EXPO報告(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

アートを拾い集めるということは・・・戦後80年
★河野外務大臣が日本の外相として初めてパラオ共和国を訪問した。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007688.html
パラオ本島を訪れた外相は、約60キロ南西に浮かぶペリリュー島を慰霊している。★2016年には、戦後70年の節目に天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)もこの島を慰霊のために訪問されている。この島では太平洋戦争の中でもまれにみる激戦が繰り広げられた。
https://primer.ph/blog/genre/japanese-emperor-philippines/
パラオを訪問した河野外相は、パラオ政府に遺骨収集で協力を要請した。2016年に成立した戦没者遺骨収集促進法は、遺骨収集を「国家の責務」と定め、24年までを収集の集中実施期間としている。早坂さんによると、多くの遺骨が眠るとみられる地下陣地には、なお不発弾の処理が終わらずに立ち入りできない壕も多い。シベリアとは違い、高温多湿のぺリリューでは遺骨の風化が早い。埋葬地を知る人の記憶や記録も次第に失われつつある。米国はすでに当地でのすべての米兵の遺骨収集を終えている。日本も急がなければならない。74日の死闘で散った2000人以上の日本兵が、74年以上も祖国に帰る日を待っている。
★「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞
マグサイサイ賞は、飛行機事故で在任中に死去した第7代フィリピン大統領のラモン・マグサイサイ氏を記念して1957年に創設されました。アジアの平和や発展に尽くした個人や団体に贈られ、「アジアのノーベル賞」とも呼ばれています。マグサイサイ賞の理事会は、宮崎監督の受賞理由について「アニメで人間の状況を照らし出すことに生涯をかけた、才能ある模範的な芸術家」と称えました。
宮崎監督が受賞メッセージで訴えた民間人殺害は「マニラ大虐殺」とも呼ばれています。Dialogue for Peopleによると、日本軍は1941年12月8日の真珠湾への攻撃後、アメリカ統治下のフィリピンに上陸。1942年1月にはマニラを無血占領しました。その後、太平洋戦争末期にフィリピン奪回を目指すアメリカ軍がマニラに攻め込み、日本軍は抵抗しました。これが1945年2月3日から1カ月間行われた、マニラ市街戦です。この日米の★戦いに巻き込まれて、マニラ市民10万人が亡くなったと言われています。

★宮崎駿監督のメッセージ全文
「私が初めてラモン・マグサイサイ賞について聞いたのは子どもの頃でした。確か学校の校庭で、先生が私に、そのような賞が作られたと教えてくれました。その名前は印象に残り、それ以来ずっと私の心の中に残っています。この賞をいただいて、改めてフィリピンのことを思いました」
「2016年、天皇皇后両陛下は第二次世界大戦中に市街戦の舞台となったマニラを訪問し、命を落とした数千人に哀悼の意を表しました。当時、日本人は多くのひどいことをしました。彼らは多くの民間人を殺害しました。日本人はこのことを忘れてはならないのです。その事実はいつまでも残ります」
「このような歴史を踏まえ、私はフィリピンからラモン・マグサイサイ賞を厳粛に受け取ります。どうもありがとうございます」