも出来なかったりしたら、生物学的には人間とみなされても、社会的には人間とはみなされないだろう。だいたい、暑さ、寒さ、空気がなければ人間なんて、生きていけないんだから、多量の放射線をあびたら、即、死を意味するからね。だから、人間はスペースシャトルでも、宇宙に出て船外作業をするときは宇宙服を着るよ。宇宙服が生命を維持して身を守るものだからだ。単に宇宙服が古代人の洞窟とその意味で同じ用途をある部分持っていたとしても、宇宙服を家とは言わないだろう。」
「そりゃ、言わないでしょう。」
松村邦洋は相槌を打った。
「子供の頃の旅立ちたいという欲求が何から出て来るか、分かるかい。赤ん坊だったとしても、赤ん坊だった頃の記憶はなくなっているから何とも言えないが、きっとぼんやりとした周辺が淡くにじんでいるまん丸な母親の顔の輪郭しかないのかも知れないが、太陽が夕日となって沈む、山の彼方にどんな町があるか知りたくて、帰り道の算段も付かないうちに遠い町に冒険の旅に出た懐かしい遠い想いでを持っている人間は多いと思うよ。何故、迷宮に人は迷い込むのか、プロスペローの島に王子の船が難破してたどり着くのか、魔法使いのプロスペローに比べれば、王子の計画性なんて何もありゃしない。何しろ、彼は王子が自分の島に難破したことを知っていたのだから。宇宙服が家ではないことは明らかだと思うけど、銀行の預金通帳にゼロがいくつも並んでいたとしても、銀行の預金通帳は存在するし、世の中の貨幣制度というものが存在することは誰でも知っている。そしてそのゼロの数字が五や七に変わるかも知れないんだ。「空間とは移動の自由性のことだ。われわれが空間中に立つとき、われわれ自身をその空間に本能的に適合させ、また移動することによって自己をその空間中に観念的に投影させる。われわれが歩いている間も、その空間は移動を暗示する。」ージェフリー・スコット、1924年。
宇宙服には空間がない。空間は時間と運動、つまり、移動の作用によって認識される。移動の主体は物理的な肉体と精神、想像力という道具を使った自我である。肉体も自我の支配下に置かれているとすれば閑職にある自意識と呼んでもいいかも知れない。」
今泉寛司の建築論とK病院という存在がどう結びついているのか、村上弘明にはいまいちわからなかった。
「建築家が点でなく、空間という自由性を獲得したとき、つぎにもとめるのは空間それ自体の運動性だ。空間の中にはエーテルが満ちていなければならない。エーテルとはエネルギーよりも純化されていない空間の充足物であり、常に振動している、その運動性は知覚はできないが、空間の中の対象物には作用することができる。波動が伝わり、共鳴現象を起こすと言い換えても良いかも知れない。
「遊びは、ある一定の規則の範囲内で進行する。ある特定の過程に縛られており、始まりもあり、終わりもある。またそれは、この限定された範囲内で、その固有のダイナミックを有するものである。だから遊びとは、これらのすべてに限定されつつも、なおかつ、自由のうちに進展するものだということができる。・・・・遊びの全プロセスとは・・・・ある運動によつてはじめ刺激を受けた全ての部分を結合してひとつの全体を構成し、この全体を維持しながら、一度開始された運動を持続させ、かつ高めようとするような運動だ。」G・フォン・クヤワ。」
「じゃあ、そのエーテルによる運動、エーテルそれ自身が運動なのでしょうが、自己完結されて、破綻のないことが前提なのですね。」
今まで黙っていた滝沢秀明が口を挟むと今泉寛司は少し眉を動かしておやっ、という顔をして彼の顔を見た。滝沢秀明の瞳の中には隠しきれない懐疑のようなものがあったからだ。
「破綻にこだわっているみたいだね。最近、何か、破綻を見たのかい。」
「あなたは、七月の大阪府立体育館で行われた、ゴーレムの出ていたプロレスの興行を見に行きませんでしたか。」
吉澤ひとみも松村邦洋もそのことは全く気づかなかった。彼がその会場にいたとは。しかし、今泉寛司のその答えはあつさりとしたものだった。
「いたよ。ゴーレムという選手を見に行きたくてね。」
「ゴーレムのことを知っているのですか。」
吉澤ひとみは目を丸くして尋ねた。
「もちろんだよ。一時期、アメリカに住んでいることがあってね。たまたまテレビを見ていたら、ギネスブックに載っている世界一、身長、体重とも巨大な人物ということでバラエティに出ていたのを見たんだ。でもその時は大きな体を支えられなくてよろよろと歩いていたよ。水道局に勤めていたという話しだつたけど。いつの間にか、怪物プロレスラーということになって日本にやって来ていたから見に行くことにしたのさ。」
「へぇ、あの巨大な恐竜のようなプロレスラーが水道局に勤めていたんだ。それはいつの事ですか。」
「一年ぐらい前だったかな。」
「一年で世界中に相手になれる選手がいなくなるほど強くなれるかしら。」
「あれだけ大きいんだから、三メートルの巨人だもの。何もしなくても、相手が倒れてくれるよ。」
「でも、歩いていても自分の身体をもてあまして、ふらふらしていたくらいだっていう話しじゃない。」
「破綻の話しの続きだけど。」
今泉寛司はゴーレムについてまだ何か、知っているらしかった。
「つい、二、三週間前にアメリカの自宅でゴーレムは死んだらしい。そういう話しだよ。」
「ええっ。」
吉澤ひとみは驚いた。
「僕がとっている英字新聞を読んでいて知ったんだけどね。ゴーレムはソースの会社もやっていたらしいよ。死んだ原因なんだが、何かの仕事で放射能の汚染地域に行ってそれでガンになったという話しもある。村上弘明にとってもゴーレムが突然、死んだという話しは意外だった。とにかく人間離れをした怪物として興味本位で扱っている記事を何度も読んだことがある。突然の死とは意外だった。身体の大きさの割に心臓が大きくならない突然変異の怪物の映画を見たことがあるがどこかそれに話しは似通ってもいた。とにかく一度もあの怪僧を除いては一度も苦杯を喫したことがないあの怪物はもうこの世にいないのである。
「破綻ということだけど、現代人の生活も破綻に向かっているといえないこともないよ。ゴーレムだって放射能汚染の犠牲者という話しになっているけど、食生活のアンバランスかも知れないからね。心臓に疾患があったという話しも伝えられているんだ。人間は田園を棄て、都市を目指し始めた、そのつけが回っているのさ。ゴーレムの場合は水道局員の生活を棄てて、プロレスラーになつたのがそもそもの間違いなのかも知れない。だいたい都市というものが何の病理で蝕まれていくか、都市が蝕まれていくのではない。そこに住む住人こそが蝕まれていくのさ。都市の支配者、その欲望の権化、市民が都市を造っているのではないことは、誰でも、知っているだろう。そこは人間のハイマートではなくなっているからだ。この大阪の地区でさえ、ここを支配しているのは、名前のない、資本主義の中心に位置している効率性、経済性という形のない命令者だ。そこには大きなコンツェルンに所属する不動産会社、銀行、自動車会社、石油会社、その他もろもろの欲望の権化がある。都市の一番利用価値の高い場所はみんなそんなところに買い占められている。そこをめざして、あるいはそこから出発して鉄道や線路が東西南北に走っている。そして無名性を保っているこの支配者たちが次に手に入れたのが、K病院のあるような田園都市だ。田園都市、名称だけはすばらしいが、その土地の名義を見てごらん。そこには大資本に名を連ねる不動産会社がいくつも出てくることだろう。都市の生産をその目的とする高密度共同社会は田園都市では消費を目的とする高密度共同社会に対応している。田園都市、たとえば、吉澤さんの住んでいる栗の木団地駅周辺を例にとって見れば、何らかの問題がなくもない。それらについて個別に語るのはやめよう。」
吉澤ひとみはそれらの問題について語って貰いたい気もするのだったが、浅い眠りから起こされるように、村上弘明の声がした。
「今泉さんは栗の木団地駅周辺の設計にも拘わっているんですか。」
「ええ、田園都市に対する最初のアプローチとして栗の木団地駅周辺の設計にも当たっていますよ。」
「じゃあ、K病院の設計も。」
「もちろん、私の主張は現代の田園都市の設計者に対するアンチテーゼの提出という意味もあるんです。K病院の奇抜な格好を見たことがあるあなたなら、そう思われるでしょう。」
村上弘明は別の意味でK病院に不気味さを感じているのだったが。
「何も、先入観のない人間が見たらK病院に不気味なものを感じるかも知れません。でも、あの病院はそれなりに意味があるんです。「たとえ人にとって耐えきれないような所でも、たくさんの便利な施設をここに集中させ、そこがなくてはならないものにすることによって人をむりやりに定住させることができるかも知れない。だが、このような方法によって、人工的な生活でもって荒みきった共同体を共同体らしくしようとしても、人々の内面における不満、反発は、これらによって解消されるどころか、むしろ、逆に強まるだけであるる。こうした無理矢理人工的に活気づけられた環境と対照をなすのは、個人個人が、そこに自己の要求に対応する形での世界を見いだし、解放されて自由に行動しうるような環境である。」アルフレット・ローレンツァー。」
今泉寛司は栗の木団地にしろ、K病院にしろ、解放されて自由に行動しうるような環境だと言いたいのだろうか。しかし、栗の木団地はともかく、K病院はそんな環境の一要素だとは思えない。そんな気持ちを今泉寛司は感じとっているのかも知れなかった。
「建築の美をどんなときに人は感じると思う。」
今泉寛司はそう言うとテープルの上にあるマッチ箱を一つ取りだした。そして、それをテープルの上に立てた。まず、面積の小さな側面を下にして、そして息を吹きかけると、そのマッチ箱は倒れた。今度は面積の広い部分を下にしてテーブルの上に立てて息を吹きかけると、マッチ箱はテーブルの上を少し滑るだけで倒れなかった。東京タワーを見たことがある。もちろん、あるよね。通天閣タワーでもいい。上に行くほどせばまっていて、下にいくほど、広がって地面に土台がしっかりと付いている。そして何トンもの鉄材が自分自身の自重をささえると同時に他の部材の重量を支える補強材になっている。吊り橋にはそれぞれの支柱に美しい曲線を描く太い金属製のロープで引っ張られていて力の均衡を保っている。「建物むのリズム、この目に見えるものに置き換えられた静力学的ー数学的思考こそ、構造的に正しく出来上がった構築物ーこれが前提だがーをして芸術にならしむるものだ。そうなると、もう構造との符号など問題にならなくなる・・・・」レオポルド・ツィーグラー、1912年。つまり、僕の建てる建物は芸術ならしめる建物のリズムを全ての構築物は持っているのだ。」
今泉寛司はそう断言した。しかし、あの古城のような、それも呪われた古城のようなK病院に数学的思考が適用できるであろうか。
「K病院も今泉さんが設計したのですか。」
「公共性、反公共性、半公共性、いろいろな社会のひずみがあるわけで、しかし、根本的な解決は決してできないわけですよ。なぜなら、現代社会は見えない支配者に支配されているわけだから、人工的に構築された都市部の効率性という麻薬から解放されるには、誰も新しい旗を立てているわけではない。旗がないかぎり、誰もそこに集まることはできない、地図における目印がないんだから。現代の集合高層住宅の建て方は敷地に建物を平行に同じ向きに何棟も建てるというやり方をとっている。同じ時間に同じ方向から太陽の光を受け、住居の差のないことは同じ貸借条件を満たす、そして棟同士が平行に間隔をあけて並ぶことはいろいろな衛生上好ましい、しかし、中世では集合住宅は一つの井戸を中心にしてそれを取り囲むようにして四角い、囲いのように建てられていた。現代では水道を引くことは困難なことではないし、いつ襲ってくるか分からない外敵がいるわけではない。新しい共同体の原理がみつからない間は古い教義を借りてくることも厭わない。それでK病院は中世の城塞のイメージを借りたというわけだよ。自分なりの田園都市に関するアンチテーゼというわけで、都市からの目に見えない呪縛からの解放であり、田園都市の宗教の集結点という建物になっているんだ。」
とにかく今泉寛司があのK病院を自分なりの哲学を持って建てたことが村上弘明には分かった。しかし、それはあくまでも今泉寛司の理念の問題であり、現実の図式を説明しているというわけではないだろう。彼は持論を主張して一息ついている今泉寛司に唐突にたずねた。
「松田政男という人物を知っていますか。」
お茶をすすっている今泉寛司には何の変化もなかった。
「知らないよ。」
その口振りには何の感情の変化もないようで嘘をついてはいないようだった。
「K病院で不審な死を遂げた人物なんですが。警察では自殺という結論を出しているのですが、私は他殺という線を追っています。」
「あの病院を建ててから大部たっているからな。あそこに入院している人間のことなんか詳しく知っていないよ。」
「あの病院の離れに入院していた患者なんです。化学の方で大変な秀才で新薬を開発して特許をとって悠々自適な生活をしていたらしいんですけど。」
「離れ。」
ここで今泉寛司は不審な声を上げた。
「あの病院に離れがあるという噂は聞いていたけど本当の話だったんだな。あそこに見に行く暇がなかったから確認できなかったんだけど、やっぱり離れが出来たんだね。実はそこ、僕が最初に設計したときにはそんなものはなかったんだよ。」
「じゃあ、あとから付け加えたというわけですか。」
「そういう事ですね。」
それで吉澤ひとみにもあの病院が何となくアンバランスな感じがしていたわけがわかった。あとからあの離れだけつけくわえたのだ。
「そもそもどういう感じであの病院の設計を依頼する話しが来たんですか。」
「福原豪の秘書という人物が直接うちの事務所に設計の依頼を持って来たんだよ。あれは何という人間だったかな。鉄道会社から福原氏の個人秘書になったとか言っていたと思うけど。」
そこへ料理が出来て運ばれて来た。たらいに入ったうどんと湯がいたえびや貝などだ。今泉寛司はうどんをぱくついた。その表現はおかしいかも知れない。うどんをすすった。
「あそこの建設費用のことはご存知ですか。」
茹でたえびをはしでつかんでいる今泉寛司は何か上の空のようだつた。
「具体的にいくらお金が出ているかという話しはできないよ。」
「市の方も半分ほど建設費を出したんですよね。」
「ええ、そうですよ。」
「でも、何で市の方が建設費を半分も出したんですか。」
今泉寛司は村上弘明の言っている意味を察した。
「僕も福原豪があまりいい噂の持ち主ではないという事は知っているよ。」
それなら何で福原豪の依頼した設計を受けたのか、彼の持論である見えない支配者である資本主義社会における大資本の自己集中と矛盾するではないかと思ったが黙っていた。
「でも、あの病院の建設に当たっては何もおもしろい隠された事実というのはないんですよ。そもそもあの病院を建設しようと言って来たのは市の方からなんですよ。」
この事実は吉澤たち四人にとっては意外だった。
「それも市だけではなかったんですよ。」
ここで今泉寛司はうどんを一本すすった。今さっきまでとうとうと建築に対する持論を展開していた人物には思えなかった。滝沢秀明もたらいの中に入っている海老を一つ口の中に入れた。
「警察の方もあの病院を作るに当たっては乗り気で福原氏に頼み込んでいたんですから。」
「本当ですか。」
「本当ですよ。僕が何で嘘を言わなければならないんですか。」
今泉寛司はおちょぼ口をすぼめて口のあたりをナプキンで拭った。
「でも、何で、警察が病院なんかの建設を福原氏に頼まなくてはならないんですか。」
村上弘明の疑問はもっともだった。
「栗の木団地周辺地区の急激な人工増加のためですよ。あそこが田圃や畑ばかりだったらそんなことはないでしょうけどね。K病院から三百メートル離れたところに何か変わった施設があるのに気づきませんでしたか。」
「いのしし料理の山賊の館という郷土料理屋がK病院の裏にある大きな林の中にあるけど。」
松村邦洋が言っている林というのはほとんど森に近い半径一キロぐらいの樹林地帯だった。
「あっ、そうか、あの煙突。」
松村邦洋は気づいたようだった。
「焼き場がある。」
その森の中に車が入れるだけの笹林に囲まれた細道が開かれ、そこを通って行くと火葬場に出ることができた。
「その火葬場からの話しでね。警察も拘わっていることだけど、死骸を荼毘に付する前に保管しておく霊安室が欲しかったんだ。もちろん、警察なんかでも不審な死を遂げた死体を保存しておく部屋が欲しかった。それで警察もK病院の建設を福原豪にたのんだんだ。
だから霊安室は立派なものを持っているよ。あの病院は。」
K病院の建設の目的が霊安室の確保にあるなんてことは村上弘明は考えてもいなかった。それでその条件、つまり、公共に利用出来るという条件で福原豪に半分の建設費を出したというわけなのか。
「設計の打ち合わせのときがそもそも変わっていたな。立派な霊安室を作るのが条件というんだから。」
今泉寛司はまたうどんをつるつるとすすった。
「じゃあ、K病院の設計図を見せてくださいと言えば見せてもらえますか。」
「いいよ。」
今泉寛司の返事は意外とあっさりしていた。しかし、その彼の瞳に多少の感情の変化のあることを吉澤ひとみはみのがさなかった。こういう点においては兄の弘明よりも神経の細やかなひとみだった。
「福原豪が全く、あの病院を私物化していなくて市のためだけに建設したような事を言っていたけど本当はそうではないんだ。」
「それはどういう事ですか。」
吉澤ひとみは今泉寛司の目のあたりを見たが今まで建築論みたいなものを展開していた今泉寛司はどきまぎした。
「僕の設計した建物の一部に変な部屋が存在するんだ。」
「どんな部屋ですか。」
「部屋中の壁がが厚いスポンジで覆われていて、その上にビニールのシートがコーティングされている。部屋の中はコンセントもなければドアのノブもない、でも、ノブがなければ部屋の出入りが出来ないからドアの外にはノブが付いているけどね。後は部屋の上の方に換気扇と照明がついている。天井は普通の部屋の二倍以上の三メートルもある。もちろん、僕が設計したんじゃないよ。そういう部屋を埋め込むようにと福原豪が注文したんだ。」
「その部屋はまだ壊されずにあるんですか。」
「あるはずだよ。」
「どこの位置にその部屋はあるんですか。」
「ちょうど、あの建物の一番はじだよ。君たちが離れと呼んでいる後から付け加えた建物に接した場所にある壁の向こうだ。」
「何のための部屋なのかしら。」
「福原豪がこういう部屋を作ってくれという話しで、その設計図も自分から持って来たので、その部屋をはめ込んだという状態だったんだけどね。」
「その部屋が何に使われる部屋か、全くわからないのですか。」
「実は知ってるんです。」
そう言った今泉寛司の顔には薄気味悪い微笑みが広がった。
「わけの分からない、理由で部屋を一つ付け加えてくれと言われても、納得がいかないじゃないですか。それで福原豪が何故、その部屋をK病院の中につくらなければならないか、調べたんです。そうしたら、わかりました。福原豪の一人息子で、正妻の子供ではありませんが、福原の正妻の子供は全て女ばかりなのですよ。福原の別宅の子供で十九になる息子がいるんですが、彼が特殊な精神病にかかっていて、治療中らしいんですが、ときどき、手がつけられない位、暴れるらしいんです。どうも、その部屋らしいんです。」
「福原豪にはそんな子供がいたんだ。」
吉澤ひとみは複雑な顔をした。
「どんな息子なんですか。」
「福原豪とは似つかわしくないような線の細い、青白い顔をした幽霊みたいな若者です。一度だけ彼を福原の屋敷で見たことがありますよ。たぶん、K病院に住み込んでいる、いや、入院していると言った方がいいかも知れませんね。入院していると言っても自由に病院を出入りできる状態でしょうから、あの病院のあたりで彼の姿を見られるかも知れませんが。」
村上弘明はぴんと感じるものがあった。
K病院のゴミ捨て場で写真を撮ったとき、村上弘明が何をしているのか、近寄って来た病的な感じのする若者がいた。きっと、彼が福原豪の一人息子に違いない。すると、もしかしたら、福原豪は自分の息子の治療のためにあの病院を建てたのかも知れなかった。
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