「聡の為にそんな格好したのか? そんなにアイツの気を惹きたいのか? 俺の前ではそんな格好見せた事ないだろう」

 終いには聡への嫉妬で、郁未は醜い自分を曝け出していた。
 会社では到底向けられる事のない郁未の表情が嬉しくなって、留美は質問に答えるどころか、つい笑ってしまった。

「笑い事じゃないだろ! 俺は怒ってるんだぞ!」
「心配してくれてありがとう」

 素直に留美はそう思えた。郁未に気にかけて貰えたのが嬉しくて微笑みかけると、またもや郁未に怒鳴られる。

「誰がお前なんかを心配するものか!」

 『お前』発言に戸惑うも、留美はそれでも気にかけてくれた郁未に顔が緩む。

「ジャージのまま外出出来ないから、途中でお店に寄って貰ってコレを自分で買ったの。専務の好みに合えばと……その……」
「え……?」
「お世話になるのだから、専務の嫌いな格好をして気分を害して欲しくなくて」

 さっきマンションのリビングルームでもこの格好していたのに、今頃気付くようでは郁未にはお気に召して貰えなかったのかと、留美は少ししどろもどろになる。
 けれど、はにかむ留美がいじらしく感じる郁未は、怒りが収まると口元が緩む。

「可愛いワンピースだよ」

 パステルカラーの花柄模様のワンピース姿。清楚な印象のあるフェミニンな姿に、歯が浮くようなセリフと思いながらも照れながら郁未がそう言うと、留美もまた照れては頬を赤く染める。 

 

 留美の部屋の前までやって来た郁未は玄関ベルを押すが、留美がドアを開くまで待てなく、ドアノブを掴んで回した。
 鍵はかかっておらず、ガチャッと玄関ドアが開いた。

「なんて事だ。不用心にも程がある」

 万が一、見知らぬ男に部屋へ押し入られたらと、そんな事が頭を過ると、留美のあられもない姿を脳裏に浮かべる。そこへ留美が茶の間から現れると、郁未は靴を脱ぎ捨て廊下を走り留美を抱きしめた。

「……あの?」

 留美の無事な姿を見て安心した郁未は思わず怒鳴ってしまった。

「このバカ! なんで玄関に鍵をかけていない! もし変質者や強盗が入り込んだら危ないだろう!」
「……こんな貧乏な住まいなんて誰も興味ないですから」

 怒鳴られても、それは心配しての事だと判る留美は、いつもの反発する態度は取らず嬉しそうに微笑む。しかし、納得がいかない郁未は、留美を抱きしめる腕に力が入る。

「無事で良かった」

 留美の元気な姿に郁未は喜びで抱きしめる腕が震える。

「専務……」

 普通なら、女と戯れた匂いを漂わせる男など怒りをぶつけて終わりで良さそうなのに、留美にはそんな真似は出来なかった。
 服を着替えて来た郁未を追い返せない。

「そうだ、胃は、胃は大丈夫なのか?! 第一なんで聡なんかと食事に出た?! あれほど安静にしていろと言ったのに。それに、その格好はなんだ?」

 郁未が留美の両肩を掴んで身体を引き離すと問攻めにするが、元気良さそうな留美の姿を見たら、体調の心配から聡と出掛けた不満へと少しずつ変わっていく。 

 

「少し不調って言うから、なら、体力付けたが良いだろうからって、女性にも人気の駅前のレストランへ連れて行ったぞ。予約がなかなか取れない人気店だけあって、あそこのステーキは最高だった」

 信じられない言葉だった。胃痛で苦しんでいた留美をステーキ店へ誘うなんて言語道断。それに、本人もそれを承知で着いて行ったのかと郁未は自分の耳を疑う。

「元気なかったからさ、美味しいもの食べるのが一番だって、無理して全部食べさせた」

 医者から処方して貰った薬で何とか回復している留美を、無神経にも胃痛を悪化させてしまうような食事を無理矢理させたと聞いては、郁未は留美が心配で堪らない。

「留美には二度と近づくな!」

 そう叫ぶと郁未は通話を切り、電話を握りしめると階段を駆け上がって行った。
 一度自分の部屋へ戻った郁未は、香水が染み付いたスーツを脱ぎ捨て、シャツにジーンズ、ジャケットを羽織ったラフな格好に着替える。ジャケットの内ポケットに携帯電話を入れると、ジーンズのお尻のポケットへ小さめの財布を押し入れると、急いで部屋から出て行く。
 マンションから出た郁未が偶然拾った空車タクシーに乗り込むと、留美のアパートに向かわせる。
 早く留美の元へ駆け付けたい郁未だが、こんな時によくあるのが、運悪くも次々と赤信号に当たってしまう事だ。郁未としては『急いでくれ!』と、無茶にも運転手に何度も叫んでいた。
 そして、やっと留美のアパートに辿り着いた郁未がタクシーを降りると、ここでも階段を数段飛びで駆け上がって行く。 

 

 敷地から留美を乗せたタクシーが出ていくと、郁未はそれ以上は追えずその場に座り込んだ。両手で頭を抱きしめながら呻き声を上げてしまう。すると、そこへ、携帯電話の着信音が流れてくる。その音楽を聴くだけで郁未は腹立たしく感じると、上着の胸ポケットに入れていた電話を取りだし通話を拒否した。
 しかし、直後にすぐ着信音が鳴り出し、郁未は眉を細めながら通話ボタンを押す。腰を下ろしたままの郁未だが、タクシーの姿が見えなくなると大きな溜め息を吐く。

「おい、拒否るなよ。それに、いきなり溜め息なんて止めろよな」

 電話の相手は聡だ。
 郁未の態度の悪さに聡も悪態をつく。

「用があるなら言え、聡」
「留美ちゃんの事だ」

 聡の口からその言葉が出ると郁未は腸が煮えくり返りそうになる。
 そしてタクシーも見えなくなり、郁未は腰を上げるとトボトボとエレベーターホールへと向かう。

「一応、念の為に誤解のないように言っておくが。俺は、うっかり間違ってお前のマンションに電話したんだ。そしたら留美ちゃんが居ただろう。そりゃあ驚くさ」

 言い訳を聞く気分ではない郁未は、エレベーター前までやって来たものの、扉が開くのを待つ時間に苛つき再び非常階段から上へと上がって行く。誰もいない階段、コツコツと郁未の歩く足音だけが妙に悲しく聞こえてくる。

「元気のない声だったからさ、昼飯食いに誘ったんだ」
「それで留美に何を食べさせたんだ?」

 体調を崩していた留美が何処へ着いて行ったのか気になっていると、聡がとんでもない事を言い始めた。 

 

 

「留美?」

 さっきまで蕩ける顔をしていた留美なのに、いきなり突き放され郁未は驚きで目を見開いていた。

「とても素敵な香りの香水だわ」
「いや、その……これは」

 ここへ帰ってくる前、ホテルで女を誘惑した。熱い口付けを交わしたが相手の女が留美ではないことに、その後、やけになって酒を飲んだ。だからと、そんな事実を留美には言えない。郁未は言葉に詰まると顔から血の気が引いていく。

「恋人とゆっくり過ごして来れば良かったのに。お邪魔して申し訳ありませんでした」

 留美の冷ややかな笑みが郁未の心臓を貫く。
 何も言い返す言葉が見つからない郁未は、引き留める術をもなく留美を自分の部屋から帰らせてしまった。

「俺は何を間違えた……?」

 玄関に一人ポツンと取り残された郁未は呆然と立ち竦んだまま動けない。
 女を捨てることは日常茶飯事でも、自分が捨てられ女が去って行くのは初めての経験だ。郁未は心中穏やかでない。

「留美……」

 何故かここでまた俊夫の顔が浮かぶ。
 けれど、留美は俊夫の賭けの対象として愛して良い女ではない。他の女とは何かが違うと心の中で叫ぶと、靴を履き玄関ドアを押し開き、エレベーターホールへと駆けて行く。他の階へ向かっているエレベーターが戻るのに時間がかかる。郁未は、隣に併設されている非常階段へと行くと、数段飛びで階段をエントランスのある一階まで駆け下りて行った。
 しかし、郁未がエントランスへ着いた時、留美を乗せたタクシーが走り去っていく。