~「青い目の人形」が疎開から里帰り 伊勢の小学校~という、一昨日の新聞記事が目にとまりました。再び、manbeeも「青い目の人形」について書いてみたいと思います。
1927年(昭和2年)、わが母校にも、「青い目の人形」は確かに贈られていました。その根拠となる記事は、1927年5月9日号(伊勢新聞)であります。タイトルは~人形歓迎会~ 「5月5日午前10時から一志郡矢野小学校で同人形歓迎会開催篠田校長開会の辞次いで愛児友情の厚き遠来の人形に対し詳細な説明を為し閉会午後一般村民の閲覧に供した尚村内有志の出品に係る内裏雛の陳列を為し興を添えた」 とありました。(この頃の新聞記事って、句読点がないのね。)
88歳の叔母の記憶は、まさにこのときのものであったと思われます。叔母の記憶によると、わが母校の「青い目の人形」は、ナンシー、キンボールさんといい、うつむくと「ママ~」といったとか~当時の子どもたちは、「ママ~」といったことに大変驚き、「マンマ(ごはん)が欲しいと言っているのかなあ~」 と語り合ったというエピソード~ また叔母は、答礼人形のことも覚えていて、「三重県から贈るのだから三重子さんという名前にしました。」と担任の先生から聞いたことや、贈る費用にと、みんなでお金を供出したということも覚えていたのです。88歳の記憶に脱帽です。
manbeeは、俄然興味がわいてきました。、なんとか、わが母校の「青い目の人形」の行方を、たどれるだけたどりたいと思うに至ったのです。しかし、小学校が4回も移転していることや、わが町には、海軍の三重航空隊予科練があったということから考えても、早い時期に行方が分からなくなったとしても不思議でないようにも思われます。しかし、しかしであります。せっかく叔母が思い出したのですから、できるだけナンシーさんの行方を追うことにしました。
まず、わが町在住の校長先生に尋ねるのが一番早いと、電話に飛びつきました。戦後の校長先生は、見たことも聞いたこともないとの返事でしたが、ただお一人、O校長先生は、昭和8年から13年までは、校長室のケースに入れられて大事に置かれていたということを思い出してくださったのでした。当時、小学生だったO先生は、お姉さんが小学校の教員をしていて、日直のときなどについて行って校長室で見たのだとか・・・髪の毛は黄色、腕が長かったというのですから、半そでを着ていたのでしょうかねえ・・・・確かに昭和13年ごろまでは、小学校にあったようです。
この話以外は、叔母の友達、母の友達にも確かめましたが、収穫はありませんでした。では、小学校はどうでしょうか。もしかしたら、歓迎会の写真があるかも知れないという淡い期待をもって訪ねましたが、これが皆無~ 小学校の沿革史の中には、「青い目の人形」の記録すらありませんでした。 あとは、前述の篠田校長先生のお宅に写真があれば~と、これも淡い期待をもって訪ねましたが、「母に聞いておきましょう」というお孫さんの話~
戦前に、友好を願い、アメリカからわが母校に贈られた幻の「青い目の人形」の話は以上であります。これ以上の発掘は、今後も難しいでしょうねえ。
今年の戦争展では、奇跡的に残った9体の「青い目の人形」を見つめる叔母の目が、なんとも郷愁に満ちて~manbeeまでしみじみとした気持ちになりました。
2007、 8、 27