前回の続きである。

フリースクールや不登校支援関係者とのお話会を通じて考えたこと。

 

目下の教育政策は、幼児教育から大学教育に至るまで「グローバル人材育成」のために動員されている状況だが、このグローバル人材とは何か?

そもそもどうやって英訳するんだ…?

(役所が決めている訳はあるのでしょうが)

 

以前にICUの先生が、グローバル人材とグローバル市民は全く異なる概念だという論文を書いておられたことがある。とても納得したのを覚えている。

あと、内田樹氏も「グローバル人材」という言葉が何を意味しているのかを分析して、「 英語が話せて、外国人とタフなビジネスネゴシエーションができて、外国の生活習慣にすぐ慣れて、辞令一本で翌日海外に飛べる人間 」と定義したことがあった。

こちらにそのことを書いた記事がある。

 


引用すると、「これは言い換えると、その人がいなくなると困る人がまわりに1人もいない人間ということです。「グローバル人材」であるためには、その人を頼りにしている親族を持ってはならないし、その人を欠かすことのできないメンバーに含んでいる共同体や組織に属してもならない。つまり、その人が明日いなくなっても誰も困らないような人間になるべく自己陶冶の努力をしたものが、グローバル企業の歓迎する「グローバル人材」たりうるわけです」

 

確かにその通りである。ただそれだけでは足りないのではないかという気になった。

目下、日本の政府が求めるグローバル人材とは、上記に加えて「世界と競争して勝ち、経済的利益を日本にもたらす人材」ではないか。あわよくば「日本の伝統的価値」という名前のまがいものを(黒髪とか)、世界に普及(布教か?)してこいと。

 

つまり、グローバル人材とは新自由主義と偏狭なナショナリズムのキメラが求める人材像であるということ。

 

そしてだからこそ、「グローバルと言いながら、直毛黒髪しかダメ」というような変な話が湧いてくるのではないだろうか。

「主体的・対話的で深い学び」と言いながら、「幼児期に育てたい10の姿」なんて変なものも出てくる。

 

なお、「主体的・対話的で深い学び」は今やすっかりと「個別最適な学び」と「協同的学び」に分割されて変質されたのではないかという話は、先日別のところで書いたところでもあります。