現在47歳、27歳で信号無視の車にはねられ、本日11月3日で障害者になって20周年を迎えることが出来ました。
なぜ20周年と表現したいのかと言いますと、
入院中に自分と交わした約束「自分を信じ、自分に負けない」この言葉を胸に、どんな生き方であろうとも人生に対し堂々と向き合い、あらゆる苦難、困難を精一杯乗り超えて来た20年なので私はこの様に表現したいです。

幼少期から振り替えると壮絶な人生だったかも知れない。
1969年 昭和44年6月1日 栃木県宇都宮市で生を受ける。

父親が事業の失敗、怖い男の人が家に来て、父親の名前を言って、どこへ行った!!と怒鳴り散らし、

幼稚園に入る前の自分に、クソガキぶっ殺すぞ!!と言われる日々が。

母子家庭で育つ。

子供の頃は電気が止められる様な日々があり、一本のローソクが唯一の灯りで、それも使い果たした時は、月明かりだけで夜を明かした日も。
食べる物も無く、母親から預かった100円、時には50円だけを手に持ちパン屋さんで「動物のえさ」と書かれた食パンの耳を買い、両腕で抱きしめながら家に帰り、パンの耳と水道水だけで暮らした時が何度もあった。

その頃の僕の、気持ちは。
それでも笑顔は忘れなかった。
お母さんを悲しませてしまうから。
そう思って笑顔は絶やさなかった。

そんな日々だけど、楽しかった。
電気は止められたけど、水道とガスは使わせてくれたから。
特にガス屋さんがいろいろ察してくれて、支払いがかなり遅くなってもずっと待っていてくれた。
そのおかげで、ガスコンロの魚を焼く所(グリル)にパンの耳をおいて、かるく焼いて美味しく食べることが出来た。子供ながらにそんな知恵もつけることが出来た。
そんな借家住まいが25年続いた時、子供の頃から母親に絶対家をプレゼントすると言う強い思いから、実行する。
築8年、好みの家を見つける。
銀行に融資の書類を提出するが、ある銀行では母子家庭で本気ですかと罵られ、他では書類を投げて苦笑しながらお帰りくださいと言われ、10行近くの銀行に断られた。
最後に残された1つの銀行が1カ月の審査の末、若くして家を持とうとするその気持ちに応援したいと言ってくださり、融資の決定がおりた。
25歳にして、念願だった一軒家を母親にプレゼントすることが叶った。

しかし、その1年後。。。

1996年 平成8年11月3日 病院の当直明け午前9時、バイクで帰宅途中、信号無視の車にはねられる。
命は取り留めたものの下半身不随の身体障害者に。
裁判を行ったが、負けました。
現在の様に監視カメラが無い時代、相手が信号無視をした証拠が無かった。
寝たきりの自分は現場検証も出来なかった。
相手の弁護士は法廷でずっと薄ら笑いをして勝利を確信していた。
負けました。

ほんの少しだけ人生を振り返ってみました。
正直、涙が溢れました。
こうして人生を振り替えると様々なことがありました。
しかし、それらの壮絶なことが経験値になり、何があっても立ち上がれる様になり、講演の仕事では経験談として大変役に立っています。
渦中にいる時は確かに辛かったが、全ては無駄なことではありませんでした。

ひとつだけ今の気持ちを伝えさせてください。

「幸せです」

特に障害者になってからの20年は本当にそう思っています。
まず、生きることに真剣になりました。丁寧に生きる様になりました。
そしてこの体になり、止めたことがあります。
不平、不満、愚直 これらを口にすることを。
このことにより、運気がとても好転し始めたのです。
本当にたくさんの良いご縁に恵まれる様に。
こうして2005年には日本テレビ第28回24時間テレビ車いすトライアスロンに挑戦し、この同じ空の下で繋がるあまりにも多くの方々の応援により、51.5キロの道のりを9時間6分で完走することが出来ました。

幼少期から壮絶なことがありながらも、どんな時でも必ず「人」が
力をくれました。
勇気をくれました。
行動力をくれました。

今の自分は、みんなの力がひとつになって
いる。
だから心から幸せなのです。
与えられた命の砂時計を、見守ってくださる皆様に恥じることの無い様に、精一杯生きます。

この同じ空の下で繋がる皆様、これからも心から宜しくお願い申し上げます。

長文を最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。

2016年11月3日
大貫 学人