入院させなければ・・・・・ | エーデルワイスのブログ

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小さな庭では花と一緒に、ぶきっちょなのにハンドメイドを楽しんでいます。

桜が満開ですね。



いつもの通勤道








ミモザの花に
元気をいただきました。


家の前の空き地にある
雪やなぎも満開ニコニコ



3月26日、
母の四十九日法要を執り行いました。
その日は母のお誕生日。
生きていれば90歳。

寒い、雨の1日でした。

私が入院させていなければ
もう少し長生きできたのかな?
と思う毎日。

母は、弟と2人暮らしでした。
慢性の腎臓病と共に
昨年の8月頃から
軽度の認知症になり、
1人になると、不安が爆発。
コロナ禍、余計に認知症は
進んだのかも。

夜勤明けで
寝ている弟の部屋を何度も
行くようになってしまい、
弟が部屋から出てこないと
思いっきりドアをたたく。

そんな日が続き、
弟は、このままだと、
母に手をだしてしまうと、
私の家に連れて来る事に。

迎えに行くと
母は、家を出る前に
自分が使っていた電化製品など、
一つ一つに
ありがとうと。

弟にも、ありがとう。

もう、帰れないとわかっていたのか?

弟にとっては、
これが入院する前の最期の母の姿に。

私の家に
来てからも
1人になると
淋しくて
救急車🚑🚑💨を呼んだり。

そして、
私が仕事でいないと、
2階で夜勤明けで寝ている
主人の部屋まで、階段をはって登ってしまう。

これでは、もう、
1人にしておけない。
主人も私も仕事をしなくてはで

私の勤めている
関連施設にある病院に
腎臓病の治療もかねて、
10月初めに入院させました。

それからは、
病棟にコロナ感染者が出てしまい
病棟が封鎖される事が2回。
母も1度、感染してしまったり。
感染解除にはなりましたが、
後遺症なのか、
それからは微熱の毎日。
食事もとる事もできず
24時間の点滴。

感染解除になってからは
特別に
直接面会させて
いただきましたが、
行く度に
帰りたい、帰りたい、
帰して下さいと。

スタッフにも迷惑をかけるばかりで。

その母の思いに、
家に連れて帰ろうと
思いましたが
なかなか、決心がつきませんでしたが、やっと。

それからは、
ケアマネさんと相談しながら、
訪問医師、看護士
介護サービス、介護用品等を
整えて
いろいろ、いろいろと
手配をしていましたが

大寒波が到来したり、
母の体調が悪かったりで
なかなか、
願いがかなわず
やっと
1月31日に帰れる事に。
でも、
帰る日の前の晩に
母は
誤嚥性肺炎になり、
急変してしまいました。

それからは、意識もないまま
18日間、頑張って
生きてくれましたが、

2月18日
窓から暖かな陽射しが入る
お昼過ぎに
私と私の息子に
見守られ、静かに
息をひきとりました。

空は眩しいほどの
青空でした。

私が
もっと早く動いていたら、
入院させずに
自宅でケアをしていたら
もっと長生きできたかなと

母はどんな思いだったのかな?と

いろいろ、考えてしまう、
そんな毎日が続いてます。

急変してからは、
これが最期だと思い、
母に
ありがとうと
耳元でつぶやき
家に帰る毎日でした。

亡くなってから、
やっと家に帰る事ができた母は、
家族に囲まれ、
生活の音の中
孫、ひ孫達に
話しかけられ、
頬に手を触れられ
家族の温かな優しさに包まれて
3日間を過ごしました。

最期に誰かが、
花に囲まれた母の顔を見て
笑顔に見えるねと。

そして、家族の優しさに
包まれながら、旅立ちました。

私は
不思議と今だに涙はないです。
ただ、悔しい思いが残ります。

せめて、
桜を見せたあげたかった





今年も
枝がこんな折れていても
きれいに
咲いている桜と会えました。


この桜の様に
強く
しっかりと
全てを受け入れて
生きていかなくては。

今は
そんな気持ちになりつつあります。


母が大切に育てていた
らんの花を
弟が母の代わりに
大切に育ててくれていました。

四十九日法要の
次の日に

「咲いたよ」  と。
弟から
LINEと共に
写メが送られてきました。

母が、
今まで、
「ありがとう」
と言っている様だと



綺麗だね。

母から「ありがとう」の
言葉を
聞けなかったから
そうだといいね。

7人兄弟の末っ子なのか、
わがままだった母。
そんな母と長い間
過ごしてくれた
弟に感謝しています。


晩年、
母は
こよなく俳句を愛していました。
その母の句です。

遠くには
いけぬ花見と
なりにけり



なにもかも
忘れたき日の
花吹雪




こんな私の話に
お付き合いしていただき、
ありがとうございました。


お身体だけは、
大切に、お過ごし下さい。