《PROJECT80》62 森薀⑦
★第1期工事は昭和45年(1970)12月~翌年3月まで行われた。上の池周辺を中心に行われ、滝口・渓流・護岸石組の復元や池の浚渫、植栽などが行われた。上の池の豪快な石組の復元などがなされた。昭和46年(1971)12月~翌年3月にかけて行われた第2期工事では、堀池(内堀)の浚渫や石組・石垣の復元、茅門や築地塀などの諸施設の復元、植栽などが行われた。堀池に加えそこに浮かぶ柳島の護岸石組も復元され、古絵図を元に堀池北岸の汀線を後退させ、部分的に旧藩時代にもあった乱杭を復元した。茅門・築地塀の復元★紅葉渓橋の架け替えが行われ、大正期の整備時に飛び石で繋がれたと思われる上の池と堀池の境には、飛び石を撤去して★土橋が復元された。なお、昭和12年(1937)5月作成の実測図で「亀頭石」と書かれていた石は、復元を要する石と判断され立石に改められた。昭和47年(1972)9月~翌年3月に行われた第3期工事では、滝口・渓流の復元、鳶魚閣・腰掛の復元、飛び石・砂利敷道の整備、植栽などが行われた。また庭園内の3つの滝口からかつて水が落ちていたことがわかったため、それらから水を落とすことになり、堀池浚渫時に発見した湧き水をポンプで吸い上げ、それぞれの滝口から落水するように整備した。★鳶魚閣は東京工業大学名誉教授★藤岡通夫に設計を依頼し、古絵図にある廊下はないものの、建物は復元された。また柿葺屋根の腰掛も整備された。聴松閣・水月軒があった場所は発掘調査が行われ、礎石や敷石、鎮壇具一式などが発見された。こうして3年にわたる復元整備工事が終わり、昭和48年(1973)6月に開園式が挙行された。ただし、いくつか検討を要する整備も行われた。1つ目は大正期の整備時に置かれた雪見灯籠が撤去されたことである。平成28年(2016)に古絵図に灯籠が描かれている位置に戻されるまで、★動物園に置かれていた。理由は不明だが、★森がこの雪見灯籠を本来庭園にあったものではないと判断したのかもしれない。実際大正期に新造された灯籠の可能性もあるため、今後も雪見灯籠について調査する必要がある。2つ目は、復元した築地塀の軒丸瓦に「三ツ鍬形紋」を使用した点である。これについては★三尾功が同紋の出土例がなく復元で使用するのは不適切であることを指摘している。三尾の指摘後の発掘調査でも出土例はないため、適切なものに取り換える等の対応が必要と思われる。平成5年(1993)、和歌山市は『史跡和歌山城保存管理計画』を策定し、ここで示された基本方針に基づき平成7年(1995)に『史跡和歌山城整備計画』を策定した。同計画において城郭建造物の整備の1つとして、二の丸と西の丸を結ぶ御橋廊下の復元整備が位置付けられた。具体的には平成13年度(2001)から御橋廊下復元及び二之丸西部・西之丸第一期整備事業が始まり、復元・整備を行うために設置された史跡和歌山城保存整備委員会をはじめ、文化庁や和歌山県教育委員会の指導を受けながら、御橋廊下に関する資料調査や復元・整備方針の検討が進められた。発掘調査や石垣修復の実施設計・工事、御橋廊下復元の実施設計・工事、周辺整備の実施設計・工事が平成13年度(2001)~18年度(2006)にかけて行われた。その後に計画された二の丸・西の丸整備の要と位置付けられた★御橋廊下は、平成18年(2006)3月に竣工した。
★和歌山城の「鳶魚閣」は、江戸時代初期に造られた池泉回遊式庭園に位置し、紀州藩初代藩主徳川頼宣の隠居所として使用されました。鳶魚閣は「鳶飛戻天、魚踊于淵」という詩経の一節に由来し、自然の動きを楽しむことを意味しています。庭園は傾斜地を活用し、二段の池や滝を設け、鳶魚閣を配することで連続性を持たせています。
★雪見灯籠
雪見灯籠は元々浮見灯籠と呼ばれ、灯籠の姿を水面に浮かばせて見るものとされていたようです。だから、水面に雪見灯籠が、丁度反射して見えるように配置されたのです。灯籠の火を入れる部分を火袋といいますが、火袋に火を灯して水面に揺らめく姿を見ると時間を忘れるほど落ち着くのが想像できます。そのためにも笠を大きくして、水面に反射しやすいように工夫されているのでしょう。池泉式庭園であれば水面がありますが、枯山水庭園の場合は水がないかわりに砂利が水を表します。ゆえに、枯山水庭園の場合は、水に見立てた砂利の近くに雪見灯籠が据えられます。雪見灯篭の名前の由来は所説ありますが、滋賀県大津市の琵琶湖屈指の景勝地「浮御堂)」が有力といわれています。
★『紀伊国名所図会』/大手御門辺の図
「鈴屋集、名草山より仰ぎみて、はろばろと わかの浦わの 磯山に つきのよろしき 若山の御城 本居宣長」と記されています。
