アイデア(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・東京のトイレを紹介しましたので、大阪も。

 

 

●天王寺公園トイレネーミングライツについて/大阪市2018.7.19より

https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000405133.html

「KANSEI TENNOJI ZOO TOILET」が完成しました

543-0063大阪市天王寺区茶臼山町1-108

平成29年3月16日(木)から平成29年5月15日(月)にかけて募集していた(平成29年3月16日付け報道発表済み)、天王寺動物園の「新世界ゲートトイレ」に係るネーミングライツパートナー企業が決定し、平成29年7月20日(木曜日)に「KANSEI TENNOJI ZOO TOILET」として完成しました。トイレにおけるネーミングライツは大阪市で初めての取組みであり、「Dコート」による防臭・防汚対策工事やトイレ配水管の清掃など、契約料だけでなく、役務提供等によるご提案をいただきました。新しく、きれいになったトイレを是非ご利用ください。

 

 

★パートナー企業「管清工業株式会社大阪支店」

https://www.kansei-pipe.co.jp/

 

・・・いろいろなトイレを提案されています。気持ちの良い「未来のトイレ」をよろしく。さて、大阪で、誇るべきトイレは「地下鉄(大阪メトロ)」にもあります。

 

 

・・・「食いだおれ」の大阪だからこそ「トイレ」も充実させ、高齢者も安心して外出(用を足す)できるように配慮してください。

 

 

・・・「トイレの神様」のニュースが、

 

 

《NEWS》2020.9.9北日本新聞より

「トイレの神様」実は極彩色だった/瑞龍寺、かつての姿図面化へ

国宝瑞龍寺(高岡市関本町)が今月から、「トイレの神様」として知られ、同寺法堂(はっとう)に祭られている木像の★烏瑟沙摩(うすさま)明王像の彩色調査に乗り出した。部分的に残る色を手掛かりに、かつて極彩色だった明王像の姿を図面化する。将来は寺が所蔵する高岡銅器製のレプリカ像に色を施し、再現することを検討している。瑞龍寺の木像は室町時代以前に作られたと伝わる。高さ117センチは烏瑟沙摩明王像としては国内最大級。汚れや悪を焼き尽くして清める強い力を持つとされ、禅宗寺院の東司(とうす)(便所)に祭られることが多い。同寺でもかつては便所の役割を果たしていた七間浄頭(しちけんじんずう)に置かれていた。調査は文化財の彩色復元調査を専門とする業者に依頼。広い範囲で色のはく離が見られるが、部分的に残る箇所から全体を把握していくという。調査に合わせ、木像を厨子(ずし)から出して公開している。年末までの予定で、四津谷道宏住職は「烏瑟沙摩明王像をさまざまな角度から間近で見られる。ぜひこの機会に拝観していただきたい」と話している。

 

《高岡山「瑞龍寺」》

933-0863富山県高岡市関本町35/0766-22-0179

http://www.zuiryuji.jp/

慶長14年(1609)に、加賀前田家2代当主前田利長は、当時、関野と呼ばれていた荒野に高岡城を築き、城下町を造りました。その際、現在の瑞龍寺の位置に富山より「法円寺」を招きました。その後、慶長19年(1614)に前田利長が没した後、利長の法名にちなみ、「瑞龍寺」と改名されました。3代当主前田利常は、利長の33回忌にあたる正保3年(1646)に、利長が荼毘に付された場所を選び、広大な墓所(現国指定史跡)を造営するとともに、瑞龍寺の大改造に着手し、代表的な禅宗建築技術である建仁寺流の技術を伝承する加賀藩御大工「山上善右衛門嘉広」を棟梁に任命しました。明和8年(1771)の「高岡町図の弁」によると、「山門」「仏殿」「法堂」などの主要伽藍は正保、明暦及び万治年間に建設され、残る「回廊」などの付属部分は、遅くとも利長の50回忌である寛文3年(1663)には完成していたものと伝えています。その後、藩の手厚い保護により、寺観の衰えることはありませんでしたが、延享3年(1764)に「山門」北脇の「浴室」から失火し、火は瞬く間に広がり、「浴室」、「山門」、「七間浄頭(しちけんじんずう)、「禅堂」を焼き尽くしました。山門以外の伽藍の復興は、比較的早期に行われたようですが、「山門」は藩の経済力の低下もあり、なかなか進みませんでした。しかしながら、高岡町民の懇願により、文化10年(1813)ようやく再建の許可が下り、藩では創建時の大工の子孫である「山上善右衛門吉順」を棟梁に命じ、設計に着手し、文政元年(1818)11月に完成しました。以降、藩の援助停止や廃仏毀釈により寺勢が衰え、「禅堂」を「烏蒭沙摩明王堂」に改造され、「大庫裏」、「浴室」及び「回廊」の一部が失われました。その後、明治期から大正期にかけて回廊の東部分が復元され、大修理前の伽藍構成となりました。

 

★不浄をはらう「トイレの神様」特別展示(富山県)/北日本放送より

高岡市の国宝・瑞龍寺に祭られている烏瑟沙摩明王像(うすさまみょうおうぞう)。不浄をはらうことから「トイレの神様」とも呼ばれています。この明王像がいま、厨子から出された状態で特別展示されています。山田記者がお伝えします。  憤怒の表情と、左足を高く上げた躍動的な姿。「こちらが烏瑟沙摩明王像です。高さ117センチと、国内最大級の大きさだということです」普段は、厨子の中に祭られている明王像が、9月7日から始まった調査に伴い、厨子から出された状態で展示されています。通常は見ることができない後ろ姿もしっかり堪能できます。四津谷道宏住職 「烏瑟沙摩明王というのは、トイレの守護神。元々はインドに起源があって、お釈迦様に対して、不浄な行いをした猪頭天に烏瑟沙摩明王が怒りつけている」かつては瑞龍寺の東司、現在でいうトイレに祭られていました。しかし火事で焼失したため、現在の場所に安置されているということです。近くで見ると、かすかに色が残っているのがわかります。四津谷道宏住職 「(当時の)極彩色が際ぎわに残っている。(色が)欠落した部分はあるんですけど、この機会にどのような姿だったのかを図案化しようかと。高岡銅器で作ったレプリカに、その彩色をのせられないかと考えている」威厳を称えた明王像。不浄を許さぬそのにらみで、新型コロナウイルスも退散させてくれないでしょうか…。四津谷道宏住職 「コロナで中々旅行に行けないということが続いていたが、遠くへ行くことだけが旅行ではない。自分の近くに意外と素晴らしい仏様や神様があるんだと、そういうところを回って、身近な素晴らしいものに気づいていく方が、いい旅になるのでは」瑞龍寺の烏瑟沙摩明王像、厨子から出た状態で鑑賞できるのは年末までということです。

 

《参考》「烏枢沙摩明王(Ucchuṣma)」Wikiより

密教における明王の一尊である。「烏枢瑟摩」「烏蒭沙摩」「烏瑟娑摩」「烏枢沙摩」とも表記される。真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では五大明王の一尊である。日蓮宗では「烏蒭沙摩明王」の表記を用い、火神・厠の神として信仰される。『大威力烏枢瑟摩明王経』などの密教経典(金剛乗経典)に説かれる。明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる。烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた。烈火をもって不浄を浄化する明王として知られ、寺院の便所に祀られることが多い。また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、★男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた。静岡県伊豆市の明徳寺などでは、烏枢沙摩明王が下半身の病に霊験あらたかであるとの信仰がある。『穢跡金剛霊要門』では、釈尊が涅槃に入ろうとした時、諸大衆諸天鬼神が集まり悲嘆している中、蠡髻梵王のみが天女との遊びにふけっていた。そこで大衆が神仙を使って彼を呼んだが、慢心を起こした蠡髻梵王は汚物で城壁を作っていたので近づくことが出来なかった。そこで釈尊は神力を使って不壊金剛を出現させた。金剛は汚物をたちまちに大地と変えて蠡髻梵王を引き連れてきた。そこで大衆は大力士と讃えた。

烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が一面六臂であったり三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い。五大明王の中の一尊としての造像遺例には、奈良の宝山寺の木像が見られる。江戸時代、元禄14年(1701年)に、湛海により造像されたものである。

 

・・・年をとると、本当にトイレの問題は「深刻」なのです。ははは