《玉造稲荷神社》
540-0004大阪市中央区玉造2丁目3番8号/06-6941-3821
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。しかし、文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者により再建。国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けましたが、戦後は新憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となりました。社殿は昭和29年10月15日にご遷座。昭和51年5月には、皇室より三笠宮寬仁親王殿下をお迎えし創祀二千年祭奉祝事業達成祈願祭を盛大に営み、平成元年6月創祀二千年祭を挙行し、玉造稲荷神社分社を大阪市中央区上町1丁目に分祠致しました。平成27年8月20日に三韓館とゆかりある松ノ木大神、二吉大神、若松大神(大阪市中央区玉造2-19に鎮座)を合祀し、現在に至っております。
https://www.inari.or.jp/shamusho/sekihi/
★利休井/豊臣時代の千利休は玉造・禰宜町(当神社南側)に屋敷を構えた。この一帯は清水谷などの地名が残るように玉造清水と呼ばれる良質の水が得られ、利休が茶の湯に愛用したと『摂津名所図会大成』に記されている。また、当神社でも利休が生駒山系を眺め茶会を催したとの伝承が残り、利休ゆかりの地・玉造として昭和52年に「千利休居士顕彰碑」も建立された。平成18年には、同じ水脈であるこの利休ゆかりの井戸を大阪城甲冑隊(代表:河井計実)や大阪府立東住吉総合高等学校の福井一夫教諭や学生の協力のもと当時を偲ぶ井戸が再掘され、現代に甦った。
★胞衣塚大明神/境内北側には、境内末社の1つ、胞衣(えな)を祀る、珍しい社です。胞衣とは女性の胎盤や卵膜のことですが、ここに祀られるは、豊臣秀頼の母・淀殿の胞衣。つまり、秀頼公と淀殿をつないでいた胞衣です。
★豊臣秀頼奉納鳥居
頭部分だけの古い石鳥居が残ります。これは、慶長8年(1603年)の社殿再建の際に、豊臣秀頼によって奉納されたものです。この鳥居は、元々は、玉造稲荷神社の正面に立っていました。しかし、1995年の阪神・淡路大震災で基礎に損傷を受けました。現在は、頭部と脚部とに分けて、別々に保存されています。
★玉造黒門越(白)瓜/大坂城の玉造門(現・大阪市中央区玉造1丁目)が黒塗りの門であった事から、この門を別名黒門と呼び、江戸時代この黒門付近で作られ名産となった瓜の事を「玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)」という。一般に、くろもんと呼ばれ、実は最も長大、濃緑色で八~九条の白色の縦縞があり、糟漬けにしておいしかった事から浪花名産の一つとされた。江戸時代の狂歌師・貞柳は「黒門といえども色はあおによし奈良漬にして味をしろうり」と一首とどめている。
《伏見橋旧跡》
伏見橋は猫間川に流れ込む井路(人口水路)に架かっていた橋。江戸時代から明治時代末までこの井路を利用し猫間川への水運として使われたそうです。
《参考》「猫間川」
https://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000649.html
百済川に対して高麗川(こまがわ)と呼ばれていたのが、訛って猫間川になったといわれています。阿倍野区高松の地に端を発し、源ヶ橋を通り上町台地の水を集めながら、生野区の猫間川筋(川筋は昭和7年(1932年)に下水道工事で道路になっています)から東成区・城東区とJR環状線に沿って流れ、森之宮の砲兵工廠の西北端で平野川に合流していた長さ4.5キロメートル、川幅約10メートルの川です。流域面積が少ないことから、降雨により一時的に水量を増すことはありましたが、平時は流量も少なかったようです。このため舟運の便も悪く満潮を利用して小舟で物資を運んでいました。大坂の陣では真田幸村とともに猫間川がよく登場しますし、兵糧を搬入したことが記されています。天保8年(1837年)に幕府は、舟運の便を図るため川底を浚渫しました。このときの川浚えの土砂でできたのが寝駒堤といわれ、堤に植えられた桃・梅などの花見や紅葉狩りで賑わう大坂の名所の一つだったそうです。また浚渫を記念して★玉造稲荷神社に石碑が建てられています。現在は埋め立てられJR西日本森之宮電車区の一部になっています。
《大阪市旧町名継承碑》
https://www.city.osaka.lg.jp/shimin/page/0000201905.html
住居表示の実施に伴い、複雑に入り組んだかつての町名・町域を統合整理し、住居表示制度の浸透に努めてきたところであるが、消滅した町名について、住居表示に関する法律の趣旨を踏まえ、地域住民に長年親しまれ、歴史・文化・伝統に培われた旧町名を地域住民の憩いの場所等に継承碑として保存することにより、大阪の歴史を掘り起こし、わが街意識を育て、市民と行政ともどもが街の歴史を刻んだ町名を通じて、郷土意識の涵養を図ることを目的としている。
https://www.city.osaka.lg.jp/chuo/page/0000484173.html
★東阪町/当町は明治初頭、西成郡吉右衛門肝煎地の一部と大坂三郷南組の伏見坂町と下清水町であったが、明治2年6月2日に伏見坂町と下清水町は東大組、同3年9月に南大組に属した。同5年3月17日に伏見坂町・下清水町の全域をもって東阪町となった。同6年11月17日に東成郡に編入され、西玉造村の字地となった。同15年5月6日に吉右衛門肝煎地の一部は清堀村に属した。同22年4月1日の町村制の施行にともない西玉造村は東成郡玉造町の字地となり、清堀村も東成郡に編入された。同30年4月1日に大阪市東区に編入され、玉造大字西玉造字東阪町と清堀の一部となった。同33年4月1日に字東阪町と清堀の一部をもって東阪町となった。
★川西町/町名の由来はかつて存在した猫間川の西側に位置していた事から。
★黒門町/町名は、豊臣時代に大坂城玉造門のあったところとの説(『大阪府全誌』)により、黒塗りの門であったことに由来する。
《NEWS》2014.3.17産経新聞より
巨大な103系電車登場/大阪・JR玉造駅
JR大阪環状線の玉造駅で17日、オレンジ色の通勤電車を模した外装の商業施設★「ビエラ玉造」(大阪市東成区)の開業除幕式が行われた。ぐるっと大阪市内を1周する大阪環状線の環状運転が始まって22日で50年。「古い」「暗い」といったイメージを払拭しようと装いも新たに誕生した。外装のモデルは昭和44年から使用している103系車両。忠実に再現しただけに、JR西の担当者は「間違えてご乗車にならないようご注意ください」。
・・・これにて「ワクチン散歩」は終了、おかげで元気です。