あの日のこと 9/6(木) その① | mayoの徒然日記

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はじめまして。
mayoです。

2012年9月7日に愛するパパが7年間の闘病の末に天国へ旅立ちました。
さとう式リンパケアに出会い、誰でも楽な身体を手に入れられることを1人でも多くの方にお届けしたいと思い日々精進してます^ - ^


その日、朝6時頃に気配を感じて
目が覚めたら、パパがベッドから足を出して
辛そうに座っていました。

起きてたのに、気づかなくてごめんね。
オプソ飲もうか。
オプソを一包飲みました。

娘っこが学校へ行く時にも
パパは顔をあげられませんでした。
ホッペにチュウだけして、静かに
いってきますを言って、学校へ行きました。


パパは、おしっこは出てないけど
ストマのパウチは溜まっていました。
交換は負担になりそうなので、
排出だけしました。


ウィダーインゼリーも受け付けないし
お茶もいらない、と言うので
座薬を入れた後にビオフリーを点滴しました。


痛いのは、ずっとあって、
眉間にシワが深く刻まれるのを見て
かなり我慢も限界に近いかな、
とぼんやり思う私がいました。

でも、諦めたくない。
病院に行きたくない。
というパパの気持ちは誰よりも
わかっていたので、言わずに過ごしていました。

お昼少し前に私は軽く昼食を取り、
パパのベッドの隣に座っていました。
手を繋いでいたかな。

パパの呼吸が少し調子がおかしくなり、
「息が苦しい?」と聞くと頷きました。

「救急車呼ぶ?」
頭を左右に振りました。

看護ステーションに電話をして、
午後に来ていただく予定でしたが、
呼吸が苦しそうなので、早くきてもらいたい、
と伝えたら、15分くらいで来てくれました。


パパの痛がり方を見て、
落ち着いていくつか問診をして、
聴診器をあて、血圧をはかり、

「入院は、いやなんだよね。
じゃあ、強い痛み止め(モルヒネ)を
処方してもらって、今から受け取りに行くから
待てる!?」

「もう、いい。
このまま死にたい。」

パパの口から久しぶりの弱気な発言に
私は涙がいっきに出てきました。

「こんなに頑張ってきたんだから
そんなこと言っちゃだめよ。」
看護師さんの言葉に、パパは、私を見て

「ごめんね…」と言いました。

私が謝らせているようで、
余計に泣けて泣けて仕方ありませんでした。

看護師さんが出て行って、
パパを抱きしめて、大丈夫、大丈夫だよ、
と言い続けました。

少し経って、また激痛がやってきて

「ママ、救急車、呼んで、、」

パパの苦しそうな声に反射的に
私は電話をとりました。


救急車が到着して、
パパを運んでいきました。
担架に寝ることはできないので、
座った状態で運ばれました。

私は、入院グッズと私の身の回りの物を
ざっと持ち、後を追いかけてると
義姉が到着しました。


パパの容体がよくないから、
来て欲しい、とメールしていたので、
義姉も泣きながらやってきてくれました。
娘っこのことをお願いして、
私は救急車で病院へと向かいました。


救急外来では、訪問看護師さんが
パパの状態を詳しく説明してくれ、
主治医の先生からすぐに入院手続きを、
と言われて受付に走りました。
手筈は整っていて、個室です、と告げられ
深刻な状況なのだ、と自覚しました。


救急外来の処置室に戻ると、
レントゲンの機械が運び込まれていました。
私は廊下でパパの上司の部長に
緊急入院になりました、とメールをしました。

義両親にも義姉から連絡行ってたので
入院になったことをメールしていたら
主治医の先生が近づいて来て
耳打ちしました。


「博多のご両親、
呼んだほうがいいね。」


と言われました。
血の気が引く感じだったと思います。
でも、いや、まだまだだ、とすぐに
打ち消して、義父に電話をしました。

義父はいつ呼ばれてもすぐ東京に来れるよう
準備してくれていたので、
夕方五時の飛行機には乗るように
向かってくれるとのことでした。


どうか、パパがお義父さんお義母さんと
話ができますように。

神様、時間をください。


そう祈るばかりでした。


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