オシャレの教本「私のスタイルを探して」(光野桃 著)にこんな言葉がある。
「スタイルを作るためには、自分自身をまるごと正確に、イマジネーションを
駆使して知っていくことが必要だ。そこには、誰にも当てはまる法則やマニュアルはない。」
「スタイルをみつける方法は、まず客観的に自分を知ること。そして次に、
そうした自分を受け入れ、肯定すること、好きになることである。」
ファッション雑誌の編集を仕事にしていた著者は、夫の転勤でイタリアへ。
イタリア人の生活、おしゃれに接し、「スタイル」とは何か?
自分のスタイルとは何なのか?を探し、発見していく。
おしゃれの世界にどっぷりと漬かり、最先端の世界でバリバリ働いてた著者が、
異国の地で、仕事もなく、友達もなく、言葉もわからない中、
「私はこうゆう人間よ!」という魂の叫びにも似た、自分を表現することへの渇望が始まりだった。
自分のアイデンティティーの発露としての「おしゃれ」「着ること」「スタイル」とは何なのか?
それまでのファッションを発信する世界にいた時の法則やセオリーとは別の視点が生まれる。
それは、「流行」よりも「個人」に焦点を当てた世界。
自分という世界に一人だけのユニークな存在を、いかに表現するか?
それは、自分をどうプレゼンテーションするかとう対社会的な行為以上に、
その行為そのもが、自分自身への愛の表現なのではなかろうか。
この本には、ファッション雑誌からは得られないおしゃれの視点が語られている。
読みながら、「そうそう!そうよっ!」とうなづかずにはいられなかった。
おしゃれとは、とても内面的な行為であり、それをどう自分の身体や顔の個性と
バランスをとりながら、表現するかという知的な遊びなのだ。
何を隠そう、私も自分のスタイルを模索している一人。
だが、それは自分探しと似ていて、実は探すものではないのだろう。
だって、もうすでに今ここにあるのだから。
どちらかというと、石の塊から、像を削りだす作業に近いかもしれない。
静かに自分自身を見つめ、どこを削って、どこを残すのか見定める。
もちろん頭の中には完成図があり、そこに向かって彫るのである。
完成図があいまいだと、どこを削って、どこを残せばいいのかもあいまいになって、
最終的にはあいまいな像にしかならない。
おしゃれは、極めれば「おしゃれ道」。
それは精神修行と似ているのかも。