NEW-SEUM(76)みってらさん④ | すくらんぶるアートヴィレッジ

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NEW-SEUM(76)みってらさん④
三津寺の南東約徒歩5分の千日前には、★松林庵(三津寺千日前墓地)があります。ここには、道頓堀を開削したとされる★安井道頓や、浄瑠璃「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)で有名な三勝・半七の供養塔など、船場の著名商人や上方芸人の墓碑が数多く祀られていて、年中香煙の絶える間がありません。
★道頓堀繁栄の功績にお墨付き三津寺墓地/産経新聞とん堀幻視行より
https://www.sankei.com/article/20180208-7ARL2QOW3JOS3DLU5NL5YYNUR4/
明治初期、あたり一帯にお墓が密集していた千日前墓地が阿倍野に移転したあとも、この墓地だけは、理由はわからないが残ったらしい。墓地に入ると、まっすぐ行ったところに、高さ2メートルほどの五輪塔がたっていた。いちばん下の「方」の部分の右側に「贈従五位 安井道頓居士」、左側に「贈従五位 安井道卜」と刻まれていた。道頓の碑文は「慶長十九寅歳五月八日戦死」とある。ちょっと、おかしい。道頓は大坂夏の陣で戦死したとされるが、夏の陣は「慶長十九」ではなく翌20(1615)年である。大坂城の落城は5月7日で、「五月八日戦死」とも符合する。どんな最期かは不明である。道頓堀川は、慶長20年が「元和(げんな)元年」と改元されたあと、道頓の遺志をついだ道卜の尽力で完成した。当初、「南堀川」と呼ばれたが、大坂城主になった徳川方の松平忠明が道頓の功績をたたえ、「道頓堀川」と命名した。大阪地裁での★「道頓堀裁判」では、このあたりまで争いはなかった。だが途中から、道頓堀川の所有権を主張する原告・安井家側にたいし、被告・大阪市は「安井道頓なる人物は存在せず、道頓堀川を造ったのは成安道頓だ」と主張しはじめた。以下は大阪市側の主張--。古くからの街並みがのこる大阪★平野郷には「七名家」と呼ばれる旧家があり、そのなかに「成安」姓の家があった。古文書には「一門ノ成安道頓、(豊臣)秀頼公ヘ親近ニツキ……」というくだりもあり、道頓は原告が主張するように久宝寺(大阪府八尾市)の安井家ではなく、成安家の出身である。安井家の古文書にも「成安道頓」という人物が出てくる。安井家側は道頓は関ケ原の戦いで西軍につき、徳川方ににらまれるのをはばかり、成安家の養子となった、と主張した。系譜などから、これはあまり説得力はなかったらしい。判決が出たのは、提訴から11年後の昭和51年10月だった。主文は「原告らの請求をいずれも棄却する」。道頓の出自については、「摂州平野庄の成安氏出身であるとする有力な反対説があり、(略)道頓の姓が安井氏であることには多分に疑問がある」とした。だが結論として、「道頓堀川は原告らの先祖である安井九兵衛道卜らの努力によって開削されたものであり、今日の道頓堀繁栄を築いた原告らの先祖の功績はまことに多大」とした。安井家側は「先祖の功績が認められて満足」と控訴はしなかった。三津寺墓地から千日前を抜け、道頓堀川にかかる相合橋にきた。道頓が開削に乗りだしたころは、一面に葦が群生する沼地であった。司馬遼太郎は短編★「けろりの道頓」のなかで、こう書いた。「葦の野は茫々と西へひろがり、視野の果ては靉気(あいき)に霞(かす)んでいた。眼を細めて遠望すると、ときどき、はるかな霞のむこうで、ちらちらと白いものが光った。おそらく木津川尻を上下する白舟なのだろう」「けろりの道頓」は昭和35年発表。司馬は道頓を久宝寺出身、姓はもちろん「安井」としている。