ゴキブリ | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「頓・転・感」100号を迎え、最後のしめくくりにふさわしく「ゴキブリ」にしました。

 

《ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?~脳化社会の生き方~》著:養老猛司/扶桑社2019

「人間は、意識だけでできてるわけではない」より<抜粋>

基本的に私どもは意識の世界に住み着くというくせをつけてしまった。その方が意識にとっては居心地がいいわけで、なぜならばそういう世界にはゴキブリがいないからです。ですから、あのゴキブリを追っかける執念というのは私は非常に興味があるのでいつも見ています。どうしてあんな弱い生き物が気に入らないのか。しかしその裏には非常に深い、何か根の深いものがあるのです。

【目次】

●意識は、なぜあるのか?

・脳の機能の基本は、コンピュータと同じである・意識はひとつではない・意識とは、自分の脳がどう働くかを知っているということ・感情とは、脳のバイアスである

●人間は死んだら「モノ」なのか?「ヒト」なのか?

・人間は死んだら「モノ」なのか「人」なのか?・死体には三種類ある・人間は人工物ではなく、本来自然の存在・荻生徂徠がいう「米は米、豆は豆」とは?・社会の中で宗教が果たしてきた"ブラックボックス"の役割・自然を破壊してきた文明は強い

●人間は「人工身体」と「自然身体」の二つのからだを持っている

・いったい身体とは何か?・日本では死者と生者をきれいに断ち切る・数字で一般化された身体・・・「人工身体」・歴史の上に立った身体・・・「自然身体」・「人工身体」と「自然身体」の埋まらない対立・原理が違う、首から上と首から下の運動・戦後、縮小していく身体表現と、肥大していく言語表現

 

●人工(脳)と自然(身体)との釣り合いこそ重要である

・構造を見るうえで大事な5つの観点・我々は目玉でものを見ているわけではない・★人工(脳)と自然(身体)との釣り合いこそ重要である

●人間は、意識だけでできているわけではない

・都市化を拒否している幸福の国・ブータン・なぜ、ヨーロッパの都市は城壁で囲うのか?・都市の中で、やむなく発生してしまうもの、それが人間の身体・人間は、意識だけでできているわけではない・ブータンと日本の小学生を、一年取り替えてみたらどうだろう

●「男」と「女」という言葉ができたとき、性の連続が断ち切られた

・自然の中では、男と女の違いを分けることはできない ・男か女かわからないヒトは、自然にできてしまう・★人間が持っている自然は、女性に強く表れる

●人間は、自分ができることの説明ができない

・人は自分で自分のやっていることを、よくわかっていない・なぜ★宮本武蔵は一度も敗れなかったのか?

●子どもを育てるとは「手入れ」をすること

・鎌倉の松は、なぜ消えてしまったのか?・結局、「身についたもの」だけが財産となる・なんで親は、子どもの教育に自信をもてなくなってしまったのか?・子どものものを削って、大人のものをつくる時代になった・都市とは、人間の考えたものしか置かないという約束のあるところ・現在がどんどん大きくなって未来を食っていく・子どもを育てるとは「手入れ」をすること★メメント・モリ=死を忘れるな

●「ああすれば、こうなる」だけになった現代社会

・脳を取り出して見てみる・脳の出力は運動しかない・人によって違う「現実」を統制するのが世間・五感だけではない「美しい」「正しい」と感じる現実・「ああすれば、こうなる」だけになった現代社会・自然とは「ああすれば、こうなる」が成り立たない世界・すでに都心ではバーチャル・リアリティになっている!

 

・・・虫嫌いの人にとっては不愉快だろうと、紹介をひかえていましたが、やはり避けて通ることはできません。ご容赦ください。

 

《荻生徂徠》

日本で近代的な政治学を説いた最初の人物とされる。世の中は、さまざまな人間が集まって成り立っている。米もあれば、豆もある。米が豆になることも、豆が米になることもできないが、米は米として、豆は豆としての活かし方がある。世の中も同様である。それぞれが自分の持場で、自分の能力を活かすことによって全体が動く。世の中は億万人が集まって、一人ひとりが仕事をし、職務を果たすことによって動いていく。これは企業やチームなどの組織でも同じである。組織のリーダーは、一人ひとりが自分を活かすことによって、組織全体が発展するような枠組みを考えることが重要である。豆は豆なりのよさを活かしてやるのが、リーダーの仕事である。

 

《メメント・モリ》(memento mori)

ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」という意味の警句。芸術作品のモチーフとして広く使われる。古代ローマでは、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。ただし、古代ではあまり広くは使われなかった。当時、「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem(今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであった。ホラティウスの詩には「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)とある。この言葉は、その後のキリスト教世界で違った意味を持つようになった。天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたためである。キリスト教的な芸術作品において、「メメント・モリ」はほとんどこの文脈で使用されることになる。キリスト教の文脈では、「メメント・モリ」は nunc est bibendum とは反対の、かなり徳化された意味合いで使われるようになった。キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘因となった。

 

・・・これまで虫工作で「ホッチキス」を使用してきませんでしたが、今回は「ヒゲ」部分を固定するために利用しました。

 

・・・さらに改良型、「眼」もつけましたが「ヒゲ」はガムテの中から通し、極めつけは「磁石」を仕込んだので、よりリアルになりました。

 

・・・次回より「虫々プロジェクト」は、「付箋」ブログにて紹介させていただきます。「頓・転・感」100号までご愛読ありがとうございました。