羅漢拳  第37回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第37回
犬が殺された
 村上弘明が日芸テレビの自分のデスクに付いて今日の企画書に目を通していると自分の机の上に置いてある内線電話が鳴り始めた。すぐに電話を取ると編成部長の新垣が出て来て重役室に来るように言う。隣に座っている同僚のアナウンサー、真柴初美は昇進の内示かも知れないわよ、と冗談を言ったが村上弘明にもそうでない事はわかった。重役室、と言ってもその隣に付いている応接室だったが、そこには編成部長の新垣と社長の金木が座っていた。
「単刀直入に言おう、今、福原一馬という人間のことを調べているね。君は。その若者が今、栗の木市で起こっている犬の連続殺害犯ではないかという放送を流したそうじゃないか。一体どういう根拠でそういう事をしたのかね」
「福原一馬の名前は出していません。犬が殺されたとき、近所の住民が福原一馬らしい人間を見たという証言があったからです」
「しかし、その証言者は一人だけなんだろう。警察の方の話によるとむしろ多数の被害者が栗毛百次郎という近所の葬儀場の管理人の名前を挙げていると言うじゃないか。むしろ、その人物の方が犯人に近いと言われていると聞いたよ。栗毛百次郎のことは何か調べたのかね、君は」
「栗毛百次郎は失踪していて居場所がわからないのです」
「だったら、栗毛百次郎の居場所を確かめる方が先じゃないかね。」
限られた時間と予算の中でそんな余裕がないことは新垣自身よくわかっているはずだ。村上弘明は警察ではない、なにしろ、警察の一部の協力、江尻伸吾の協力を得ている。しかし、彼の強力な解析装置、神山本太郎二号を使っても栗毛百次郎の居所はわからないのだ。
「福原一馬の家族から苦情が来ている。福原一馬自身が精神病なのに、彼のプライバシーをあばくことは人権侵害だと。今すぐに彼、および、彼周辺の取材をすることは禁止だ」
そのあいだ社長の金木は何も言わなかった。むしろそうやって村上弘明に圧力をかけているようだった。村上弘明は無力感を感じた。確かにこの一連の事件に置いて、その一部をなすであろう犬の連続殺人事件でさえもそのはっきりとその本質を知ることもできない。福原一馬自身が犬の連続殺害の犯人だという確証はないのだ。しかし、彼が何かに関わっていることは確かなのだ。しかし、どういうふうに福原一馬がこの事件に関わっているのか、そのおぼろげな姿もつかむことは出来ない。自分のデスクに戻って来ると真柴初美はすべてを知っているようだった。
「福原一馬の取材はするな、と言われたでしょう」
「・・・・・」
「隠してもだめよ。顔にそう書いてある」
「しかし、情報が早いな。いつ、そんなことを調べたんだ。どこから聞いてきたんだよ。そんなこと」
今更ながら、真柴初美の地獄耳には驚いてしまう。きっと変な噂話を給湯室か、どこかでしこんで来たのだろう。真柴初美は村上弘明が日芸テレビに引っ越してくる一ヶ月前ぐらいにここに入社した新人のアナウンサーである。新人と言っても地方局で二年ぐらいアナウンサーを経験してからここに来たのだ。
「社長の差し金らしいわよ。そのもとをたどって行くと、福原豪にたどり着くの。きっと福原豪はよほど探られたくない腹があるんじゃないかしら」
「それは確か?」
村上弘明は声をひそめた。ここにも社長のスパイのような人間がいるから、あからさまに何でも話すことは出来ない。
「確かよ。福原豪の政治的後ろ盾になっている人物で瀬の田という政治家がいるじゃないの。あれがうちの社長の高校時代の同級生なのよ。だから社長が裏で糸を引いているのに違いないわ。」
「糸を引いているも何も、その場に社長はいたけどね」
そんな個人的なつながりまで利用してこの取材をやめさせようとするということは福原豪にはほじくり返されるとまずい何かがあるのかも知れない。それはかなり確実なことだが。
「ねえ、福原豪の取材を続けるつもりはない」
真柴初美は声をひそめて隣りの村上弘明にささやいた。もちろん、内緒で村上弘明は取材を続けるつもりである。しかし、新垣たちに気付かれずにそのことを続けるとなるとかなりむずかしいことになるかも知れないと思った。
「新垣の鼻をあかしてやりたいと思わない」
この新人アナウンサーから過激な言葉がでてきたので村上弘明は驚いた。
「あいつ、聖人君子ぶっているけど裏でろくなことをやっていないんだから。あいつが中野にマンションを買ったのを知っている。それがなぜだか、わかる。今度日芸テレビから緒八出佑というアイドル歌手がデビューするのを知っている。まだ十八になったばかりなのに新垣が愛人として自分のマンションに住まわせているのよ。」
それから村上弘明は真柴初美が新垣に対して反感を持っているもう一つの理由を知っていた。真柴が教育番組みたいなものに出ていたとき、それは主に性に関する啓蒙的な番組だったのだが、真柴はあるアイドルグループの十六才の少年とつき合っていた。日芸テレビの内部でもそれは知られた事実となって、ちょうど法律的にもそれが禁止されていたので、もちろん、二人の間は金銭による愛人関係ではなかったが、一般視聴者の目をおそれて別れさせてしまったのである。村上弘明が真柴初美が新垣に対して反感を抱いているのもそのことがあるのではないかと思った。
「真柴くん、**と別れさせられちゃったしね」
「何よ、そんなこと」
村上弘明は真柴初美がくやしまぎれか、照れ隠しからそう言っているのか、どうなのか、わからなかった。
「しかし、どうするかな」
村上弘明は軽い脱力感に襲われながら力なくつぶやいた。
「川田定男から電話があったのよ」
村上弘明は消しゴムで机の上に書かれた落書きを消していたところだったが、その名前を聞いてあわてて突っ伏しそうになった。
「何を驚いているのよ。吉澤さんは川田定男のファンなんでしょう」
「いつ」
「昨日よ。吉澤さんが外に取材に出歩いているとき、電話を転送しましょうか、と言ったら、用件だけ伝えてくれって」
「用件ってどんなこと」
「福原豪のところによく出入りしていたという女の子がいるそうなのよ。福原豪の家でお花を教えていたそうよ。その女の子が福原豪のことを教えてくれるから、会わないかと川田定男は言っていたわ」
村上弘明はこんな好運があるだろうかと思った。福原豪の取材はやめろと会社から言われたあとに、その取材源が向こうから飛び込んでくるとは。
「明日、トンネルランドで会いたいと言って来たわ」
この新しい情報源のことは吉澤ひとみに教えるのはやめようと村上弘明は思った。何か、ぼんやりとした、いい印象が村上弘明にはあったからだ。今度の志水桜への取材についてである。場所も良かった。トンネルランドというのは大阪の近郊に最近出来たアミューズメントスポットでトンネルランドそのものがかなり大きな敷地を持っている。その中にレストランがあるのだが敷地の入り口のところで車から降りなければならない。車でそこに来ても電車で来ても同じことだ。そこには小さな一人乗りのゴーカートがあって入り口で渡された地図をもとに行き先のレストランに行くことが出来るようになっている。だいたい洋食と中華と和食に分かれていて、一見、迷路のような道を地図をもとに一人乗りのゴーカートを運転して目的のレストランにたどり着くのである。その目的地にたどり着くのにある種の冒険に似た興奮があった。レストランにたどり着くとそこは小山の横に穴をあけて黒く光る御影石で固めてある。その奥にライトが夜空に光る星のように点々と光っている。その中にゴーカートを乗り捨てて入って行くのだ。その中に店がある。そこで二人は食事をするのだ。かつての恋人、岬美加のことは日に日に忘れつつある、村上弘明だった。何故、ああまで自分が東京にいるとき、彼女を追い回していたのか、今になるとはっきりとした理由がわからない、結局、あの女は何だったのか、すべてが女神のように見えてその背景には神々しさまで漂っていた。超自然的な理由までつけて、解決点を運命の女神にまで求めていた。しかし、東京から流されてこの大阪にまで来て、あの頃の熱に浮かされたような時間を省みるとき、あのときの時間は一体、自分にとって何だったのか、あの時代の自分は一体なんだったのかと今更ながら思うのだった。そしてただ無償の愛を彼女に捧げていたと思っていた自分がある夜、夢の中で彼女を殺すという行為をしていた。そして目が覚めたとき、本来ならば罪悪感に、そんな夢を見たことに対して、取り付かれていなければならないはずなのに、本当に新生とでも呼んでいいくらい、すっきりした精神状態の自分を見付けたとき、彼女への献身とでも呼んでいいと思っていた愛が本当は完全なる偽善だったのではないかと思えてくるのだった。岬美加のまわりにはいつも男の影がちらついていた。その競争相手を意識して、自分はうまく彼女にあやつられていたのではないか、周りに男がいるという彼女の状態が自分自身にとって彼女の本当の価値を誤って自分に伝えていたのではないか。つまり、自分は鼻先ににんじんをぶら下げられていた馬だったのだ。今にして思えば、岬美加の行動はことごとく芝居がかっていた。結局、自分に利益を誘導するための計算づくの色気や行動ではなかったかと思えるのだった。自然な好意から行動しているとは思えなかった。今は岬美加のことが箸のあげおろしから何からすべて不愉快な思い出として残っていた。もし彼女と結婚することになったとしても彼女の奇矯な言動に振り回されるのではないかと今にして思えば思えるのである。そうなると、村上弘明は新しい相手が見つかるのではないかという漠然とした期待が変な希望とともにひしひしととわき起こって来た。それは最近入ったゲームセンターでの体験も作用していた。紫や赤や黄色のアクリル板で作られた照明が点滅するそのゲームセンターに入っていくと奇妙な空間の占いの部屋というのがあって、いろいろな方向に成長している色とりどりの巨大な水晶がその部屋の裏や表を針鼠の針のように覆っていた。どういうきっかけだったか忘れてしまったが、そこにたまたま入って占いを受けたら、霊界の使者のようなマントを頭から被った予言者のようなのが、新しい恋人が見つかるだろうとご託宣を授けたのだった。村上弘明はそのとき以来から少しうきうきした感情が続いていたのだ。そして、まだ二十代なのだから、そういった期待を村上弘明に明日会うことになっている志水桜に期待を抱かせるのだった。まだ七十パーセントくらい恋愛を神聖なものとして彼は受け取っていた。できれば家庭的な女性がいいとか、一人都合のいい思いにふけっていた。トンネルランドの入り口に立つと受付の男がゴーカートを押しながら持って来た。ただ飯を食うためだけに何故こんな面倒なことをやらなければならないのか、自分でもわからなかったが、結構、こんなことでも喜んでいる人間もいるのかも知れない。
「当施設では、三つのレストランが利用出来ます。洋食、和風、中華の三種類です。それぞれにそこへ行くことの出来る地図が用意されていますので、それを見ながら、その施設に向かってください」
まるでボート乗り場の受付のようだった。村上弘明は志水桜の指摘したとおり、洋食コースを選んだ。受付のボーイはその地図を村上弘明に手渡した。そのゴーカートというのもまるでみのかさごのような子ども用の自動車のようだった。四つのタイヤはボディの外に大きくはみ出していて、しかし、タイヤの上には泥よけがついている。単にボディのフレームだけで作られているというのではなく、その上には銀色のアルミの板が張られている。しかし、その縁のところとか、角の曲がったところには青色の金属パーツがつけられていてそれが魚のひれを思わせる。それでそのゴーカートはみのかさごのような印象を与えるのだった。村上弘明はその車に乗り込むとアクセルを踏んだ。車はするすると走り出す。エンジンのようなものは実は飾りで、その中にはバッテリーとモーターが入っているようだった。バラ園のアーチのような下をくぐると車はすぐに上り坂にさしかかった。やっとのことで坂の頂上に登ると横にこびとが住んでいるような小さなお化け屋敷のような家が建っている。そこでゴーカートを止めると半分壊れているような道路に面した窓があいて小さな骸骨が首を出した。片手を前の方に出して、レストランはそっちと機械によって合成された声で道を指し示して、首をがくんがくんと揺らしてその中に引っ込んだ。そこは道が三つに分かれていたが、その骸骨の指し示す方を走って行くと思いのほかはやく、その洋食のレストランに着いた。黒い御影石を固めて作ったトンネルの中には照明が点々とついている。床もやはり御影石で出来ていて、床の方は光沢を放って鏡面のようになっていた。そこには赤い絨毯が敷かれている。絨毯の両脇には背の高い観葉植物が並んでいる。ベゴニアが天井の照明を受けて美しく輝いている。その絨毯の上を歩いて行くと店の中に入ることが出来た。店の奥の方には照明で照らされた廊下が続いている。深い海の底に沈む青い水中都市のようだった。そこを進んでいくとボーイらしい人物が村上弘明を呼び止めた。
「吉澤さんでいらっしゃいますか。待ち合わせのお客さまがさきに待っていらっしゃいます」
薄紫色の深海の中のような客席の方に目をやると客たちが談笑している。まるで江戸川乱歩の小説に出て来る、情景のようだった。そう感じたのはそこがまるで深海のように奇妙な形をした岩がせり上がっていてそれがオブジェになっている。そして空中につるされている照明が大部、デフォルメされているがいろいろな形の魚を連想させたからである。たとえばちようちんあんこう、しゅもくざめ、魚ではないが水くらげなどである。それにまんぼうもいた。テーブルの中は向かい合わせに座っている客が多かったのだが、一人連れの客もいる。その中には女一人の客もいるのだ。村上弘明の相手はあの中にいるかも知れない。村上弘明は期待を膨らませていた。相手が魚鱗と出れば、鶴翼と出ようというはらずもりであった。何しろ、占いではいいお告げが出ているのだから、きっと結婚相手も見つかるかも知れないと、いままでは失恋に打ちのめされていた村上弘明であったが今はどこまでもお気楽な村上弘明であった。
「僕の相手はどこにいるの。その人に会ったことがないからわからないんだけど。」
客席の入り口のところで小鼻を広げてボーイに問いただすと「あちらに座っているかたです」ボーイの指し示す方を見るとその女性の横顔だけが見える。村上弘明はほくほくとした。自分の好みのタイプである。彼の頭の奥の方でワルツの調べが流れてきた。つかつかと彼女の座っているテーブルのそばまで行くと彼女の顔がさらにはっきりと見える。「おっ、可愛い、やった」村上弘明は心の中で思わず、つぶやいた。志水桜という名前のイメージにぴったりだった。
「志水桜さんですか。川田定男さんから、紹介された」
「はい」
志水桜は村上弘明の方を見てほほえんだ。村上弘明は彼女の前の席に座った。
「福原豪氏の家に出入りしていて生け花を教えているそうですね。」もし、心の中の様子を画像として見ることのできる人間がいたら、村上弘明の口の端からよだれがたれているのを発見したかも知れない。
「ということはお花の先生ですか」
「いいえ、記録映画をとることを仕事にしています」
この言葉に村上弘明はびっくりした。
「じゃあ、ご同業と言うわけですね」
村上弘明の心の中に遠い日の記憶が呼び起こされた。何となくそういう方向に進もうかと思っていた高校生の頃の想い出だ。
「もしかしたら、高校生の頃は放送部に入っていたとか」
「ふふふふ、その通りですわ」
「年はいくつなんですか」
それに対して彼女の答えは意外にも一つしか違わない。彼女は一つ年下だった。
「高校の頃は給食なんか、なかったですよね。もちろん弁当でしたよね」
「ええ、そうですよ」
「給食のほかに、パンなんかが売っていて、牛乳なんかも売っていたな。テトラパックなんていう容器に入っている牛乳なんかも売っていたんだけど、最近、見ませんね」
明らかに村上弘明が何のためにこの取材をやっているのか、その本来の目的から逸脱しているのは明らかだった。
「その弁当のことなんですけどね。弁当を持って来ない生徒はパンなんかを売店のおばさんから買ったりするんですけど、独身で弁当を持って来られない先生なんかも、パンを買ったりするんですが、何でも見繕って入れてください、ってその先生が言ったら、おばさんが高いパンだけ見繕って入れたりね。そんなこともありました」
「うふふふ」
志水桜にはその話も少し受けているようだった。口で手をおおって身体を前後に揺らして笑っている。こんなつまらない話で笑ってくれるとはありがたい。
「地学の先生が映画なんかを作っていて、僕たちの修学旅行を映画に撮っているんですよ。それで教室の中で女子が合唱する声が聞こえるから何だろうと思ったら、効果音で歌謡曲を歌わせてそれを録音していたんですけどね、今の時代だったらあんなことをしたら、教育委員から文句が来て、その地学の先生は減給処分になっていますよ」
「なんて歌を合唱させたんですか」
「瀬戸の花嫁」
この歌を知っていると言うか、この歌がヒットしている頃に思春期に当たっているとするとだいたいの年齢が推測できるだろう。小柳ルミ子という歌手の最初のヒット曲の私の城下町という曲から何曲か目のヒット曲である。小柳ルミ子と同時に売り出している歌手では天知マリ、南佐織という歌手が出ている。何でも三人ひと揃いで売り出すというのは昔からの商売の常套手段でその中で一番歌唱力のあるのが小柳ルミ子だった。その歌は昔の国鉄の旅行キャンペーンの一環に乗っている企画で電通か博報堂かどこかの公告屋が仕掛けたという話だが、はっきりしたことは憶えていない。日本再発見とか、遠くに行こうとか、そんなうたい文句だったかも知れない。
「わたし、知っています。その歌、瀬戸内海に住む女の子がお嫁さんに行くことになって、自分の弟が別れを惜しむというような内容でしたよね」
「そうです。そうです。話が合いますね。ぐふふふ」
村上弘明は変な笑い方をした。
「でも、もっとその歌を歌ってもらいたい人がいたんですよね」
村上弘明は勝手な想い出話しに耽っていた。
「うちの高校の隣にも高校があったんですよ。そこにそこらへんでは有名な可愛い娘がいたんですが、その娘に歌ってもらいたかったなあ」
村上弘明の勝手な想い出話はさらに続いた。
「その娘はうちの地区では可愛くて有名だったんです。でも、その娘と一緒に踊ったこともあったんですよ。隣の高校で文化祭があって、僕らはその娘がお目当てでその高校へ行ったんです。安っぽい段ボールとか、色とりどりのセロファンで教室の中はすっかりと飾り付けられていて、その校舎の三階の教室でディスコが作られていて、その頃ディスコという名称だったかどうか、はっきりしないんだけど、そこで何かの懸賞として、彼女と一緒に踊るというおまけがついていたんだな、それで偶然にもくじに当たって彼女と一緒に踊ったんだけど、可愛かったな彼女、顔が三十センチまで近づいて彼女の顔が薄暗い照明の中でよく見えたんだけど」
そう言いながら、村上弘明は目の前にいる志水桜の顔をしみじみと見つめた。
「あの志水さんはなんていう高校に通っていたんですか。僕の高校の憧れの君の名前も桜と言ったんだけど、名字もわからなくて、ただ桜ちゃんとだけ呼んでいたんだ」
「****高校」
志水桜がぽつりと言うとしばらく沈黙が続いた。
「そう、私の名前は志水桜、あなたの通っていた高校の隣の高校に通っていたのよ」
「ええ、ええ」
村上弘明は天地がひっくりかえるくらいびっくりした表情をした。何しろ自分の高校時代の憧れの君が目の前にいるのだ。あの頃より少しふっくらして女ぽくなったもののあの頃の彼女と少しも変わっていない。なぜ、最初に見たときにそのことに気づかなかったのだろう。彼女はただほほえんでいるだけである。
「なんだ。あの桜ちゃんだったんだ」
「文化祭であなたと踊ったことは憶えているわよ。それから。うふふふ、これを覚えている」そう言って志水桜はペンキのはげかかったクラスを表示するバッチを差し出した。村上弘明は何のことかわからなかったが、村上弘明は吉澤ひとみをつれて来なくて良かったと思った。ひとみが現在、マドンナと呼ばれていたとしても、自分の妹ではあることであるし、自分の時代のマドンナの方が貴重だ。その高校時代の想い出にはさらにあとが続いていた。その文化祭には悪友の何人かと一緒に来ていたのだが、志水桜の高校の文化祭が終わって夕方になった頃、一緒について来た悪友がペンダントを差し出した。「これ、なんだよ」村上弘明が聞いてもにやにやしているだけで答えようとしない。この悪友は手先が器用でロッカーの鍵なんかはヘアピン一本であけてしまうし、学生証を偽造することなんかも朝飯前だった。親が何を職業にしているのかは謎だった。そのペンダントは金色のゴルフボールぐらいの大きさをしていて中からふたが開く仕掛けになっていてふたをあけると、中には子犬の写真が仕込まれていた。「これを持って校舎の入り口に立っていろというの。そして志水桜が来たらそれを渡すんだよ」そう言って彼は村上弘明の背中を押した。村上弘明はそのとおりにした。校舎の中では文化祭の後片付けをしているらしい。それが終わった高校生たちが連れだって校舎から出て行く。校舎の前は売店があってジュースやアイスクリームなどが売られている。店の前には公園に置いてあるようなベンチが置かれているのだが、ちょっと違うところは背もたれの後ろにお菓子のメーカーの宣伝が書かれているホーロびきの看板がついていることだった。村上弘明がその背もたれに背中を預けて校門の方を眺めているとマドンナ志水桜が顔を出した。村上弘明は心臓の高鳴りを感じたが志水桜の前に出て行くと無言でそのペンダントを差し出した。すると志水桜はびっくりした顔をして立ち止まると村上弘明の顔をのぞき込んだ。「今日、文化祭のとき、一緒に踊った人じゃない。」
「これ」そう言って村上弘明が悪友から渡されたペンダントを差し出すと志水桜は驚いた顔をしてそのペンダントを受け取った。「これ、どこで拾ったの、なくして困っていたのよ」村上弘明は何となく予想がついた。悪友がその手先の器用さを利用して志水桜から盗んできたに違いない。そう思っていると向こうからその悪友がやって来る。片手を振りながら天下太平な顔をしてやって来た。「なんだ。こんなところで何をしているんだよ。お好み焼き屋へ行くという約束だったじゃないか。あれ、誰、それ、これからお好み焼きを食べに行くんだけど一緒に行く」それはみんな悪友の策略だった。この得体の知れない悪友が自分の特技を生かして、志水桜のペンダントをどこかでちょろまかして来たに違いない、しかし、そのおかげで志水桜を誘ってお好み焼き屋に入ることが出来たのだ。三人でその店に入っているあいだ、悪友はおもしろおかしく話を盛り上げていたし、村上弘明はすっかりと楽しい時間を過ごすことが出来た。夜の八時頃にお開きということになり、村上弘明は志水桜と同じ方向だということで一緒に帰ることにした。夜の商店街の店は半分ぐらいがシャッターをおろしている。そして半分の店がまだ開いていて歩道にショーウィンドーの照明の光を投げかけていた。歩道の反対側には街路灯がつけられている。村上弘明は志水桜とつれだって歩いた。ショーウインドーの中に飾られている熊のぬいぐるみが二人が歩いているのを祝福しているように勝手に村上弘明は思っていた。村上弘明は歩きながら何かを言おうと思って志水桜の方を向いたが途端に言葉を失った。何を言おうか、何も考えていなかったのだ。志水桜の方も村上弘明の方を見たのだが何かを話そうとしてけらけらと笑い出した。「何が言いたいの」志水桜は村上弘明の方を見て言った。村上弘明は自分でも何が言いたかったのか、よくわからなかった。そのとき遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてきた。緊急車両特有のあの点滅する赤い光が火の玉のようにふたりの方に近づいてきた。村上弘明は悪友が、きっと、これは確かなことなのだが、志水桜からペンダントをちょろまかして来たことがばれてパトカーが追って来たのだと思った。しかし、自分がやったことではない。しかし、それによって志水桜と知り合いになれたということは事実だ。村上弘明は内心の動揺をけどられないようにした。すると夜の歩道のはしにするするとパトカーは近づいて来て、白と黒の二色の色をぬられた車は二人のすぐ目の前に止まった。そしてドアがあくと中から警官が出て来て二人の方に歩いて来る。村上弘明は自分では悪いことは何もしていないわけだが万事休すだと思った。そして警官が次ぎにしゃべる言葉をちょっと先の時間のことだがシュミレーションしてみた。まず最初に自分は警官に腕を捕まれるだろう。そのあとには何が待っているのだろうか。しかしパトカーから降りて来た警官は自分に用があるようではなかった。自分の前を素通りして志水桜の方に行くではないか。そして警官は志水桜の方に近づくと言った。「志水さん、この近所で強盗事件があって、今、犯人を探している最中です。よろしければパトカーで警察まで送りましょうか」「いいえ、けっこうです。つれの人がいますから、この人と一緒に帰るので大丈夫です」警官は村上弘明のことを上から下までしげしげと眺めた。村上弘明は何故、警官が二人のところに来たのか、わからなかった。また、志水桜もそのことを語ろうとしなかった。また少し歩いて行くと背後から高級外車が後ろから迫って来るのを村上弘明は感じた。その車がゆるゆると彼らの背後からせまって停止した。ちょうど二人の横にその車が止まると、今度は座席から車内の人間が降りて来ることはなく、窓ガラスが開くと一人の女性が顔を出した。村上弘明が驚いたことはその女性がこの世のものとも思えないほど美しかったことだ。それは志水桜よりも美しいかも知れない。しかし、志水桜のような暖かみはなかった。年齢は五六才上かも知れない。村上弘明はこの女性をどこかで見たことがあるような気がした。そんな感想を抱いている村上弘明のの内心には忖度なしにその女性は志水桜に話かけた。「桜ちゃん、こんなところで何をしているの、早く家に帰らなければだめでしょう。その人はお友達、そう。私の結婚問題もあるんだからね。少しは私に気を使ってちょうだい」何に気を使うというのだろう。ここで村上弘明はやっと気付いた。どこかでその高級車の女性を見たことがあると思っていたが、そう言えば週刊誌で彼女の姿を見たことがある。皇室に嫁ぐ予定だとか、何とか、その記事には載っていた。その記事の女性の名前は志水遙と言った。そういうことは志水桜の姉ということなのだろうか。またまた世間に疎い高校時代の村上弘明だったが、志水家というのが皇室の縁戚関係にあたっていて、天皇の近い筋の男性と志水遙が結婚するという話がその週刊誌には書かれていた。それで彼女の実家には常時警官が常駐しているのだ。その家族にも警官の護衛がつくこともある。「驚いたでしょう」志水桜の声はどことなく沈んでいた。「姉なの」「あの人、週刊誌で見たことがある。***と結婚するとか、書いてあった。あの人が桜ちゃんのお姉さんなんだ。じゃあ、桜ちゃんの家って歴史の教科書に載っている****なんだ」村上弘明は歴史のことはあまり詳しくはなかったが、志水遙の家が歴史上の人物で****の血筋を引いているということを知っていた。「警官の簡易交番なんかが、玄関にあるんだ」「そう」志水遙の結婚のことで報道統制のようなことがしかれているのも知っていた。「今、姉の結婚問題で忙しいの。姉って綺麗でしょう。私よりも綺麗でしょう。日本で一番綺麗だって言う人もいるわ」確かにそうかも知れないと村上弘明は思った。「私の家って代々、娘が偉い人のお嫁さんになることによって成り上がっていったのよ。室町時代からずっとそうなの」そこでまた志水桜は少し複雑な顔をした。「今度の姉の結婚もそうだわ。姉さんは****と結婚するのよ」村上弘明は何と答えていいかわからなかった。マドンナと呼ばれている彼女にもいろいろな事情があるのだということだけはわかった。しかし、何故、そんなことを自分に言うのだろう。たぶん、二人で夜の歩道を歩いていることが、また、パトカーがサイレンを鳴らして走って来たことが彼女を不安にしてそんな言葉を言わせているのかも知れなかった。「十年後にまた会うことは出来るかしら」志水桜は突然にわけのわからないことを言いだした。「十年後に会ったら、今日のことを忘れないように、そうだ、あなたのその学校のクラスの書かれているバッチをちょうだい」彼女は村上弘明のクラスが書かれている真鍮製のバッチを取り上げた。そのバッチは真鍮のところに白いペンキのようなものが埋め込んであるのだが、少し、そのペンキもはげかかっていた。
「思い出したようね」志水桜は村上弘明の方を見て睨むような仕草をした。
「報道探検隊での活躍をいつも応援していたんですよ」
「それはどうも」
「でも、このバッチのことを忘れていたのは大失点だわ」
村上弘明は頭をかくしかなかった。
「あなたがニュースキャスターになるなんて思いもしなかったわ」
「あのとき、自分は何になりたいと言っていたっけ」
「探検家」
「まさか」
「だって中央アジアのことをさかんに話していたじゃないの」
「ちょうどそのとき、そんな本を読んでいたんです」
「そう」
「桜ちゃんは結婚しているの」
「秘密」
客席は丸くなっていてそこにばらばらにテーブルが配置されている。その感じは座席を取っ払った円形劇場のようだった。その周囲にローマ時代の建物のような出入り口がついている。それなのに村上弘明はその内部に高校時代の学食を連想していた。その内部の片側は映画のスクリーンのようになっていて、また演劇の舞台のようでもあった。そのスクリーンに南極の氷山が映し出された。だからその舞台の向こうは南極の海面が見えるわけである。南極の海面は座っている村上弘明の胸のあたりにあった。スクリーンには南極の氷山だけが映し出されているわけではなく、氷山の横の方には大きな港の艀があって艀の根本の方には温泉ホテルのようなものが建っている。そして何故かビルの建設工事で使うような巨大なオレンジ色のクレーンが見える。このレストランを設計した人間がどういう考えを持っていたかは不明だが、まるでこの場所が海底の奥深くに存在しているという印象だけは与えることができた。そしてその海底から南極の氷山にこの場所は接続されているのだ。
「あなたがニュースキャスターになっているなんて思わなかったわ」
「僕もそう思う」
「最初、あなたの姿をテレビで見たときでもこの人が高校のとき、文化祭で一緒に踊った人だとは思わなかったの、でもあなたのクラスのバッチをどういうわけか持っていたのよ」
「光栄なことです」
「それで川田定男からあなたが福原豪のことを調べているから知っていることを教えるようにと言われるじゃない」
「川田定男とはどういう関係なの」
「それは秘密」
「じゃあ、そのことは聞かない」
村上弘明はグラスを手持ちぶさたに軽くふりながら、その内心の嫉妬を気取られないように言った。
「福原豪とはどういう関係なの」
「あの母親にお花を教えていたのよ。今は彼女は死んでしまっていないけど、週に何度が福原の家にお花を生けに行くの」
「僕も福原の家の玄関までは行ったことがあるんだけど、彼の家の構成というのはどうなっているんだい」
「なんだ、キャスターをやっているのにそんなことも調べていないなの」
「戸籍上のことはわかるけど」
「父親の福原豪と福原一馬の二人住まいよ。そして秘書やお手伝いさんなんかもいるけど」
「福原一馬ってもしかしたら、まるで幽霊みたいな若者じゃないかい、K病院のごみ捨て場で見たことがあるんだ」
「そのとおりよ、私があの家に行ってもほとんど姿を見せないわ」
「何かの病気にかかっているという可能性は」
「おおありよ。秘書から聞いたんだけど、精神病らしいわ、それも現代の医療では治らないらしい」
「それなら、大変じゃない、あの資産や政治力を持った福原豪のあとを誰が継ぐことになるんだ」
「さあ」
「福原豪とK病院のことについて何か、知っていることってある。あの病院は福原豪が自分の持っている建設会社を儲けさせるため
作ったという噂があるんだ」
「私は違うと思うわ、きっとあの病院は福原一馬の治療のために作ったのよ」
これは初耳だった。福原一馬の治療のためだなんて、そんなことは考えもしなかった。
「なんで、自分一人の息子のためにわざわざ病院なんて作るんだ」
「福原一馬の精神病の治療法は発見されていないと、福原豪の下で働いている人間が言っていた、だから認可されていない薬でも何でも使っているのよ、きっと」
「ふつうの人間ならとても考えられないことだな、自分一人の息子のためにわざわざ病院を建てるなんて」
「福原家の持っている財産や政治力という遺産を考えたら別に不自然なことじゃないけど」
「ここ最近に起きている犬の惨殺事件についてはどう思う」
「わからない」
「福原豪の建てたK病院で不審な死に方をした松田政男という化学者がいるんだけど知らない」
「知らない」
「君はK病院に行ったことはある」
「ないわ、でもさっき言った犬の惨殺事件のことだけど急に凶暴になった犬が人間を襲ったとい事件があの病院のそばで起こったということを聞いたことがあるわ」
そのことは村上弘明にとっては初耳だった。ここで村上弘明は布製のかばんの中から二枚の写真を取り出すと志水桜の前に差し出した。
「知っている。何度も福原豪の家の中で見たことがある。秘書がこっそり教えてくれたの。こっちにいるのはロシア人との混血らしいわね、闇の建設屋と呼ばれているらしい」
「闇の建設屋」
村上弘明は低くうなった。世の中にそんな変わった職種があるのだろうか。この写真の二人というのはK病院で働いていたという医師、栗田光陽とその同居人の井川実である。志水桜はこの二人が倉庫を改造した家で同居していたことなど知らないようだった。
「闇の建設屋というのは、ロシアが崩壊した直後から仕事にあぶれた旧ロシア軍の関係者と新興のマフィアが結託して作られた闇の組織なの、その国の建築基準に合わない建築物とか、知られてはまずいような施設を作って利益を受けているという話だわ、主に日本では日本海側の地域で暗躍しているという話を聞いたわ、まるっきり日本での建築資材を使っているというわけではないから、日本の規格に合わない、鍵や錠前を使っているという場合もあるということを聞いた。九州の方で日本の規格に合わない鍵なんかがたくさん見つかったらしいけど、それも闇の建設屋のやった仕事らしい」
「ある場所でそんなような鍵が見つかったんだ。この二人が住んでいる場所なんだけどね」
「こっちの男はロシア人との混血らしいわ」
「そんな連中がなぜ福原豪の家に出入りしていたんだろう」
「そこまではわからない」
「この二人は原因不明の自動車事故で最近死んでしまったんだ」
「まあ、こわいわ」
「この二人は一人は栗田光陽と言ってK病院に勤めていたと言っている、そしてもう一人のロシア人との混血の方は井川実と言って前衛芸術家だと名乗っていた。この二人を福原の家で見かけたのはいつ頃のことなんだい」
「1999年の十一月の頃よ」
その頃にはすでにK病院は完成している。その数ヶ月後に松田政男はK病院に入院しているのだ。志水桜とそのレストランで別れてから村上弘明は幸せな気持ちでいっぱいだった。志水桜は自分が独身だとはっきりと言わなかったがどうやらそういった感じだった。村上弘明は志水桜との結婚のことをぼんやりと考えてみた。最初はそうだったとは思わなかったのだが、結論から見ると岬美香に捨てられた自分だったのだ。自分自身そのことをはっきりと認めたくなかったのかもしれない。しかし、志水桜という新しい出会いによって自分自身その事実を素直に受け入れるゆとりが出てきた。そして勝手に志水桜とのゴールインを心の中で想像してしまうのだった。
「兄貴、何をにたにたしているのよ」
この事実を知らない吉澤ひとみは自分の兄のふぬけた表情を見ながら言った。
「これ見て」
吉澤ひとみは丸めた雑誌を村上弘明の前で広げた。
「うちの高校で評判になっているのよ、これ」
「なにが」
「なんだ、兄貴、テレビ局に勤めているのに知らないの」
「高校生の関心のあることと大人に関心のあることとは必ずしも一致しないからな」
村上弘明は負け惜しみを言った。
すると電話が鳴って。その話は中断された。電話に出るとかけてきた相手はあの江尻伸吾だった。
「吉澤どの、最近のニュースを聞いておるかな、要注意人物が来日しますぞ」
「要注意人物」
自分こそそれに確答するだろうと村上弘明は江尻伸吾に言いたかったが、それに確答する人間が誰だがわからない、吉澤ひとみも知っているらしい。
「あいつのいんちきをあばいてやるつもりでがんす」
江尻伸吾は川田定男に対したときと同じように敵愾心をもやしていた。
「急に言われても。誰が来日するんですか」
「ロストホラフエルティスでがんす」