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《NEWS》2020.7.30デイリーより

旭堂南陵さん死去「週単位」と余命告知、23日に死を覚悟の舞台リモート出演

関西を中心に活躍した講談師で元参院議員の旭堂南陵、本名・西野康雄)さんが30日午前10時36分、すい臓がんのため兵庫県西宮市の自宅で死去した。70歳。堺市出身。お笑いコンビ・シンプルのメンバーで、講談師として旭堂南也を名乗る長男の西野晶雄さん(40)によると、南陵さんはかねて体のだるさなど体調不良を訴えていたという。低血糖症程度に考えていたところ、今月上旬に精密検査を受けてすい臓がんが判明。すでに肝臓にも転移している「ステージ4」の段階だったという。進行性が高く、病状は日に日に悪化。南陵さんは顔はこけ、腹水でおなかはふくらんだ状態になったという。病名の告知を受けていた南陵さんは、23日の大阪・国立文楽劇場での公演に、入院先の西宮市内の病院から電話でリモート出演。その前に南陵さんが医師に余命を聞いたところ「月単位でなく週単位で考えて」と返されていたといい、晶雄さんは「死を覚悟した最後の舞台でした」と父の心情を代弁した。姉とともに最期を看取った晶雄さんは「自宅に戻ったのは本人の希望でした。意識はギリギリまであって、ずっと★『クソーッ』と言っていました」と悔しがりながら旅立った南陵さんの舞台への思いを明かした。そして、父の遺志を「引き継いでいかないといけない」と誓った。南陵さんは大学在学中から三代目旭堂南陵に師事し、1972年にデビュー。2006年に四代目南陵を襲名。89年の参院選兵庫選挙区に旧社会党公認で出馬して当選し、1期務めた。11年に大阪芸大で博士号を取得。11年度の文化庁芸術祭賞大賞を受賞した。NHK連続テレビ小説「やんちゃくれ」「あさが来た」などにも出演した。南陵さんが会長を務めていた大阪講談協会の公式サイトに掲載された訃報には、遺族、一門として「いまだ信じられない思いでいっぱい」と悲しみがつづられた。葬儀はコロナ禍も鑑みて一門、親族による密葬で営まれ、喪主は晶雄さんが務める。一門として、後日、お別れの会の開催を行う意向をもっている。

 

 

・・・南陵さんは山之口商店街とも縁が深く、ギャラリー「いろはに」にもよく顔をのぞかせてくださいました。オーナーのご主人(北野)とは、高校の同級生でもあります。

 

《参考》堺をおもえば…旭堂南陵さん/堺の記憶

https://www.city.sakai.lg.jp/smph/shisei/koho/citypromo/sakai_wo_omoeba/nanryo1.html

上方講談の4代目旭堂南陵さんは堺で40年以上、「夢浪漫亭★おたび寄席」を月に1回開催し、今も同級生や先輩、町の人々と楽しげに交流している堺人だ。南陵さんは堺区にある堺★山之口商店街の近くで生まれ育った。「親父は神石市之町のほうに田んぼや畑を持っていて農業をやりながら、農協の理事にもなってましたわ。親父の貸家には横山やすしさんがおったりしてね」豪農のぼんぼんだったわけだ。花田口聖母幼稚園から熊野小学校に入学。「小学校の頃は、頭はよかった。1年から6年まで学級委員長やってね。でも、外で遊ぶことが圧倒的に多かったな。夏休み言うたら、仁徳陵とか今の大仙公園あたりでセミ捕りとか昆虫採集とかしてました。タヌキもおったよ。今もいたすけ古墳にようけおるやろ。野池もたくさんあったから魚釣りしたり。冬には南宗寺に落ちてる椿の実を拾うて、中の種を笛にしたり。昭和30年代ぐらいまでの堺は自然の宝庫やった。そこで育ったのはよかったね。あんまり開発しちゃいかんのよ」海もまだ埋め立てられていなかった。「1年生までは大浜の海水浴場で泳げたから、みんなで学校から海パンはいて歩いて行ってました。その後、3年ぐらいは浜寺に行ってたかなあ。風車で水を上げて、おっちゃんがネギ畑に水撒いたりしてたな」 忘れられないお菓子もある。「今もチン電の妙国寺電停前にある和菓子屋の[曽呂利]で、親父がときどき『大鏡(おおかがみ)』いう白あんをはさんだ饅頭を買うてきてくれたんです。ほんまに大きくて、切って家族で食べるのが楽しみのひとつやった。それと、当時は堺東の商店街に [電気館]があって、よく映画を観に行ったなあ」そして、殿馬場中学校に進学。「弁論大会に出たら、アガッてしまって1分ほどで絶句してよう喋れんかった。それで、『どんな仕事に就いても人前で話ができるようにならなあかん』と思ったんです。これが後に講談師になるきっかけになったんやから、人生ってわからんもんやね。そういえば、中学あ年のときには東京オリンピック(1964年10月)があったなあ」高校は大阪府立★泉陽高校に。「泉陽は独特の面白さがあったな。変わったやつがようけおった。僕は体育祭になると応援団で団長とかやってました。学校の帰りには堺東駅の商店街で同級生のお父さんがやってた[モナミ]ていう喫茶店に寄り道したり。今は友達のお兄さんがやってるはずや」(以下略)

 

★鳥井駒吉展~鳥井駒吉を知る・語る(1)/つーる・ど堺より

https://toursakai.jp/2020/200222_torii01/

★鳥井駒吉展~鳥井駒吉を知る・語る(2)

https://toursakai.jp/2020/200222_torii02/

堺で講談といえば、講談師★旭堂南陵さんの出番ですが、この日は飛び入り参加がありました。旭堂南陵さんの息子にしてお弟子さんの旭堂南也さんです。南也さんは、お笑いの世界でも活躍されていましたが、芸の幅を広げるために、再び講談の世界にも戻ってこられたとのこと。千利休と加藤清正の講談を一席披露されました。講談師としての活動は昨年からのようで、どこか初々しさが感じられる一席でした。続いて、旭堂南陵さんの登場。南陵さんは、上方講談会の大名跡である旭堂南陵の4代目で、芸歴50年を越える大ベテラン。マイクの前に立つだけで、聴衆を引きつける雰囲気が漂います。観客席の様子もよく見ています。聴衆の中に、40年ぶりに堺に酒造を復活させた『千利休』の蔵主西條裕三さんがいらっしゃるのを見つけるとマイク越しに声をかけて、聴衆に紹介します。このように南陵さんの舞台は自由闊達なものでした。蒐集家としても知られる南陵さんは、集められた資料を紹介しながら、ぽんぽんと小気味良く話題を飛ばしていきます。樽と桶の違いや、南海鉄道の車両などに使われた羽と車のマークが鳥井の鳥からとられたことなど、驚きの話題が満載です。もはや数少なくなったアサヒビールの「朝日に波頭」のロゴマーク入りのビールジョッキも披露されたのですが、このマークのデザインは鳥井駒吉とも親しかった浮世絵師・中井芳瀧のものです。大阪市生まれで、京都で暮していた中井芳瀧ですが、堺の酒が好きで、いちいち堺から注文するのが面倒と、堺に居を移したというほどの大酒飲みだったとか。ロゴマーク以外にも、アサヒビールの引札やチラシ・ポスター類を、弟子の川崎巨泉と共に多数手がけたそうです。
客席からは、その都度驚きの声があがりました。(以下略)

 

 

・・・合掌