《NEWS》2020.9.25国立国会図書館サイトより
天理大学附属天理図書館(奈良)、展覧会「天理図書館開館★90周年記念展-新収稀覯本を中心に-」を開催
https://current.ndl.go.jp/node/42081
2020年10月19日から11月8日にかけて、奈良県の天理大学附属天理図書館において、展覧会「天理図書館開館90周年記念展-新収稀覯本を中心に-」が開催されます。2010年に同館が開催した「天理図書館開館80周年記念特別展」に次ぐもので、それからの10年間に収蔵した稀覯本に焦点をあてた展覧会となっています。
・・・道すがら寄り道を楽しみながら、90周年のお祝いに訪問したいと思います。
《業平姿見の井戸・蕪村の句碑》
639-1114奈良県大和郡山市新庄町
https://www.yk-kankou.jp/spotDetail39.html
在原業平が★在原寺(天理市櫟本)から河内の高安(八尾市)にいる恋人のもとに通う時にこの井戸に自分の姿を映したといわれている。傍らに「蟲泣くや河内通ひの小提灯」―在原業平の河内通いを詠んだ★与謝蕪村の句碑がある。
・・・まさしく偶然の発見でした。
《参考》「在原寺跡」632-0004奈良県天理市櫟本町3916/天理市より
http://www.city.tenri.nara.jp/kurashi/kyouiku/bunkazai/1391413366894.html
和州在原寺の縁起によるとこの東の石上領平尾山に、光明皇后が開かれた補陀落山観音院本光明寺があり、本尊は聖武天皇御縁仏の十一面観音であった。第51代平城天皇の御子阿保親王はこの観音を信心して業平が生れたと称し、このため親王は承和2年(835)今の地に移し、本光明山補陀落院在原寺と称した。「寛文寺社記」によると元慶4年(880)5月28日業平が病没したので邸を寺にしたとある。天文23年(1554)三条西公条の『吉野詣記』には在原寺の記事が見え、延宝9年(1681)刊の『和州旧跡幽考』にも記され、江戸時代は寺領わずかに五石であったが、明治維新ごろまで本堂、庫裡、楼門などがあり、昔は、在原千軒と称せられたほど人家が建ち並んでいたという。在原寺は廃寺となり、本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移され、今は阿保親王と在原業平を祀る★在原神社となっている。上街道から在原神社の入口に、在原寺という標石が建っているが、その裏面に在原神社と刻まれているのはその事情を物語っている。中将在原業平は、有名な歌人の一人であり、また絶世の美男子であったといわれる。業平の作という伊勢物語にのせられた歌物語の「筒井筒ゐづつにかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」の歌や、謡曲の「井筒」にちなんだ筒井筒のほか一むらの薄(すすき)、石標などにその名残を留めている。
・・・かなりの寄り道ですが、公園が整備されてから一度も来てなかった「カラコ」へ。
《唐古・鍵遺跡史跡公園》
636-0226奈良県磯城郡田原本町唐古50番地の2/0744-34-5500
磯城郡田原本町にある「唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき)」は、今から約2,000年前の弥生時代に栄えた、幾重もの環濠に囲まれた集落の遺跡です。その規模は約42万平方メートル(甲子園10個分)という広さで、日本最大級のムラが営まれていました。大きな建物があったことを示す遺構や、日本各地から運び込まれた遺物なども見つかっており、この集落は当時の最先端の技術を持ち、近畿地方のリーダーのような役割をしていたのではないかと考えられています。
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/kouen/7103.html
ここでは、以前からシンボルである「復元楼閣」などが建てられていましたが、さらに整備が進められ、弥生時代の風景が再現され、生活が体験できる公園が2018年4月17日誕生しました。
http://www.pref.nara.jp/49954.htm
※道の駅「レスティ唐古・鍵」
636-0226奈良県磯城郡田原本町唐古70番地の1/0744-33-9170
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/soshki/sangyo/tiiki/mitinoeki/7102.html
唐古・鍵遺跡史跡公園と隣接し、さまざまな観光サービスを提供する交流施設「道の駅」が、平成30年4月20日に誕生しました。駐車場から史跡公園へと向かう主要動線には、唐古・鍵遺跡や町及び県中南和地域の観光案内と地場産品の買い物・食事を提供する「此処でこそのもてなしの場」があり、史跡公園への期待感を高める施設となります。特徴的な寄棟造りの大屋根は、国道24号を走る車からもよく見えるので、新しい田原本町のランドマークとなります。この大きな寄棟屋根の「道の駅」と、史跡公園の「楼閣」という対峙する2つの建物が、このエリアのシンボルとして特徴的な建物風景を生み出します。館内では地元の新鮮な野菜、特産品の販売や飲食店を展開。また若い女性も訪れやすい美しく、清潔でおしゃれな空間を演出します。地元客で日常的に賑わい、観光客は非日常感が楽しめる交流施設をめざします。
・・・またまた、これも偶然の発見でした。
《NEWS》2020.4.16奈良新聞「明風清音」第36回より
UCC上島珈琲の創業者・上島忠雄氏は田原本町唐古出身/文:鉄田憲男
https://www.ucc.co.jp/museum/sp/jp/001.html
UCC上島珈琲の創業者・上島忠雄氏(明治43年~平成5年)は、磯城郡田原本町唐古の出身である。生家のすぐ近くには「UCC唐古庭園」(唐古・鍵遺跡史跡公園の北側に隣接)がある。平成5年4月3日(上島夫妻の結婚記念日)にUCCが開設したもので、園内には記念碑が立つ。そこには「我故郷を出でて六十有余年を閲(けみ)したり。神戸の地でコーヒー業を興して六十年。(中略)我が人生を唯々(ただただ)コーヒーに捧げて社会に貢献奉仕し得たことは至福にして些(いささか)の悔(くい)もなし」。氏の生涯は『実録創業者列伝Ⅱ』(学習研究社刊)に詳しく紹介されている。氏は豪農の五男に生まれ、大阪と神戸の食料品店で働いたのち昭和8年、23歳でコーヒー焙煎(ばいせん)卸業を営む上島忠雄商店を開業した。三宮の喫茶店で初めて飲んだコーヒーの味と香りに感動し「生活の西洋化が進めば、コーヒーは日本人に受け入れられる」と確信したからである。あるとき「コーヒーを缶入りにしたらどうだろう。いつでもどこでも、飲めるではないか」とひらめいた。そして昭和44年、世界初とされる缶コーヒー「UCCミルクコーヒー」を完成させ販売を開始した。「ところが、UCCの苦労の賜物であるこの画期的新商品の登場に対し、意外にも業界の反応は冷ややかだった。『缶コーヒーは邪道』と、一蹴されてしまったのである。忠雄と社員たちの新たな戦いが始まった。全社一丸となって出鼻を挫(くじ)かれた缶コーヒーの売り込みに必死になった。営業マンたちは『UCCの缶コーヒーを下さい!』と売店で叫んだり、またわざと缶を人目につくように置いたりしたという。そんなとき缶コーヒーを広く知ってもらう、願ってもない機会が廻ってきた。翌年大阪で開かれた日本万国博覧会である」(同書)。万博で猛烈なセールス攻勢をかけ、缶コーヒーには製造が追いつかないほどの注文が殺到したという。その後、ジャマイカやハワイにコーヒーの直営農園を開設した。「ジャマイカなどでの功績で忠雄は海外から高く評価され、数々の栄誉に浴している。そのなかのひとつ、国際コーヒー機構(ICO)から忠雄は『日本のコーヒーの父』という称号を贈られている」(同書)。趣味を問われた忠雄氏は「コーヒーを一人でも多くの人に飲んでもらうために没頭すること」と即座に答えたという。そんな郷土の偉人を記念したUCC唐古庭園と史跡公園は、隣接しているのに柵があるので大回りしないとたどり着けない。これはぜひ何とかしていただきたいものだ。UCC唐古庭園の向かいには、田原本町から指定管理を受けた奈良交通が運営する「道の駅レスティ唐古・鍵」がある。2階の「からこカフェ」ではUCCのドリンク類を扱っていて、なかでも「アイスブリュードコーヒー」(税込344円)が人気を集めている。ビールサーバーのようなサーバーで抽出された泡の立ったアイスコーヒーで、飲んでみたところ、クリーミーなのど越しと深い味わいがマッチして、とても美味しい。1階ではUCCの缶コーヒーやイチゴなど季節の青果が販売されている。同店の看板商品で、関西のパン好きなら知らない人がいないという「黄金の生食パン極(きわみ)」(税別570円)と合わせて、お買い求めいただきたい。
・・・そろそろ天理に向かいましょう。
《天理市立黒塚古墳展示館》
632-0052奈良県天理市柳本町1118番地2/0743-67-3210
http://www.city.tenri.nara.jp/miryoku/tenrinomiryoku1/kofun/1396576901188.html
http://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/kurozuka/index.html
黒塚古墳は、天理市柳本町に所在する前方後円墳です。全長は約130メートル、後円部の高さは約11メートルです。古墳より出土した三角縁神獣鏡は、きわめて良好な状態で出土し、全国でも過去最多★33枚がその姿を現しました。この発見は、邪馬台国や古代国家成立の過程を解明する超一級の資料といえます。
http://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/kuroduka.html
竪穴式石室は内法長約8.3㍍、幅約0.9~1.3㍍、高さ約1.7㍍に達する大規模なものである。壁の下部は川原石を用いてほぼ垂直に積み上げるが、上部は二上山系安山岩・玄武岩の板石を徐々に内側にせり出しながら、上端で左右の壁が互いに接するまで積み上げている。そのため、天井と呼ぶべき部分がなく、明確な天井石もみられない。このような形態は★合掌式(がっしょうしき)と呼ばれている。こうした構造が災いしたのか、石室は中世に起きた★大地震で崩壊し、大量の板石が内部に落下した。一方でこの大量の板石が盗掘者を阻み、盗掘を未遂に終わらせる結果となったらしい。その後黒塚古墳は★城郭として利用され、近世には柳本藩邸の一部となり、現在まで公有地として管理されてきた。盗掘者を寄せ付けない環境が再度の盗掘を防いだといえる。
・・・何が幸い(災い)するかわかりませんねえ。まもなく、天理大学です。