講演のアシスタントをしてくださっている方が、この様な言葉を贈ってくれました。
御一読いただけましたら幸いです。

「また外に出よう」と思える理由
車椅子の大貫学人さんがそっと教えてくれた、生きる“深さ”の話

先日、講演家であり車椅子ユーザーの大貫学人さんにご一緒しました。
その一日は、私の心に深く残る“出会い”と“気づき”の連続でした。
そのなかでも、ある親子との偶然の出会い、そして大貫さんの何気ない、でも強く温かい行動が忘れられません。

待合室で出会った親子の姿。
病院の待合室に座っていたときのことです。
しばらくして、リクライニング型の全介助用車椅子に乗った10代くらいの男の子が、お母さんに押されながらやってきました。
重度の四肢麻痺があるのでしょう。
顔や体を自由に動かすことができない中で、何か伝えたかったのか、小さな声を出された瞬間。

お母さんは周囲の視線にハッと気づいたのか、少し焦ったように方向を変え、息子さんに「静かにしようね」と声をかけながら、人の少ない壁際のほうへそっと移動されました。

その一連の動きがあまりにも自然で、でも、とても切なかったのです。

ただ受診のために病院に来ただけなのに、他の人に迷惑をかけないように、気を使わなければいけない。
子どもを守るために、自分の気配をできるだけ消さなければならない。

そんな“生き方の癖”が、その親子の動きからにじみ出ているようでした。

再び出会ったレストランでの場面。
通院が終わり、私たちは近くのレストランで昼食をとることにしました。
席に案内され、注文を終えてふと前を見たとき、なんと、先ほどの親子が同じ店内の通路を挟んだ向かいに座られていたのです。

お母さんは、ご自身の食事よりもまず、息子さんに食事介助をしていました。
スプーンに丁寧に食事を盛り、少しずつ口元へ運ぶ。
息子さんが飲み込むのを見届けてから、また一口。
そんな様子が静かに続いていました。

やっと自分の食事に取りかかられたのは、私たちのテーブルに料理が届いてしばらく経ってからでした。
それでもゆっくりと食べる暇はなく、まるで“時間を飲み込むように”ご自身の食事を終えられていたのです。

「24時間介護」とは、こういうことなんだ。
「誰かに手を貸す」ではなく、「ずっと、ずっと手を離さない生活」。
その現実が、目の前で淡々と進んでいることに、私は胸が締め付けられました。

大貫さんが、そっと言ったこと
そんな姿を見て、大貫さんがポツリと口を開きました。

「あの親子、待合室の時から気になっていたんだよね」

そして、こんなふうに続けました。

「お母さんは、もしかすると、出産のときに迷いがあったかもしれない。
生まれてからも、“この子を産んでよかったのか”って悩んだこともあると思う。
自分もね、幼少期は貧しかったし、いじめられたり、怒鳴られたりして育ったし…。
今この身体になってみて、あの親子の“背負ってるもの”がよく分かるんだよ。
今日という一日が、あの親子にとって、
“ああ、いい日だったな”“また外に出ようかな”って思える日になってたら、いいな。」

「食事代を、私が」
その言葉のあと、大貫さんは静かに動き、レジに向かいました。

「男性の店員さんに、となりの車椅子の親子の方のお食事代を、私に支払わせてください。
名前は伝えないでいいです。
ただ、“いろいろ大変でしょうけど、応援しています”とだけ伝えてもらえませんか。」

それは、誰にも気づかれず、賞賛もされないまま、ただ真心だけをそっと差し出す行動でした。

外出には、4時間以上かかるという現実。
でも、忘れてはいけないのは、その外出の裏にある現実の“重み”です。

大貫さんが外出するためには、
朝1時に起床し、身支度やケアに4時間かかるといいます。
手動運転装置を使った車で自力で移動し、通院や講演に向かいます。

帰宅後も、入浴や処置に時間がかかり、眠りにつくのは翌日の朝になってしまいます。

それだけの負担を抱えていても、「今日もどこかで誰かと出会えるかもしれない」
「誰かの力になれるなら、外に出たい」

そう語る大貫さんの目は、本当に真剣でした。

私たちに与えられた「同じ24時間」。
ここまでの話を聞いて、私は思いました。

私たち健常者にも、同じ24時間が与えられている。
でも、その“時間の密度”は、どれほど違うだろうか。
自分の時間を「自分のため」だけに使っていないか?
「できない理由」ばかり探して、動けないふりをしていないか?

大貫さんの生き方は、同じ時間を、どれだけ“深く”生きるかを教えてくれます。

最後に ―「生きる深さ」とは、

生きる深さとは、与えられた条件の中で、どれだけ“誰かのことを想えるか”だと思います。

今日のあの親子にとって、
大貫さんの静かな支援が、
「また、外に出てみようかな」と思えるきっかけになっていたら。
それは、目に見えないけれど、確かな“バリアフリー”だったと思います。

「誰かに必要とされたい」
「誰かの力になりたい」

そう願い、本気で行動し続けている人が、ここにいる。

そしてその人の存在が、静かに私たちに問いかけてくるのです。

「あなたは、同じ24時間をどう生きていますか?」

 静かな勇気が、世界を少しだけ変えていく。
社会には、まだたくさんの“見えない段差”があります。
物理的なバリアだけではなく、
「こうしてはいけない」「目立ってはいけない」
そんな無言の圧力が、日常のそこかしこに横たわっています。

でも、誰かの一言、誰かのまなざし、そして誰かの“そっと差し出された優しさ”が、その段差を少しずつ、なだらかにしていくのかもしれません。

大貫さんが示してくれたように、
優しさは、大声ではなく、静かに根を張る力です。

「誰かのために、本気で今日を生きる」

その姿は、言葉よりも雄弁で、
周囲の人の背筋をそっと伸ばします。

私たちが地域で出会うすべての人に、“その人のまま”で過ごしてもらえる社会。
誰かがそっと、「あなたの存在が嬉しいです」と伝えてくれる社会。

そんな社会を、私たちの毎日の選択で、少しずつ形にしていけたら。

今日という一日が、誰かにとって「生きていてよかった」と思える日でありますように。