【大平和正】(1943~)
518-1322三重県伊賀市玉滝9788/0595-42-1436
http://ohirakazumasa.web.fc2.com/
大平和正は1943年東京生まれ。武蔵野美術大学彫刻科を卒業後、造園設計を手がける。その一方で環境を意識した石、金属などによる彫刻を制作。1974年、制作の場を求めて移り住んだ伊賀で初めて土と出会い、陶による制作も始めて創作の領域を広める。彫刻を志した時から、その対象は野外だった。自然空間や庭園のような開かれた空間の中での「ものの在り様」を欧米の造形理念とは異なる、日本の風土に根ざした★環境造化という視点で陶、水、金属、石、庭などによる幅広い造形活動を展開。個展を中心に活動を続け、1999年、名古屋市にある昭和初期の邸宅を庭園ごと使った大掛かりな個展(インスタレーション)「加藤邸の造化<風と水と光と>」展は大きな反響を呼んだ。2001年、「風還元(1991-2001)野外プロジェクト/伊賀・入道谷」展は、1991年から制作が開始され、2001年までの10年間でつくられた「風還元」シリーズ25点を、それらの想いを生んだ大地である入道谷の自然の中に解き放ち、谷全体を「風還元」という1つの作品として立ち上げんとする、個人の取組みとしてはかつてない壮大な試みであった。「風還元」の理念<大地=土からカタチを立ち上げる>という環境への根源的な問いかけや、そのスケールからも一作ごとに注目を集めている。そして現在、「風還元」はその理念の必然から生まれたフォルムである「球体」という形を核にして表現されている。
※造形理念「風還元」とは
造化のこころにしたがって、その根源的な自然の姿である<いのちのかたち>を求める独自の理念。それは、日本の風土に根ざした<大地=土からカタチを立ち上げる>という視点に立って<造形と場、時間、命>等その関係の一体から立ち現れる環境造化<気の生まれる時空間>を創出する。私は古い礎石が好きだ。とりわけ野に残るそれがいい。今は一木一草の如く自然と融けあって在り続けるただの石塊。みていると時を忘れる。空を、大地を、風を……そして命を感じる。
・・・古代より人々は、何を見て何を感じてきたのか?
《参考》「ミツカン水の文化センター」より
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no37/08.html
《水の信仰・祀り・祭り》/水・河川・湖沼関係文献研究会:古賀邦雄
何故、人々は年の初めに神社に参るのだろう。2011年もまた、日本の多くの人たちは家族連れで神社に参拝した。家族の無病息災、家内安全、五穀豊穣を祈った。その心底に流れる心裡は家族の幸せである。幸せになりたい願望である。
古代人は山に、川に、海に神を見ていた。太陽や月に、大樹や巨岩にも神をみた。★森羅万象に神が宿る思想である。そして、人々は森羅万象の神に祈った。あるお婆さんは、起床して、先ず手と顔を洗い、口を漱ぎ、ベランダから東に向かって、日の出に手を合わせ、夕方には、西に向かって夕陽に祈った。それは太陽が上がろうが関係なく、一生涯祈り続けた。その娘さんが帰るときに、「今日は夕陽がきれいだから、拝んで帰れや」と言われたという。現在ではこういう人は極端に少なくなった。巨岩にも神が宿る。辰巳和弘著『聖なる水の祀りと古代王権−天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡』(新泉社 2006)は、静岡県引佐(いなさ)町(現・浜松市)井伊谷(いいや)地区の神宮寺川流域に巨岩群が連なり、この地における神の祭祀にかかわるその発掘調査である。巨岩群は渭伊(いい)神社の背後を護るように盛り上がった小丘陵地・薬師山のいただきにある。「祭祀場は岩の巨大な壁が屹立する側を除く三方が神宮寺川に囲繞(いにょう)されている。川の瀬音は磐座の岸壁に跳ね返り、そこで祭祀を実修する祝(はふり)らを四方から包み込む。そこが★水の聖地であることが体感される」と述べる。さらに著者は「渭伊神社々前の広場から神宮寺川へ、急傾斜の細い道をくだる。川を横切る堰が設けられ、塞き上げられた水は左右両岸に築かれた用水路を経て分水され、井伊谷盆地内の過半の水田を潤し稔りをもたらす。磐座をいただく薬師山は井伊谷盆地の喉元、水分(みくまり)の地を占めている。井伊谷に住む人びとの命の源。換言すればそれは《うぶすな(産土)》の地でもある。それこそ、古代人がここを神の座と定めた第一の要素であったとわたしは結論づけた。そこに祀られた神が★「水の神」「井の神」であったということはいうまでもない。…神宮寺川と薬師山からなる水分の地という空間のなかで、カミ祀りにもっとも適した場として岩群れとそれをとり巻く環境が選択されたのである」と。このように神聖な祭祀場となる必然性を分析する。余談であるが、この井伊谷地区は徳川幕府の譜代大名★井伊家の発祥の地でもある。さらに、古代人の水辺の祭祀に関する書に、森浩一他著『水とまつりの古代史』(大巧社 2005)、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編『水と祭祀の考古学』(学生社 2005)がある。この2書は、水の祀りを治水や灌漑の土木技術から捉えており、古墳時代集落での導水施設のあり方、古墳での導水施設形埴輪のあり方、導水施設の埴輪化の意義、導水と湧水祀りの観点から論じる。古代人の神聖なる水の祀りの場に、現代にも繋がる導水施設という高度な技術力が発達していた。導水施設が農業用水、飲用水だけでなく、★むしろ祀りのために敷設され、それが重要な役割をもっていたことに驚嘆する。
《参考》飛鳥京跡苑池/まつりの跡「予想外」石と水の都、わく専門家/2019.8.9毎日新聞より
「石と水の都」とも形容される飛鳥京跡(奈良県明日香村)にある苑池(えんち)から湧き水を流し、石敷きが広がる空間が現れた。観賞用とみられてきた苑池で何らかの儀式が執り行われた可能性が高まり、専門家からは「予想外」と驚きの声も上がる。この場所で何が行われていたのか。辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は、今回見つかった溝の途中にある枡(ます)の底部の石がへこんでいたことに着目し、「中に入って体に水をかけ、みそぎをした。汚れた水は溝を伝って排水された」と推測。また、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「身を清めるみそぎの場だった」と考え、天皇が利用したとの見方を強める。水が湧く湧水(ゆうすい)点周辺を埋めていた土の中からは、時代は不明だが、斎串(いぐし)や製塩土器破片も出土した。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「祭祀(さいし)で使うような遺物」とした上で、「悪霊がとりつくのをはらう祭祀だったのでは」と予想する。
・・・これらの研究から、「庭園」が単なる「鑑賞」のためのものではなく、「農業」「飲料」さらに超えて「祭祀」として敷設されてきたと考えられている。大平さんが「空を、大地を、風を・・・そして命を感じる」というのも、そういうことなのかもと思う。気が付くと、ずいぶん長く晩秋の「城之越遺跡」を彷徨している自分がいた。気を取りなおして「大村神社」へ。
《大村神社》
518-0226三重県伊賀市阿保1555/0595-52-1050
http://www.jinja-net.jp/oomura-jinja/
拝殿の西に「要石」が奉斎されています。創始は、神護景雲元年(767年)、御本殿相殿祭祀の武甕槌命・経津主命は、常陸・下総の国より奈良の 三笠山遷幸の途次、大村神社に御休息、「要石」を奉鎮せられました。この霊石は、地下深く広がり、大地を揺るがす大なまずをしっかりと押さえていると伝えられています。又大村の森全体が大きな岩盤におおわれ、この地域をしっかりと護っていると伝えられています。毎年、9月1日の防災の日に地震除災祈願大祭が斎行され、又秋祭り には大なまずが街中に引き出されます。