ゲルニカ(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「キッズゲルニカ」の出発点ともなったヨーゼフ・ボイスさんについて、

 

 

【ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)1921~1986】Wikiより

ドイツの現代美術家・彫刻家・教育者・音楽家・社会活動家。初期のフルクサスに関わり、パフォーマンスアートの数々を演じ名を馳せたほか、彫刻、インスタレーション、ドローイングなどの作品も数多く残している。脂肪や蜜蝋、フェルト、銅、鉄、玄武岩など独特な素材を使った立体作品を制作したが、同時代のミニマルアートとは背景となる思想が異なり、その形態と素材の選択は、彼の『彫刻理論』と素材に対する優れた感覚によっていた。また★『社会彫刻』という概念を編み出し、彫刻や芸術の概念を「教育」や「社会変革」にまで拡張した。『自由国際大学』開設、『緑の党』結党などに関与し、その社会活動や政治活動はドイツ国内で賛否両論の激しい的となっている。しかしその思想と、『人間は誰でも芸術家であり、自分自身の自由さから、「未来の社会秩序」という「総合芸術作品」内における他者とのさまざまな位置を規定するのを学ぶのである』という言葉は、20世紀後半以降のさまざまな芸術に非常に重要な影響を残している。

 

《社会彫刻(独:Soziale Plastik)》アートスケープより

ヨーゼフ・ボイスの提唱した概念で、あらゆる人間は自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる、すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない、という呼びかけである。それは、「芸術こそ進化にとっての唯一の可能性、世界の可能性を変える唯一の可能性」というボイスの信念から発している。ただし、そこでの「芸術」とは、芸術史から出てきたような芸術の観念——彫刻、建築、絵画、音楽、舞踊、詩など——ではなく、それを超えた「拡張された芸術概念」であり、「目に見えない本質を、具体的な姿へと育て」、「ものの見方、知覚の形式をさらに新しく発展・展開させていく」ことである。社会彫刻の発想は、★W・レームブルックの彫刻や★R・シュタイナーの「ドイツ国民とドイツ文化界に告ぐ」(1919)などから影響を受けたといわれている。前者の彫刻からは、「なにかが彫刻によってなされなければならない。すべては彫刻なのだ」とボイスは感じとり、そこから「彫刻的な形態を物理的な材料としてだけでなく、心的な材料として考えたときに〈社会彫刻〉の構想へと駆り立てられた」という。シュタイナーの論説からは「社会的な有機体は十分に新しい土台の上に築かれるべきである」ということを受けとり、それもまた社会を彫刻するという発想へと繋がった。もっとも、シュタイナー、つまり人智学からの影響はそれにとどまらず、ボイスが彫り進めようとした社会像の基盤ともなっていた。そして、「貨幣」や「権力」によって人間を抑圧し疎外する社会を変える=彫刻するのは、ボイスが言うところの★「芸術家」=「自ら考え、自ら決定し、自ら行動する人々」であり、誰もがそうなる義務があるとさえ表明された。ボイス自身の作品においては、環境への働きかけおよび(理念的には)賛同者の募金により実現した「7000本の樫の木」プロジェクト(1982-87)が社会彫刻の頂点とも捉えられている。

 

 

【ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)1861~1925】Wikiより

バルカン半島のクラリェヴェクで生まれ、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者である。ゲーテの自然科学論や学芸雑誌の編集に携わりながら、前衛的な団体やアナキズムの傾向をもつ人々と関係するようになり、ニーチェ主義的な自由思想の立場に至るが、神秘思想の講演者に転身し、人智学(アントロポゾフィー)と称する精神運動を創唱した。人智学運動は神智学協会の神智学運動から派生したものであるが、インド思想に傾倒した神智学協会よりもキリスト教神智学に近い性格をもっており、ロマン派の自然哲学、グノーシス、薔薇十字思想の流れも汲んでいる。シュタイナーの思想はカール・グスタフ・ユング、パウル・クレー、アルベルト・シュヴァイツァーにも何らかの影響を与えた。ドイツ哲学研究者の三島憲一は、1970年代以降のドイツで緑の党に集まった知識人たちのなかに人智学に学んだ人々が多いと述べているが、その一方で、1920年代にヴァルター・ベンヤミンはシュタイナーについて「前近代への願望でしかないと見て深く軽蔑していた」(三島 2002 : 596)とも指摘している。

環境問題が切迫した課題になった現代では、多くのスピリチュアルな組織や指導者が、精神的な課題として環境保護に注目するようになった。シュタイナーは環境問題に関心を持っており、その思想の中心はエコロジーと宗教が占めていたため、現代の時流とうまくマッチした。また、神秘思想としては珍しく、教育、農業、治療といった実用的・世俗的な実践のノウハウを確立させていたため(神智学と大きく異なる点である)、シュタイナーの思想は現代で復活した。シュタイナーの遺したさまざまな構想は、特にドイツ語圏の国々で、小規模とはいえ存在感をもって実践され続けている。現代の人智学協会の活動はさほど活発とも言えないが(主要メンバーは年配者である)、時代に乗って環境運動を成功させ、有機農業・伝統事業といった生態環境的観点に適う企画に低利率で資金を貸し付ける銀行を設立し、人智学運動は教育、治療および医療まで手を広げた。教育の分野においては、ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が代替教育として広く普及し、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心に実践されている。現代の人智学協会の影響は、活動の規模よりもかなり大きい。その一方、The Skeptics Society(懐疑派協会)の創設者でサイエンスライターのマイケル・シャーマーなどの現代の批評家は、人智学の生物学、医学、農業などを偽科学と批判している。

 

 

【ヴィルヘルム・レームブルック(Wilhelm Lehmbruck)1881~1919】

ドイツの彫刻家。ノルトライン=ヴェストファーレン州のデュースブルクの近郊のマイデリッヒの鉱山労働者の息子に生まれた。科学書の挿絵を描いたり、装飾画を描くなどして生活費を得ながら、デュッセルドルフの工芸学校 (Kunstgewerbeschule Düsseldorf) で彫刻を学んだ。1901年からデュッセルドルフ美術アカデミーで彫刻家のカール・ヤンセンに学んだ。1906年にケルンで開かれた展覧会に初めて作品を出展した。1907年に結婚した。1910年に美術品コレクターのカール・ノルデンの支援を受けてパリに移り、同年のサロン・ドートンヌに初めて出展した。アレクサンダー・アーキペンコらの前衛的な彫刻家とも知り合った。ドイツ各地の展覧会やアメリカでのアーモリーショーにも出展した。第一次世界大戦が始まった後、ベルリンに戻った。戦争中は救護隊員や軍の病院で働き、その★悲惨な経験は後年の作品に反映された。1916年末には鬱病になり、スイスのチューリッヒに移った。1919年にベルリン美術アカデミーの会員に選ばれ、ベルリンに戻ったがそこで自殺した。

 

・・・37歳?早すぎる。

 

 

《Lehmbruck Museum》

Friedrich-Wilhelm-Straße 40 47051 Duisburg/+49 (0) 203 283-3294

https://lehmbruckmuseum.de/en/?lang=en

社会的にも文化的にも激動する世紀転換期のヨーロッパで制作したレームブルックは、そのような時代に生を受けた近代人としての自我を見つめ、自らに「生きること」の意味を問い続けました。この時代は抽象絵画や抽象彫刻など、美術においても革命的な新しい動きが現れ、レームブルックの作品もこれに呼応し、抽象化、純粋化の傾向を見せましたが、その主題は常に人間を志向していました。レームブルック特有の極端に引き伸ばされた人体の表現は、静かな、それでいて張り詰めたような力動感を秘めています。残念ながら激動の時代は繊細な芸術家の心を打ち砕き、極度の憂鬱状態を経て、レームブルックは38歳の若さで自らの命を絶ちます。さらに、彼の死後、ドイツで政権を掌握したヒトラー率いるナチ党によって「退廃」の烙印を押され、作品は公的機関から押収されて人々の記憶から消し去られてしまいます。しかし、深い精神性を湛えた彼の作品は、いまだ危機の時代を生きる人類に共通する鋭い現代性をもち続けています。第二次世界大戦後には当然ながら復権し、続々と展覧会が仕立てられ、また研究書の刊行も相次いでいます。

 

 

・・・きちんと作品が収蔵され、後世に受け継がれていることが素晴らしい。