葉っぱを売ることをいちばん最初に思いついた町はいいけど、葉っぱならいっぱいあるけどそれを売ることは思いつけなかった町はどうしたらいいのか。
 ほかの町も葉っぱを売り出してしまったらどうなるのか。
 そうやって現金収入を増やして、お金のかかった暮らしをすることで、都会に出ていきたくなっちゃうんじゃないか。そうしたらますます過疎になっちゃうんじゃないか。

 そういうひとつの町の中での悪循環、全体としての悪循環に答えてくれる本ではない。
 でもいつかどこかで私は、そういう悪循環を知りながらも、それに真っ向勝負を挑むことに自分の時間を使わないという居場所に、しっくりと落ちついていたんだった。

ありのままの現実を見る力のない彼女は、ありのままの現実を耐え忍ぶことしかできなかった。というロマン・ロランさんのお言葉を思い出した。

 ありのままの現実を見て見ぬふりをせず、自分という存在も無視せずに、現実の悪循環を断ち切ろうとするのではなく、それにできるだけ加担しないように暮らしていく。
 そのための情熱がさわやかな一冊だった。
 車屋さんが相手にとっては大きな買い物になる車をたくさん扱うように、私たちはたくさんのたった一度きりのいのちを相手にする。

 行き場をなくしていったいのちに道すじを見つけられなかったこと、後押しすらしてしまったかもしれないことを、こうすればどうだっただろうかと先輩に静かに諭され、あせったんだねと友だちに代弁してもらい、またいろんないのちに向かい合う。

 「呆けて」ゆく自分にとまどっているいのちに出会いに、人生、お仕事の先輩と一緒に行き、横でその光景を見ながらそのことを思い出し、でもこうしてお手本を見せてもらえば、今度は私もあせらずに向かい合える気がする、というエネルギーはあることを知る。

 あせらないために自分の引き出しを増やそうと思って読んだ本でしたが、それは結局、「相手としっかり向き合える自分づくり」という自分が自分を生きるために必要なことでもあるようです。
奥田 英朗
文藝春秋
発売日:2006-04

 人脈、というのは都会にも田舎にもあるのだろうけれど、その様相はきっとちがう。田舎で横行する人脈は、「接待」ではなく自分の持ってるものを提供してできあがることが多い気がする。野菜とか漬物とか見合い相手とか。都会の接待とくらべてその泥臭いこと。その泥臭さが好きだ、と一歩外周から眺めているうちに、その内側に踏み入ってしまう日は、私にも来るのかもしれない。
 「百年の孤独」を彷彿とさせる本でした。
 私たちの今にはありえないのだけれど、人の日々の悲喜こもごもを表す手段が現実にももっとあったらこんな感じになるのだろう、というところが。
 人の心の移ろいを言葉で残そうとすることに四苦八苦する日々に、ちょっと心をゆるめられる一冊でした。
 来年の魂の洗濯のためにタイ行きのチケットをとろうとしていたら、タイは洪水になっていました。
 こんなときにタイの旅の計画を立てるなんてほんとうは不謹慎なんだろう、ほんとうはタイのお友だちに安否確認のメールとかするべきなんだろう、と思いながらも、それはちがうという気持ちをどこかで拭いきれずに数週間をすごしました。

 そもそも私には、タイは洪水に強いという印象がありました。

 大学生の頃に何度となく耳にしたメコンデルタという言葉。
 交通渋滞に巻き込まれながらときには片道4時間バスに乗って大学に通っていたタイの友だち。
 雨降りを当然のように遅刻の言いわけにしていたタイ人の同僚たち。
 私が住んでいた頃にも、膝下くらいまで水に浸かることはありましたが、ありゃありゃと言っているうちに水はひいていきました。

 洪水そのものにも慣れているし、そういうときにも笑っていられる人たち。
 それが私のタイ人のイメージでした。

 でも、それは結局私の思い込みにすぎません。
 今回はほんとうに、さすがのタイも窮地に追い込まれるような規模の洪水なのでしょう。
 でも、そうはいってもやっぱり、タイは以前と比べて洪水に弱くなってしまったのは確かな気がします。
 洪水で失いたくない建物や設備が増えてしまっただけでなく、洪水になりやすい土地にしてしまった工場地帯の建設とか森林伐採とか首都を守ろうとする気持ちとか、そういうことに自分が無関係ではないという現実との折り合いをつけることに、私は大学生の自分の気力のほとんどをつぎ込んだようなのですが、こうして洪水という現実を目の当たりにしてみると、折り合いなんかちっともついていないということに気づかされて途方に暮れます。



 「第二の故郷」という言い方があります。
 私にとっては、タイは第二の故郷です。
 ちらっと旅しただけの国や、日本に恋いこがれながらすごしてしまった国とはちがって、その国を知りたいと思ったし、いいところだけでなくいけてないところも含めて好きだと思ったし、そこに暮らすことで成長させてもらったと思うのです。
 そういう酸いも甘いもかみわけてこそ分かることがある気がします。
 たとえば、この人たちは、きっとこれをのりこえるだろうということ。

 タイで暮らすmmちゃんと話してみれば、タイ人(あえて「タイ人」と十把一絡げにさせていただきますが)は、最初は堤防とか作って楽しんでいたりして、今でも来年までには絶対立ち直ってみせる、と言っているようです。

 タイに住んでいた頃、「熱い語り」ができないのが残念だと思ったものでしたが、
私にとっての「熱い語り」のできないそんなタイ人は、そういうすてきな方々なのです。
洪水でいのちをなくしてしまった方々のことはほんとうにかわいそうに思う、というのは大震災と同じなのですが。

 違いを受け入れるということ。
 それを教えてくれたタイに、もう一度それを学んでこようと思います。
 そして、一緒に行く小さい人に「違い」というものを見せられること、それが私の来年のハイライトだったりもします。