ベラルーシ人形

  この人形は、べラルーシのヴェロニカ女の子から届いたもの~

 ベラルーシは、ウクライナと同様にチェルノブイりの原爆事故の被害にあった国です。

manbeeが応援をしているヴェロニカ女の子は、18歳~

この9月から首都ミンスクの大学で心理学を学んでいます。彼女も甲状腺の手術を受けたあと、放射性ヨード治療を受けたとか~病気と闘いながら学んでいる学生です。

 manbeeは、多忙さとロシア語に変換するわずらわしさにかまけて、一度も手紙を書きませんでした。そんなところへ、人形と共に女の子ヴェロニカの近況が届いたと言うわけです。


 彼女の村は、「放射能に汚染されていない村」とされているそうですが、村で甲状腺の病気の子は女の子ヴェロニカ以外はいないのだとか~女の子ヴェロニカは、子どもの頃、香草が好きで、よくむしりとって食べていたのだそうです。あとで、この香草は、放射能をよく吸収するとか聞いた母親は、それが原因ではないかと思ったそうです。父親は昨年になくなりました。そのため、母親は乳製品工場で働きながら、家族を養っています。


  彼女は、今年の9月から大学で寮生活をしているそうです。manbeeの支援などは、ささやかなものですが、彼女は、少しずつ貯めてコンピューターを買ったと言うことでした。

嬉しいなあ~。日本から遠い遠い異国の地で、若い女の子ヴェロニカが病気と闘いながら勉強に励んでいることがであります。


 もうすぐ、クリスマスツリークリスマス~ 

今年こそは、プレゼントプレゼントと一緒にカードメモを送らなければ~

                               2007、 10、 25

 




ガラスの小びん  ~病魔からの生還~ と言えば、少し大げさですが、それでも今年はかなりブルーな夏を過ごしました。健康には自信があったのですが、意外にももろい自分を発見、また随分落ち込みもしました。でも、もう大丈夫~ 多くの方々の励ましで元気を取り戻しました。有難う~走る人


 さてさて、このガラス瓶は、アンティークというよりジャンク(100年に満たない比較的年代の新しいもの) に属するもの~1954年と瓶の裏に記されています。

 このガラスの小瓶は、この春、ティーコージーのゆみさんがカナダで見つけてきたものです。8月のアンティーク月間で見つけました。ガラス瓶は大好きで、日常雑貨としてよく愛用しています。このガラス瓶は、我が家の梅干を入れるのにぴったり~パスタを入れるのにもよさそう~口の部分が、しまるようになっているのもいいですよね。

 今年は、ブラックベリー酒が2瓶もできました。manbeeは浸けるのみで、下戸なmanbeeとしては増える一方で少々困っているのであります。2年物のラムレーズン(これは、パウンドケーキを焼くため)、2年物のブラックベリー酒、そして豊作だったので2瓶もできた今年のブラックベリー酒、それに数年前のかりんジュースもありましたっけ~そのたびに、ガラス瓶が増えていきます。

 アンティーク市へいくと、ローマンコインやブルーウイローとともにガラス瓶も気になり始めました。特に、大正時代の和ガラスが面白いですね。氷コップなどは高嶺の花ですが、手ごろなガラス瓶についつい目がいってしまいます。ガラスの魅力は、なんと言ってもあの繊細さと壊れやすい危うさにあるのでしょう。


 危うさと言えば・・・・たしか与謝野晶子の言葉だったと思うのですが、男友達との友情は、○○と危うさとの微妙な均衡の上にあると言ったフレーズが記憶の片隅に残っています。ガラスの危うさを思うとき、不思議とこの言葉を思い出します。(○○は忘れてしまいました。機会があれば図書館で調べてきます)

 男友達との友情は、たしかに人生を豊かにしてくれるに違いありません。人生を豊かにしてくれる(恋愛感情を伴わない)男友達がいないというのが、manbeeには何とも残念でなりません。

 ガラスの小瓶を見ながら、そんなことを思う今日この頃です。

                                      2007、 10、 22

 

 

 


答礼人形  女の子~「青い目の人形が疎開から里帰り 伊勢の小学校~という、一昨日の新聞記事が目にとまりました。再び、manbeeも青い目の人形について書いてみたいと思います。


 1927年(昭和2年)、わが母校にも、「青い目の人形」は確かに贈られていました。その根拠となる記事は、1927年5月9日号(伊勢新聞)であります。タイトルは~人形歓迎会~ 「5月5日午前10時から一志郡矢野小学校で同人形歓迎会開催篠田校長開会の辞次いで愛児友情の厚き遠来の人形に対し詳細な説明を為し閉会午後一般村民の閲覧に供した尚村内有志の出品に係る内裏雛の陳列を為し興を添えた」 とありました。(この頃の新聞記事って、句読点がないのね。)

 88歳の叔母の記憶は、まさにこのときのものであったと思われます。叔母の記憶によると、わが母校の「青い目の人形」は、ナンシー、キンボールさんといい、うつむくと「ママ~」といったとか~当時の子どもたちは、「ママ~」といったことに大変驚き、「マンマ(ごはん)が欲しいと言っているのかなあ~」 と語り合ったというエピソード~ また叔母は、答礼人形のことも覚えていて、「三重県から贈るのだから三重子さんという名前にしました。」と担任の先生から聞いたことや、贈る費用にと、みんなでお金を供出したということも覚えていたのです。88歳の記憶に脱帽です。


 manbeeは、俄然興味がわいてきました。、なんとか、わが母校の「青い目の人形」の行方を、たどれるだけたどりたいと思うに至ったのです。しかし、小学校が4回も移転していることや、わが町には、海軍の三重航空隊予科練があったということから考えても、早い時期に行方が分からなくなったとしても不思議でないようにも思われます。しかし、しかしであります。せっかく叔母が思い出したのですから、できるだけナンシーさんの行方を追うことにしました。

 まず、わが町在住の校長先生に尋ねるのが一番早いと、電話に飛びつきました。戦後の校長先生は、見たことも聞いたこともないとの返事でしたが、ただお一人、O校長先生は、昭和8年から13年までは、校長室のケースに入れられて大事に置かれていたということを思い出してくださったのでした。当時、小学生だったO先生は、お姉さんが小学校の教員をしていて、日直のときなどについて行って校長室で見たのだとか・・・髪の毛は黄色、腕が長かったというのですから、半そでを着ていたのでしょうかねえ・・・・確かに昭和13年ごろまでは、小学校にあったようです。

 この話以外は、叔母の友達、母の友達にも確かめましたが、収穫はありませんでした。では、小学校はどうでしょうか。もしかしたら、歓迎会の写真があるかも知れないという淡い期待をもって訪ねましたが、これが皆無~ 小学校の沿革史の中には、「青い目の人形」の記録すらありませんでした。 あとは、前述の篠田校長先生のお宅に写真があれば~と、これも淡い期待をもって訪ねましたが、「母に聞いておきましょう」というお孫さんの話~


 戦前に、友好を願い、アメリカからわが母校に贈られた幻の「青い目の人形」の話は以上であります。これ以上の発掘は、今後も難しいでしょうねえ。

 今年の戦争展では、奇跡的に残った9体の「青い目の人形」を見つめる叔母の目が、なんとも郷愁に満ちて~manbeeまでしみじみとした気持ちになりました。

                       2007、 8、 27

 

 


コインたち  音譜またまたコイン登場~


 古代のコインには、何故かしらこころ惹かれるものがあるようです。気の遠くなるような長い歴史と、たどってきたであろうコインの変遷にロマンを感じるのかも知れません。この2つのコインは、この夏、縁あってわが家の一員となりました。


 左のコインは、10世紀~11世紀頃の北インド地方のキラキラゴールドコインで、表面にはラクシュミーが描かれています。ゴールドといっても18金ではなく、その光沢から15金、或いは9金ではないかと思われます。ラクシュミーとは、インド神話の女神で、幸福と美をつかさどる女神だとか~幸福と美をつかさどると言うのですから、身に着けるとラッキーが舞い込むかも知れませんね。日本では化身して、吉祥天と呼ばれているようです。これは、北インドのチャリカリス国(?)のコインだというのですが、ネットで調べても分かりませんでした。アンティクミステリーにこだわるmanbeeとしては、俄然楽しくなってきました。”チャリカリス国のことを、調べてやるぞ”って~また、コインの裏には、ブラフミー文字(?)が描かれていて、これがデザイン的にも面白いのであります。

 右のローマンコインは、AD260年頃のゴーディアヌス帝のもので、ユーゴスラビアが崩壊したときに大量に出回ったものだそうです。ゴーディアヌス帝といえば、五賢帝のアントニヌスピヌスよりは、少し後の皇帝ですかね。そういえばローマ帝国は、地中海沿岸から内陸まで争覇した長い歴史があるのですから、ユーゴと聞いても驚きません。光沢があって、とても美しいシルバーコインであります。きっと、収集家によって大事にコレクションされていたものではないでしょうか。縁あってこのコインは、2つわが家にやってきました。


 さて、今度はこれらのコインをどのように活用したらよいでしょうか!? 穴などあけずコインコインとしての価値はそのままにしながら・・・・もう少し、余裕ができたら考えたいと思います。

                 2007、 8、 10

 
aoi 2007年の「戦争展」へ行ってきました。

今年のテーマは「青い目の人形」と平和~


 1927年に、アメリカの子どもたちから日本の子どもたちに「友情人形」が贈られました。これが「青い目の人」です。 当時、アメリカから、12739体の人形が「親善大使」として全国の小学校や幼稚園に贈られたといいます。人形を受け取った学校では、「人形を迎える歌」を歌い、踊りや劇を披露して歓迎したとか~

 ところが太平洋戦争が始まると、「青い目の人形」は、一変して、数奇の運命をたどることになります。日本とアメリカは敵国になってしまいました。英語は敵国語だとして使用を禁止され、「青い目の人形」や「赤い靴」の童謡は歌ってはならないと言うことになりました。そして、アメリカの子どもたちから送られた「友情人形」も、「敵国の人形」として、燃やされたり、竹やりで付かれたりして壊され、その大部分が処分されてしまったと言うことでした。


 わが母校にも、「青い目の人形」は贈られたようです。昨日の夕食のとき、「青い目の人形」の話をしたとたんに、88歳の叔母が話し始めました。当時、2年生だった叔母は、歓迎式で30~40センチの「青い目の人形」を見たのだそうです。名前は「ナンシー、キンボールさん」・・きっとパスポートに記されていたのでしょうね。(「青い目の人形」は、一体一体パスポートを持っていたのだそうですよ)この人形は、うつむくと「ママ~」といい、体をそらせると「パパ~」といったとか~(80年も前のことをしっかり覚えている叔母の記憶に脱帽です~)叔母は、答礼にアメリカに送った日本人形が「三重子」という名前だったことも覚えていました。 

 さて、その後のナンシーさんの運命は、どうなったのでしょうか~ manbeeとしては一番気になるところですが、今のところ分かりません。


 現在、わが市に残っている「青い目の人形」は3体のみ。明小学校、新町小学校、川合小学校に~しかし、よくぞ残ったものだと思います。画像の人形は、新町小学校に残された人形ですが、篤志家の手によって新しい洋服を着せてもらっていました。これら残った人形は、当時の人が、アメリカから贈ってくれた子どもたちの気持ちを思い、或いは燃やすのは忍びないと思い、人知れず隠したものでしょうか。

 贈られてから80年経った今、奇跡的に残った「青い目の人形」は、静かに平和と国際交流の意味を問いかけています。

           ミッキーマウス

 こちらは、アメリカからわが家にやってきたドール~言わずと知れたミッキーマウスです。1940年代のカナダで製造されたもののようです。ただ、今のミッキーよりもずっとシンプルですよね。戦争の影は・・・・・ありません。
                          2007, 8, 3

 
ショパンのCD

 このところ、manbeeのマイブームはショパンであります。音譜

「スケルツォ第1番ロ短調 作品20」 実は今、この曲に夢中なんです。クラシックオンチなのにね。

 この曲は、たまたま394円で買ったショパンのCDの中に入っていました。

 鍵盤をたたき付けるような不協和音のように聞こえますから始まるこの曲は、激しく防波堤にぶつかり砕ける波のようであり、うねるような旋律の繰り返しは、ショパンの悩み、怒り、焦燥といった心象風景を表現しているようにも思えます。中間部は、一転して穏やかな旋律の繰り返しが静謐さを奏で、そして再び前半の激しい旋律に立ち戻り、上り詰め下りながら激しくたたき付ける和音で終了~(勝手な解釈でごめんなさい) ショパンにこんな激しい曲があるなんて知りませんでした。ショパンのスケルツォは4番まであるそうです。

 クラシックオンチながら、いろんなピアニストの「スケルツォ第1番ロ短調 作品20」を聴いてみました。

 CDブーニンさん、ルビンシュタインさん、ユンディ・リーさん、韓国の若手ピアニストのジョンウォン・キムさん~演奏者によってこんなに音色や印象が違うなんて新しい発見です。 ユンディ・リーさんは躍動感溢れる演奏、ブーニンさんのは、最後の部分がちょっと好みじゃないな。ジョンウォン・キムさんは、繊細なタッチで上品、ううん、やっぱルビンシュタインさんが一番でしょうかね。一言で技巧と言ってしまえばそれまでですが、軽快でありながら華麗なのです。9分04秒間がとても短く感じられます。ぜひ、ホロヴィッツさんのCDも聴いてみたいのですが、これがなかなか見つからない。


 低血圧だったmanbeeは、朝が弱い。実は、通勤時間の30分間に、この曲を聴きながら気持ちをしだいに高揚させていくというわけです。曲に合せて右に首を振り、左に傾き~音譜

 ヘッドフォンこれ、manbee流鑑賞のしかた・・・

                        2007、6、 23


 

 

ポロンナルワの涅槃像    ニコニコもう、20年も前のことです。
  スリランカの古都ポロンナルワ(10世紀~12世紀ごろ)に、大きな涅槃仏があることを知って、ぜひ会ってみたいとひとりでツアーに飛び込んだ事がありました。大きな岩山を背景にした立像、坐像、横臥の3体の仏像は、たいそう見ごたえがありました。そして、コロンボ、アヌダラプーラ、ポロンナルワ、シギリヤ、キャンディと回るにつれて、スリランカの人々の心に仏教がしっかりと根付いていることを知ったのでした。


 manbeeがスリランカに出発する前に、ある先輩から依頼されたことがありました。それは、スリランカがサフャイヤをはじめとする原石採取国であることから、標本用に原石を持ってきてほしいと言う依頼でした。そんなことが可能かどうか分かりませんでしたが、ツアーガイドのリンさんに話すと、なんと翌日、現地のブローカーを連れてきてくれたのです。彼はポケットからざらざらと原石を取り出し、安く分けてくれたのでした。それから、研磨したガーネットやサファイヤ、キャッツアイを取り出し「お土産にどう?」とも~


 あれから20年~ 

 先日、manbeeが本箱の中を整理していると、ごつごつとした小石が出てきました。ごつごつとした7つの石は、先輩にお土産としてあげた残りの石だと気づいたんです。すっかり忘れていたんですね。捨ててしまうには何か惜しい気がして、研磨したらどんな色が出てくるのか確かめてみたくなりました。知り合いの宝石店を通して研磨してもらうことにしました。そして、何かスリランカの思い出になるようなものに加工しようと思い立ったのです。スリランカと言えば紅茶、仏教、象でしょうか・・・古都キャンディの仏歯寺も忘れられません。そこで、塔の宝輪をデザインして貰って石を配置してもらうことにしました。石は、殆どがサファイア系でありました。小さなエメラルドもあったのでそれも入れてっと・・・・宝石ブルー

     塔の宝輪
  出来上がってみると、とてもユニークなブローチになりました。名づけて「メモリー オブ キャンディ」

 キャンディの仏歯寺にこんな宝輪があったかどうかはもう記憶にありませんが、満月の夜のペラヘラ祭りは忘れられません。百頭にも上る象の行進や松明のあかり、ダンサーの踊りが、一定の間隔で町を練り歩きます。そして、バテックでお化粧をした象の上には電飾に輝く仏歯の箱~ このブローチを見ていると、それらがあざやかに甦ってくるのです。
                2007、 6、 3




陶器市  今年もまた、土岐市で開催された陶器市へ出かけました。この時期、毎年の恒例行事で、もう10数回を数えるでしょうか・・・ もちろん、友達の郁さんの運転です。

 今年は、もろもろの事情で、初日に出かけることになりました。案の定心配が的中、私たちは交通渋滞の渦に巻き込まれ、なんと5時間もかかって到着するはめに~車


 実は、今年はお目当てがあったんですよ。あるお店で、アンティークのお皿を譲ってもらう約束をとりつけていたんです。

わくわくどきどき~さっそくmanbeeは、一目散にそのお店に急ぎました。お店は、人、人、人でごったがえしています。忙しく立ち振る舞う女主人を見つけて、「やってきましたよ。覚えていてくださった?」 「? ? ?」  しばらく思い出すのに時間がかかりましたが、徐々に昨年の約束を思い出してくれて、「あああ~・・・あのときの~」ということに~ 

女主人が案内してくれたのは、お店の2階でした。工業団地の一角にある広いお店の2階です。「これはね、中国清の時代の珍しい皿なんだけれど、こんなところにおいて~息子はまったく関心がなくてねえ」と嘆きの声も・・・それもそのはず、明末清初(?)の陶器は、現代のものと同じ棚に無造作に置かれているのです。注意

 manbeeのお目当てのお皿は、4枚ありました。manbeeは、その中から勝手にチョイスして譲ってもらうことにしたのです。

                               アンティークのお皿

 あのとき、一緒に交渉した各務原市の彼女のことも気になりましたが、このときは嬉しさに興奮していて気遣うことも忘れていました。 家に帰ってから、急に気になりだしました。各務原市の彼女は、どうしただろう。あれから訪ねてきたかもしれない。モダンなお皿が先に売れたって分かったら、きっとがっかりしただろうなあ。居ても立ってもいられなくなって、女主人に電話をしました。

「あれから、陶器祭りの期間中に各務原市の彼女が訪ねてきませんでしたか?」 女主人は、笑いながら 「大丈夫・・・来ませんでしたよ~」と。 ああ、きっと来られなかったんだア~ 先駆けをしたという後ろめたさは、これでちょっと緩和されました。えっ

 ムーミンのマグカップ
 この日は、もう1つムーミンのマグカップを見つけました。ここ数年来愛用のマグカップが、かけてしまったので新調したというわけです~こちらは、文句なくグッド・・・コーヒー
 さて、ずっと非売品だったお皿は明治時代のものということでしたが、それにはちょっと疑問がないわけではありません・・しかしいずれにしてもモダンなお皿です。さあ、どんな活躍をしてくれるでしょう~。お肉料理~お魚だってグッド~勿論フルーツだってOK~ 俄然、楽しくなってきました。

                           2007、 6、 2


かもめ  

  「ティーコージー」の 4月は、フィンランド月間でした。青りんごだけどまっ白なケーキ、北欧スタイルのオープンサンド、それにちょっぴり甘い・本日の紅茶~と、4月もおいしかったな~ケーキ


 ティーコージーのゆみさんが、フィンランドに降り立った日に 現地で観たという「かもめ食堂」という日本映画~

 この映画は、ティーコージーの「かもめ通信」で知りました。(なんどもレンタル屋さんへ足を運んで、昨日やっとかりることができたんですよ。)テレビ

ヘルシンキで、ただひとり「かもめ食堂」を経営するサチエという女性を小林聡美さんが演じています。この女優さんは、大好きな女優さんのひとり~

 「かもめ食堂」は、この食堂をひょんなことから手伝うことになったミドリとマサコ3人の、日常的のようで それでいてそうでない不思議な物語です。そうそう、この食堂のメインメニューは、おにぎりでしたっけ~ 素朴だけれどおいしいおにぎりをヘルシンキの人にも食べてもらいたいと思うサチエは、自然体で何の気負いもなく日常をおくっています。最初は誰も来てくれなくても、一生懸命毎日をまじめにがんばっていればいいって・・・やがて、やっと初めてお店が満席になった時の嬉しそうな顔は、満足感に溢れていて美しかったなあ・・・

 また映画「かもめ食堂」の魅力は、個性ある3人の女優さんだけではなく、美しいフィンランドの港町や森霧の風景にもありました。

世界各国からの客船が寄航する港を飛び交うかもめたちと、どこかおかしいけれど温かな人たち~ 

観終えた後、ほんわか温かな気持ちになりました。

 こんな映画はいいなあ。

                                  2007、 5、 12

 

 


白砂青松の海岸
 ちょっと自慢したい わが町の海岸線です~波


  近年、海岸線の護岸工事が進められていて、わが町にも白砂青松の海岸がステキに甦りました。スーパーマーケットへ買い物に来たときには、必ずこの海岸線をひと回りします。散歩をしている人~魚釣りをしている人~時には、パラソルを開いてお弁当を食べているグループもあります。遠く沖には、貝を採る小さな漁船が浮かんでいて・・・・・

 ずっと昔のこと、今はなき祖母からかすかに聞いた記憶があるのですが、1年に1度や2度はこの海岸から富士山が望めたそうです。伊勢の朝熊山や御在所岳からも望めることはあるというのですから、manbeeの記憶もあながち間違いではなさそう~

ぜひ、一度はここから富士山富士山を見てみたいなあ~

 海岸線を通って、漁港を横目に車を走らせるとmanbeeのとっておきの場所~ manbeeがひそかにわが町のイングリッシュロードと呼んでいるハナダイコンの群生地があります。

                              ハナダイコンの群生
 1992年に劇場公開された映画「ハワーズ・エンド」をご存知ですか?

 20世紀初頭のイギリス、ウイルコックス家が所有する田舎の別宅「ハワーズ・エンド」にまつわる運命的な不思議な話~ 映画の内容もさることながら、花の咲き乱れる庭、うっそうと繁る樹木、月夜に見る野生のブルーベル群生地 等など、手を加えない田園風景の美しさに感動したものです。(この映画でエマ・トンプソンはアカデミー女優賞を受けたのでした)

 その、田園風景にどこか似ているわが町のイングリッシュロードです。今、わが町でもあちこちにハナダイコンが咲いていますが、ここが一番のおススメ~ ニセアカシアのやわらかい新芽と、ハナダイコンのうす紫色がマッチして、手を加えていない風景がGood~

 毎年、この時期には、何度もこの道を通ってひとり満足しているmanbeeであります。 「わが町の残したい風景」

                         2007、 4、 22