・・・高校時代の恩師が、昨年11月に亡くなられました。
《吉村家住宅》
583-0881羽曳野市島泉5-3-5
http://yoshimuratei.org/index.html
吉村家住宅の春の公開/
2022年4月2日(土)10時~16時、3日(日)10時~15時
★特別展示「吉村家当主 故吉村堯氏を桜の木の下で偲ぶ」
昨年11月に満94歳で逝去された当主★堯氏を偲んで、生前の写真や遺作を展示します。桜満開のころと思われますので、お花見方々お出で頂けますようお願いします。
・・・先生を偲ぶまたとない機会、美術部OBOGにもお知らせして、小雨(春雨)降る中「吉村邸」を訪問しました。
吉村家はかつて、周辺十八ヶ村を管轄する大庄屋を務めた家柄である。 主屋は大坂夏の陣で焼失後、間もなく再建された歴史ある家屋である。その後幾度か増改築が行われ、現在の姿となったのは★寛政年間(1789~1801)の頃である。屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されている。これを高塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから★大和棟造りともいう。上層農家の家格を示すものである。吉村家住宅は戦前の1937年(昭和12年)8月25日に、主屋が国の重要文化財に指定された(当時は国宝と称されていた)。★民家としては日本で初めてのことであった。その後1965年(昭和40年)5月29日に表門と土蔵、附(つけたり)指定として土塀と中門が、1979年(昭和54年)2月3日に宅地、山林、溜池、附指定として古図2枚がそれぞれ追加指定された。
元和(げんな)の役の直後に建築された桃山期の書院造の建築様式を一部に留める代表的な大庄屋の民家で、昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されました。吉村家の祖先は鎌倉時代初期、当地付近に土着した佐々木高綱(ささきたかつな)の子孫と伝えられ、代々丹比野(たじひの)の有力名主で南北朝から戦国時代にかけては丹下一族と言われる土豪でありました。天正(てんしょう)年間(1573~1592) 以後は姓を「吉村」と改め江戸時代初期には庄屋兼代官、正徳(しょうとく)年間(1711~1716)以後は丹北・八上の両郡内の★38ヶ村の大庄屋をつとめてきた名家であり邸宅も独特の風格をもっています。
《嶋(島)泉村》
江戸期~明治22年の村名。河内国丹北郡のうち。はじめ幕府領、宝永元年武蔵川越藩秋元氏領、明和4年出羽山形藩秋元氏領、弘化2年からは上野館林藩秋元氏領。村高は、河内国輯録によれば321石余、「元禄郷帳」でも変わらず、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに366石余。なお天正11年8月朔日の船越左衛門尉景直宛の羽柴秀吉知行目録(記録御用所本古文書/大日料11-4)に「河州丹南郡内所々知行目録事 一、弐百拾八石壱斗 嶋泉」と見える。丹南郡とあるところから、あるいは南島泉村のこととも思われるが、未詳。大坂夏の陣ののち、庄屋★吉村家の住宅が当村中央部に再建された(現国重文)。また宝永元年からの領主秋元氏は、当村の庄屋吉村氏を大庄屋に任命し、丹南・丹北・八上の3郡内の秋元氏領38か村の取締りをさせた。江戸中期以降、東除川西岸の西向野・今在家の当村飛地付近の原野が開発されて田畑となり、綿作が盛んとなった。江戸期を通じ、長尾街道に沿う宿場的集落として栄え、茶店・休所が若干存在した。鎮守は北宮村の大津神社。寺院は浄土真宗本派西吟寺。明治8年の有租地反別31町余。同9年の人口285。同14年大阪府に所属。同22年高鷲村の大字となる。
・・・先生は現役のころ、たしか「新世紀美術協会」に属しておられ、私たちも出品したことがありました。本当に久しぶりに先生の作品を拝見して、感無量です。
《新世紀美術協会》
http://www.shinseiki-osaka.com/
新世紀美術協会は、昭和30年3月、われわれの仕事を近代の歴史の流れの中に位置づけるため、和田三造、川島理一郎、大久保作次郎、吉村芳松、柚木久太を中心に結成されました。昭和31年5月、公募第1回展を東京都美術館において開催。年々有望な新人の輩出をみて美術団体として確固たる足跡をしるしてきました昭和50年、東京都美術館移転を機に厳選主義に徹し、会員・準会員の作品も不調作は陳列遠慮の制度に改め、さらに52年 より会長制を廃止して委員合議による運営に改め、創立時の高い理念と自由の結束を維持して 通算52回展を開催し、今日に至っています。現在、東京都美術館における新世紀展本展に続いて、神戸・大阪・名古屋・岡山・福岡においては毎年、長野・水戸においては不定期に巡回展を開催しています。