嬉しそうに微笑み続ける母を悲しませたくないし、心配をかける親不孝者にもなりたくなくて、郁未への感情を胸の奥深くへと押し込めた。

「お父さんを信じなさい。あなたの幸せを一番望んでいるのはお父さんなのよ」
「分かってる……」

 『でも』と、言いかけた留美だが、やはり本当の気持ちを口に出しては言えず口を噤み俯く。すると、母親がスタッフに呼ばれ部屋から出て行く。
 ドアが閉まり控え室に自分以外誰もいないことに気付いた留美は、思わず立ち上がり母の後を追うようにドアの所まで行く。

(普通は新郎新婦の控え室って、挙式に参列する親戚が集まる部屋よね? 挙式の時間までここで待つんじゃないの?)

 一人取り残され、人の気配すら感じないこの状況に、急に心細くなった留美は聞き耳を立てながら静かにゆっくり扉を開いた。
 親戚の姿を期待したものの、廊下にも人影はなく、結婚式場とは思えないほどの静けさだ。

(みんなどこなの?)

 廊下に出た留美がドアを閉めてあたりの様子を窺うと、部屋の前には新婦控え室の案内板はなく、ドアに家名が入ったプレートも掲げられていないことに気付く。

(間違って案内されたの?)

 これまで何度か結婚式に招待されたし、披露宴会場へも行った経験がある。今まで見てきた式場とは何かが違う気がする。

「自分の結婚式だからそう感じるのかしら?」

 いつまで待たされるのか、誰もいないこの状況に不安が押し寄せてきた留美は、両親や親戚の姿を求め目の前に広がる廊下を突き進もうとした。すると、どこからともなくスタッフが二人やって来る。

「お待たせしました。私たちがご案内します」

 簡単に留美の着付け具合を確認したスタッフが留美に手を差し出した。

「あの、母たちは」
「みなさん挙式場に入られましたよ。休む間もなく挙式となりますが、大丈夫ですか?」
「……はい」

 新婦控え室に誰も来なかったのは、バスの出発に手間取り会場入りが遅れたことで挙式までの時間が迫っているからだった。親族一同、すでに挙式場入りを済ませていた。

 

 

 まだ心の準備が出来ないまま、会場入りと同時に挙式が始まる。
 緊張が走ると、この結婚から逃げ出したい気持ちが強まるが、スタッフを困らせる結果は望まない。留美は人生諦めが肝心だと自分に言い聞かせる。

「みなさんお待ちです。さあ、お入り下さい」

 スタッフに手を引かれ挙式場へとやって来たが、やはりここにも新郎新婦の家名入りの案内板はない。
 スタッフが扉を開けると、豪華な装飾品も派手な色調もなく、実にシンプルな会場の一番奥に、神々しい神殿が設えてあるのが留美の目に飛び込んでくる。その両脇には、新郎の立ち位置側に新郎の親族が、そして新婦側に新婦の親戚が並ぶ。
 新婦側の親戚の顔触れは間違いなく自分の親戚たちだ。見慣れた親戚の叔父や叔母、両親の顔が見える。両親の顔を見た留美は少しホッとする。
 だが、いよいよ挙式を上げると思うと心拍数が上がり緊張が高まる。そして、既に新郎は神殿の前に立ち新婦の入場を待っている。その新郎の和服姿が目に入る。

(専務と同じくらいの背格好かしら? でも専務よりちょっと年上? 専務はざんばら頭だから……)

 多少なりとも郁未に似た箇所があれば愛せるかもしれないと、つい新郎と郁未の姿を比べていた。

(……ああ、やっぱりこの人も背が高くて逞しい身体だわ)

 神前へと進んでいく留美は、近づく新郎の姿が郁未と重なってしまう。郁未恋しさに新郎が郁未に見えてしまう。

(私、無理だわ。……ああ、でも、どうしたら……)

 新郎の隣までやって来た留美は、どうしてもこの挙式を拒みたくて、郁未意外の男性は受け入れられないと叫ぼうと構えた。
 瞳を潤ませた留美が意を決して顔を上げ、新郎側へと視線を移すと、そこには何故か留美が勤務する、会社の社長の顔がある。

「社長?!」

 留美に気付いた俊夫がにっこり微笑んで軽く頷く。

「これ、どういうこと……?」
「……?!」

 留美の声に驚いた新郎もまた、目を丸くして新婦の顔を覗き込む。

 

 

 

「ご飯は食べたくないわ」

 現実が見えた留美は茶の間へ行っても食欲がわかず、そう呟く。食べ物が喉を通りそうになく、無理に食せば吐きそうだ。
 けれど、家に集まって来た親戚の人たちみんなの幸せそうな表情に、留美は結婚式を拒む勇気はない。もう、後戻りができないと悟ると座敷の方へと向かう。

「花嫁は胸がいっぱいだとさ」
「あとで旦那に可愛がって貰えよ」

 背後から従兄弟らの卑猥なセリフが飛んでくるが、今の留美の耳には届いていない。
 郁未との完全な決別に胸を苦しめているだけに周囲の言葉など何も耳に入って来ない。
 
「さあ、綺麗な花嫁に変身しましょう」

 留美が座敷に入ると誰かがそう呼びかけた。すると、座敷にいた父親や着付けに関係ない親戚の者たちが次々と部屋から出て行く。
 花嫁衣装のすぐ横に畳一帖程度の濃紺の敷物が敷かれ、そこに木製の椅子が用意されていた。
 促された留美がその椅子に座ると、いよいよ花嫁へと姿形が変えられて行く。髪を梳かれ結われて行くと、化粧を施され肌着を着せられて行く。
 それから何人もの美容師の手によって、留美は日本一の花嫁へと仕上げられて行く。

 一方、挙式を控えた結婚式場では粛々と挙式と披露宴の準備が行われていた。

「今日は盛大な披露宴があるのよ。絶対にミスは許されないわ。それに、例の特設会場も手抜かりはないわね」
「チーフ、昨日も何度もチェックしましたが、演出は完璧ですよ」

 留美の家はごく普通の家庭だが、相手の家はとても裕福な家柄だ。
 結婚式場は、新郎側の家柄を知るや否や、ほんの些細なミスが式場の命取りになると、それだけ影響力の大きな得意先であると、今回の挙式には細心の注意を払う。
 そんな中、佐伯家の送迎バスが結婚式場のエントランス前へやって来た。
 挙式に参列する花嫁一行は、父親をはじめとする男性陣は殆どが洋装だが、母親を筆頭に女性陣はすべて和服姿で、それは見事なまでの圧巻の光景だ。その中でもひときわ目を引くのが留美の花嫁姿だ。
 綿帽子に純白の花嫁衣装でしおらしくバスから降りてくる姿に、出迎えた結婚式会場のスタッフらは大きな溜め息を吐く。 

 

 


「これまでで最高に素敵な衣装だわ」
「こんな素晴らしい花嫁衣装は初めて見るわ」
「よほど新郎に愛されているのね。羨ましいわ」

 女性スタッフの恍惚とした眼差しに囲まれながら、留美は母親に手を引かれエントランスへと入って行く。
 女性スタッフの話し声が聞こえてきた留美だが、新郎とは今日が殆ど初顔合わせと同じで、感情のない結婚と判ればどんな顔をされるのか、想像しただけでも虚しくなる。
 ただでさえカツラが重いのに、スタッフの言葉にますます留美は俯いてしまい、もたつく足が縺れそうになる。

「大丈夫?」
「大丈夫よ。少し歩き難いだけ……」

 留美は母にそう答えるのがやっとだ。
 今日これからいよいよ新郎と顔を合わせる。自宅にいる時はまだ気持ちに多少は余裕があった。けれど、本当にこれから郁未以外の男性と挙式を上げ、夜にはベッドを共にしなければならないと思うと、平静さを保つのが辛い。
 郁未以外の男性に、しかも、見知らぬ男の人に、今夜バージンを捧げなければならないのだ。

(……わたし……できるの?)

 結婚とは夫と食事を楽しみ、会話を交わすだけではない。寝食を共にするのだ。同じ布団に寝て子供を作り家庭を築いていくものだ。

(やだ……私、そんなこと)

 新婦の控え室までやって来てやっと留美は自分の置かれている立場に気付く。

「あの、今日、……その、……新郎って」

 結婚式場に到着するなり困惑し続ける留美の両手を、母親がしっかり握り締めた。そして、優しく微笑みながら言う。

「大丈夫よ。きっとあなたも旦那様になる人を愛するわ。幸せにして貰いなさい」
「でも、私……本当は好きな人が」
「お母さんを信じなさい」

 留美は母に手を引かれ、控え室の奥に用意された、花嫁用の肘付き木製椅子の所へ行きそこへ腰を下ろした。
 留美の告白混じりなセリフを遮った母親は、椅子に座った留美の顔を見ると瞳を潤ませて何度も頷く。

「留美、本当に素敵よ。日本一の花嫁よ」

 母の笑顔と言葉に留美は何も言えなくなる。

 

 

 最近では盆正月やお彼岸のお墓参りにも殆ど顔を出さない従兄弟らなのに、今日は皆が勢揃いしている。

「こらっ、主役になんてことを言うの! あんたたちもさっさと食べてしまいなさい」

 憎まれ口を叩く従兄弟らは、まだティーンエイジャーで落ち着きがない。しっかり叔母らに睨まれ茶の間へと引っ込んだ。
 相変わらずの光景だと苦笑していると、留美は母親に座敷へと連れて行かれた。するとそこには晴れ晴れしい日に相応しい、日本一の花嫁の為の衣装が飾られていた。

「きれい……」

 目が覚めるような朱色の生地に金糸で豪華な鳳凰が刺繍されている。今にも飛び立ちそうな勢いのある素晴らしい鳳凰に留美の口から思わず溜め息が出る。

「世界に一つしかない、今日の花嫁の為に作られた色打ち掛けよ。そして、こっちが、挙式の時に着る白無垢よ」
「真っ白だわ……」

 郁未との挙式で夢にまで見たホワイトウェディングと同じ、純白の花嫁衣装。
 ただ違うのは、純白であってもドレスではなく白無垢だ。この座敷に似合いの純和風花嫁衣装。
 聖職者の娘に似合いの古風で純真無垢な着物姿。
 シルクの光沢の素晴らしさに留美の心は和装に引き込まれていく。恍惚として着物を見つめていると、横から母親が瞳を潤ませながらしみじみと呟く。

「これを着て幸せになりなさい」
「お母さん……」

 いよいよ挙式が近付いてきたのかと留美の胸が熱くなると、丁度その時、玄関の扉が開き誰かが家の中へと上がって来る。それも一人ではなく、二人、三人と複数のざわめきだ。

「なんなの?」
「あら大変。ほら、早く顔を洗ってらっしゃい。美容師さんたちには待つ間、お茶を飲んでて貰うから」

 慌てた母に座敷から追い出された留美は、廊下へ出たところですれ違った美容師らに顔を合わせるなり「おめでとうございます」とお祝いを述べられた。
 美容師の声に気付いた親戚の者たちが次々に茶の間から現われて、美容師を座敷へ案内したりお茶の準備に行ったりと、まさしく結婚式の朝の風景が拡がる。
 

 

 違和感を抱くその光景に足が止まる留美は母親に背中を押され、洗面所へと連れて行かれる。

「もしかして、今日って……」

 まだ自分の挙式日だと信じたくない留美は、最後の悪あがきのつもりで訊く。

「あなたの結婚式の日でしょ。何度も話したわよね。昨夜だって、何を言っても上の空だし生返事しかしなかったでしょ?」
「……そうだっけ。顔を洗ったらご飯を食べるから」
「ご飯は軽くよ。食べ過ぎは駄目よ」

 一人だけ洗面所に入って行った留美はドアを閉めると、外界の音をシャットアウトし、しばらく洗面台の前で俯いたまま身動きひとつしなかった。
 郁未に想いが通じないどころか弄ばれた事実に、投げやりな気持ちで受けてしまったこの結婚式、いざ、当日になると当惑してしまい、今更逃げも隠れもできないと胸が苦しむ。

「おーい、何やってる? みんな首を長くして待ってるぞ。早く花嫁衣装着て安心させろ」

 さっき留美に皮肉を言った従兄弟の一人が、洗面所から出て来ない留美の様子伺いに洗面所のドアの外から声をかけてきた。

「すぐ行くわよ。せっかくの晴れ姿よ、綺麗な姿に変身中なの」
「素は変わらないんだから、無駄な足掻きだ。でも、まあ、お前は、それなりに見られるから大丈夫だ」

 今日の主役の花嫁にお世辞でも「それなりに」とは酷いと、ドアを開けて飛び出した留美は従兄弟の顔をめがけ指さす。

「親戚中、いえ、日本中どこを探しても今日の最高に美しい花嫁はこの私よ!」

 留美のセリフに圧倒された従兄弟は爆笑すると、両手を上げて降参のポーズをとると留美に背を向けた。

「おっかねえ面。やっぱ、お前、旦那に逃げられんなよ」
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよね!」

 まだ一度も顔合わせをしていない夫となる人。彼は、どんなに美しく着飾っても自分の好みでなければ花嫁から逃げ出すのだろうか。それとも、郁未のように、好意を持たなくても女性を抱きしめキスし、初夜には同じベッドで眠るのだろうか。そして、心にもない愛を囁きながら、新妻の身体を貪るのだろうか。

 

 

「郁未、きっとあなたは妻を愛するようになるわ。それに幸せな家庭を築くと私は信じているわよ」
「母さん……」

 留美との関係を聞かされていない母親は、郁未の気も知らず満面な笑顔で言う。そんな母に心配かけたくない息子としては、郁未は何も言えずただ頷いていた。


 それから慌ただしい日々が過ぎて行く。
 郁未は仕事に没頭するあまり、父親が決めた挙式日さえも忘れかけていた。
 それは留美も同じで、見合い写真を見ることもなく、挙式日をまるで何かの行事のように他人事に感じながら、浮かない日々を送り続けていた。
 更に幾日も経過したある日のこと。
 早朝に降った小雨で湿った庭が乾き始めていた。薄暗かった空も明るくなり、湿気ったブロック塀に小鳥たちが集まり数羽が戯れる。
 小鳥の囀りに目を覚ました留美は、ベッド横の小窓を開けてひんやりした心地よい空気を全身に浴びる。

「清々しい朝ね。そう言えば、今朝早くから下が騒々しいわね」

 この日も遅くに目覚めた留美は、昨夜遅くまでパソコンと格闘したプログラムを思い返していた。やはり自分の結婚式が近付くとそれをストレスに感じ始めた留美は、暇さえあればパソコンの前に座りプログラム作業に没頭していた。
 既に退職した留美が元職場に喜ばれそうなプログラムを作成しても、部外者なのだから無駄にしかならないのに、それでも暇を持て余すと良からぬことを考えてしまう為、気を紛らすにはプログラムが一番だった。
 昨夜も深夜まで、周囲の雑音が耳に入ってこないほどプログラムに集中していた。
 外気の冷たさに頭の芯から冷えた留美は、複雑なプログラムは頭から飛んで行き、新鮮で美味しい空気に珍しくも今朝の気分は爽快だった。

「あら、誰かしら?」

 玄関前に数台の車が停まっているのが見えた留美は、一階からやけに人の話し声が聞こえてくるのに気付く。
 ベッド脇の壁掛けカレンダーに目をやると、今日は祝日でも教員として勤務する父親の学校行事でもなさそうだ。
 

 

 

 ごく普通のありふれた日曜日のこの日、家に人が集まる予定があったろうかと首を傾げていると、階段をトントントンと軽快な足音を立てて誰かが上がってくる。

(何事?!)

 誰かが自分の部屋へやって来ると思えた留美は慌てて髪の毛を両手で撫でて身だしなみを整える。すると、勢い良くドアを開けて現れたのは留美の母親だった。

「何してるの?! 遅れるじゃないの。急いで降りて準備なさい」
「え? 遅れるって……」

 朝っぱらから身だしなみをバッチリ整えている母親は、留美とは違い化粧も済ませ、外出着の姿で、その上から真っ白な割烹着を着ている。
 今から出かける用事でもあったかと頭を捻っていると、母親に腕を掴まれ引き摺られるようにベッドから下ろされた。

「お、お母さん?」

 強引に部屋から出され階段を降りて行くと、階下からいつもと違う空気が伝わって来る。ただならぬ雰囲気に留美の足が止まる。

「遠くの親戚の人も皆揃っているのよ。もうすぐ美容師さんも来るのだから早くご飯を食べてしまいなさい。あ、でも、着付けて貰うのだから少な目にね。帯が窮屈で具合が悪くなったら大変だから」

 ペラペラと喋る母の言葉に留美は呆然として言葉を失った。

(な、何を言っているの? これは夢の続き?)

 だが、昨夜は夢など見ていない。プログラムに熱中するあまり脳内は疲労が蓄積し熟睡していたのだ。
 一階に降りてきた留美は目の前に広がる光景が日常とは違っていても、これは夢でも幻でもないと判る。

「あら、留美ちゃんまだ寝てたの? 駄目じゃない、早く顔を洗ってらっしゃい」
「そうよ、おめでたい日なんだから、遅刻は駄目よ」

 盆と正月が一度にやって来たような顔ぶれだ。叔母たちが茶の間から次々に顔を出しては留美に声をかける。
 すると、叔母らの後方からはにやけ顔の従兄弟らが皮肉を言う。

「そんな不細工な面してたら花婿に逃げられるぜ」
「頭だけの女と思われるなよ」
「バッチリ厚化粧して旦那を一生騙し通せよ」

 

 

 

 親同士が親友で子供同士を結婚させたいと願うならば、今も親交は深いはずで、もしかしたら意外に顔を覚えているのかも知れない。そう思うと、子供の頃の記憶を思い出そうと頑張って頭を捻ってみた。

「……記憶が……ない」
「当たり前よ。まだ、あなたは小さかったし。小学校上級生になると友達と遊ぶのを優先したし、中学に入ったら勉強が忙しいからって自分の部屋に閉じこもることが多くなったでしょ?」
「だって、小学生の年齢って友達と遊びたいし、中学生と言えば勉強中心の生活になるわ……」
「さあさあ、話はこれくらいで。早くご飯を食べてしまいなさい。衣装合わせに行くのだから」

 花嫁以上に浮かれているのは母親だ。
 そんな母親を悲しませたくない留美は、郁未に弄ばれたことや、愛してくれない男性を想い続けながら他の男性のもとへ嫁ぐ決心をしたとは、死んでも言えない。
 だから、親の前では必死に笑顔を取り繕い、幸せな花嫁姿を見せ続けると決めた。

 留美が郁未以外の男性との結婚を決意した頃、とあるウェディングプランナーが取り仕切るブライダルハウスでは、世界で唯一の極上もののウェディングドレスがお披露目されていた。
 そこに居合わせた者すべての心を魅了する、素晴らしく愛らしいプリンセスラインのウェディングドレスだ。

「こんなにうっとりさせられるドレスなんて、生まれて初めてだわ。ねぇ、郁未、あなたの花嫁になる女性は世界で一番の幸せ者よね」

 結婚式を夢見る少女のように瞳を輝かせる母親に郁未は何の反論もできず、ただただひたすら無言のまま最高級のシルクで仕上げられたドレスを眺めていた。

(留美に似合いそうなドレスだ。高慢で生意気で憎らしいほどの減らず口のあの唇を、二十四時間俺の口で塞いでいてやりたいよ。ああ、留美がこれを着て、満面の笑みを俺に向けてくれればそれだけで俺は天国へ行ける……)

 

 

 大きく開いた胸元から魅惑のウエストラインまで、キラキラ煌めく宝石と錯覚しそうな銀糸で縫われた、それは美しい刺繍に覆われている。それがもし鮮やかな宝飾だったとしても留美の微笑みの前では色褪せる。
 郁未の頭の中は留美一色に染まってしまっていて、父親が選んだ花嫁になど眼中にない。

「あとは花嫁が試着して問題なければ挙式当日を迎えるだけだな。いやいや、ここまであっという間だった」

 純白のウェディングドレスの前で大笑いする俊夫は、自慢げに腕を組みながらドレスを眺めている。
 しかし、肝心の花婿である郁未の心を無視した挙式で、ここまで段取りが進んでいても郁未は納得しかねていた。

「やはり、この結婚は間違っている」

 ウェディングプランナーは郁未の沈んだ表情を察し、他のスタッフをすぐに部屋から出すと自らも深くお辞儀をして、俊夫夫婦と郁未の三人を残し部屋から出て行く。
 ウェディングプランナーの対応の鮮やかさに感心した郁未の母親は「素晴らしいドレスね」と、退室したプランナーの代わりにドレスを褒め、息詰まりそうな雰囲気を流そうとした。
 しばらく沈黙が続いた後、俊夫からの厳しい言葉が飛ぶ。

「一度はチャンスを与えた。そして、そのチャンスをモノにできなかったのはお前だ。私だとて可愛い息子には幸せになって欲しい。だからお前に似合いの、お前を幸せにしてくれる女性を選んだつもりだ」
「あら、結婚とは女性を幸せにするものよ」

 クスクスと笑う郁未の母親は幸せそうに「そうでしょ?」と俊夫に寄り添う。

「息子の前でよさないか」

 頬をほんのり赤く染める俊夫。妻の前では子の親と言うより良き夫の顔へと変わる。それは、俊夫が、妻として女としての母を愛していると、郁未に嫌というほど伝わる。
 自分も両親のような夫婦になりたいと願ってはいるが、その相手は留美なのだと今更ながら郁未は思い知る。