《金継ぎ》
割れや欠け、ヒビなどの陶磁器の破損部分を漆によって接着し、金などの金属粉で装飾して仕上げる修復技法である。金繕い(きんつくろい)とも言う。破損部を漆で修復した痕跡は縄文土器にもみられる。室町時代以降、蒔絵など漆を使う工芸技術と、修理した器もありのまま受け入れる茶道精神の普及により、金継ぎに芸術的な価値(金で繕った部分は★「景色」と呼ばれる)が見いだされるようになった。本阿弥光悦作★赤楽茶碗(銘「雪峰」)のように、文化財に指定されたり、骨董として珍重されたりする金継ぎ陶磁器もある。現代においても、愛用の器を修理して長く使い続けたり、金継ぎの過程や跡をアートとして楽しんだりするために、金継ぎの請負業者や教室が存在している。
《赤楽茶碗(銘:雪峯)》作:本阿弥光悦/蔵:畠山美術館
https://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/exhi2018winter.html
https://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/colle018.html
腰から胴にかけて丸く張り、鞠のように円満な姿をしているこの赤楽茶碗は、「光悦七種」の一つに数えられる。全体にやや厚めで、内側に抱え込むような口縁から胴、高台にかけて、太くて大きな火割れがあり、いずれも金粉漆繕いが成されている。「雪峯」の銘は、一方の口縁から胴にかけてなだれるようにかけられた白釉を、山嶺に降り積もる白雪に、また火割れを雪解けの渓流になぞらえて、光悦自ら命銘したといわれる。
・・・下段の器は「写し」、当たり前ですが比較にならないなあ。
《凱風快晴》FujigokoTVより
http://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol5/hokusai/gaifu/
「凱風快晴」は富士山を描いた葛飾北斎の冨嶽三十六景の中でも「神奈川沖浪裏」・「山下白雨」とならび人気の高い作品で★三役の一つとされており、通称「赤富士」と呼ばれています。「凱風」とは南から柔らかく吹く風を意味しており、このことから夏の富士山を描いたものと認知されています。しかし、このように有名な作品であるにもかかわらず、この浮世絵の視点は不明であるとされており、「三ツ峠周辺・富士吉田市・静岡沼津周辺」と様々な説が あります。まず、山梨県側の三ツ峠周辺や富士吉田市からの視点ではないかとする説の根拠は「赤富士」と呼ばれる自然現象やそこから見える山頂の平らな形に由来しています。「赤富士」という自然現象は近年のカメラマンが富士山を撮影する際に夏~秋の早朝、山梨側から見た富士山の東肌へ朝日が当たり、富士山が赤く染まる現象を言い、その有名な撮影スポットとして富士吉田市の滝沢林道などが挙げられます。また、「凱風快晴」の画に見られる「鱗雲」が秋をイメージさせ、赤富士の季節と重なることも「凱風快晴」は山梨側という説を補完しています。江戸時代の文献を紐解いてみても「赤富士」という記述はごく稀にしか散見されず、特に昔の人は富士山が赤く染まる現象は注目されていなかったのではないかと思われます。
・・・「金継ぎ」から、北斎の「景色」を思い浮かべました。
《参考》「すみだ北斎美術館」
130-0014東京都墨田区亀沢2丁目7番2号/03-6658-8936
https://hokusai-museum.jp/modules/Page/pages/view/1042
すみだ北斎美術館のロゴマークは、平成21年度にデザイン案の公募を行い、国内外から寄せられた1,634点にも及ぶデザイン案の中から最優秀賞として選ばれたデザインを元に作り上げたものです。シャープで力強いフォルムが鮮烈さとエネルギーを感じさせ、北斎の画業に対する挑戦的な一面を連想させるとともに、空高く大きく広がる稲妻は、世界に向けて発信するという、美術館の理念を表現しています。北斎生誕の地に建つ美術館にふさわしい、新鮮でインパクトのあるロゴマークです。また、ロゴマークのシンボルカラーは、墨色、灰色、白色、銀色です。メインカラーである墨色は、版画の骨格をなす色で、彩度の高い色を引き立てながらも、自らの存在感を失わない色です。原案:高瀬清二/補正:勝井三雄
・・・建物は「妹島和世(1956~)」 さん、今は無理ですが行きたい美術館の一つです。大阪芸術大学アートサイエンス学科の新校舎も設計されました。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/18920
《金継師{山下裕子}》
https://www.yamashitayuko.com/
天然の樹脂塗料として、古くから暮らしを支えてきた漆。その漆を用いて、割れたり、欠けてしまった器を継ぎ、金や銀でお化粧して繕う技術を通称として「金継ぎ」と呼びます。茶の湯の文化から生まれた金継ぎは、器を修復するだけに留まらず、破損を繕った跡を「景色」と見立て愛でてきました。生まれた時代や場所、傷跡もひとつひとつ違う器に寄り添って、その物がもつ魅力を大切に、器を蘇らせたらと思います。金継ぎを通して、ものを大切にする豊かさ、暮らしの中で器を育む日々を楽しんでいただけますように。
197島根県生まれ。東京都在住。ファッションブランドのプレスとして勤める傍ら、大切な器が割れたのをきっかけに金継ぎを学び始め、漆という素材そのものに興味が深まる。退職後、2015年より本格的に本漆での陶磁器のお直しを請け負っている。
島根県松江市出身で20代後半までずっと松江で暮らしてきたんですけど、島根には★不昧流という茶道の流派があるので、昔から茶の湯の文化が根付いている土地なんです。また島根は1920年代には★柳宗悦が中心となった民藝運動の影響も強く受けているので、今も用の美を追求した陶器が作り継がれています。そういう街で私は生まれ育ったので、幼い頃からお茶や器の文化に触れるということが割と身近だったんです。そのせいも合って、器を見たり触ったりするのはずっと好きでした。金継ぎもまた、その延長線上で知っていたんです。5年ぐらい前にとても大切にしていた器が割れてしまったんです。でも割れてしまったからといってそのまま捨てるという考えには全然ならなくて。むしろ自分で直したい。だったら金継ぎで直そうと。金継ぎという修繕手法があることは知っていたので、この機会にちゃんと学ぼうと決めました。それがきっかけです。
・・・小さい頃からの環境って、ほんと大切ですよねえ。
《参考》「金閣寺」昭和大修復/有限会社「矢口浩悦庵」代表取締役・矢口恵三
602-8025京都市上京区衣棚通り丸太町上今薬屋318/075-256-6021
http://www.koetsuan.com/kinkaku/index.html
歴史的美術文化の中心都市、京都においてその伝統美術を支えるべく、★表装技術「表具」を基に事業を興しました矢口浩悦庵(初代創業1937年「幽聲堂」)。「表具」と申しますと、古くは日本への仏教伝来とともに、隋唐の経典や仏教絵画の装飾として始められ、時代と共に移り変わるそれらを飾る「場所」であるところの建築様式に適応しながら、茶道などの興隆に伴い、やがては一般絵画墨蹟の装飾へと展開し、今日みるような和紙と織物で独特の美の世界を作り上げる見事な京表具に発展してまいりました。わたくしども矢口浩悦庵は、これまで多くの歴史的美術工芸品の修復を手掛けて参りました。1987年の秋には、京都★鹿苑寺「金閣」を燦然と輝く姿に再現することに成功いたしました。その後も、矢口浩悦庵工房におきましては、「紙料液による古書画等の修復方法並びにその装置」で特許を取得いたしております。この特許は、現在は公開特許となっておりますが、弊社が開発したものです。本社工房ともに平成9年伏見区より上京区に移転後も、引き続き修復業務を展開しながら、新たなる美術工芸品(仏画・屏風や書院襖絵)の制作に加え、復元裂や復元金具を使用した表具。そして文化財複製品製作、文化財IPMサポート業務まで、お客様のご要望に沿いながら新しい分野にも挑戦しております。
・・・金閣の修復には、表装技術・表具の匠「矢口浩悦庵」が深く関わっておられます。すごい。
●「黄金の茶室(復元)京都市伏見桃山城蔵」
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000158093.html
「黄金の茶室」は原型を豊臣秀吉が造ったとされ、★「伏見桃山キャッスルランド」が1994年に復元し、2003年1月末に同ランドが閉園したあと、譲渡を受けた京都市が天守閣の3階で保管してきたが、その活用を望む声を受け、公共的な用途や学術研究で使う場合に限り貸し出しの相談に乗ってきた。
●「MOA美術館」
http://www.moaart.or.jp/about_moa/facility/honkan2f/kincha/
天正14年(1586)正月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したものです。秀吉は、この黄金の茶室を、天正15年の北野茶会に用い、天正20年には朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣した折、大阪より運ばせ茶の湯を行ったことが知られ、大阪城落城とともに消滅したと考えられています。黄金の世とも呼ばれた絢爛豪華さと、閑寂な侘数寄という対照的な諸相を見せる桃山時代の美意識を再見ください。公家、武将、茶人、外国の宣教師などが記した文献史料に基づき、数奇屋建築の泰斗★堀口捨己博士の監修のもと復元されました。茶室は組み立て式で、各部材のサイズや、組み合わせの仕組などは史料の記述と構造上の条件から割り出しています。
・・・「金」は美しいのですが、どうも落ち着かないなあ。千利休の「美意識」(風景)をもう少し探っていきたいと思います。
《「もてなし」と「しつらい」》
「一座建立」という言葉がある。茶の湯における主人と客の一体感を表わす言葉だ。利休が究めた「わび茶」の精神とは、「一服のお茶のために亭主はさまざまな趣向、工夫を凝らして茶室をしつらえ、道具を組み合わせ心を尽くした点前でもてなす」ことであり、天心が西洋に知らしめた「茶」の根底に流れる「美学」とは、「亭主と客が一服の茶を介して★一期一会の心を通わせること」である。その精神性こそが利休の「わび茶」の心である。それは★「もてなし」と★「しつらい」の美学であり、他に何の贅沢も必要ないと、わび茶の精神は説く。
《「わび」と「さび」》
「わび」とは「侘びしい」という形容詞にちなむ言葉で、「絢爛豪華」とは正反対に「未完成な状態」、「粗末で質素、簡素な様子」をさす。「さび」とは、時間の経過とともに「物の本質が枯淡な味わいとなってにじみ出る美しさ」をいい、「錆びる」に通じる。いずれも本質を究める美的な嗜好で、世界でも稀な日本人の美意識の一つである。利休が辿り着いた「わび茶」の精神と美意識は、つつましい草庵の茶室の佇まいをはじめ、茶道具の一つひとつにまで宿っている。「利休好み」や利休自ら考案した「利休形」と呼ばれ、安土桃山時代から遥かな時を超えて、それを今に受け継いでいるのが「千家十職」と呼ばれる京都の職家である。
《見立て》
千利休は、独自のすぐれた美意識によって道具類の形を定めたり、本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て、茶の湯の世界に取り込む工夫をしました。この「見立て」という言葉は、「物を本来のあるべき姿ではなく、別の物として見る」という物の見方で、本来は漢詩や和歌の技法からきた★文芸の用語なのです。利休は、この文芸の精神であった「見立て」の心を大いに生かして、★日常の生活用品を茶道具に採り入れました。たとえば、水筒として使われていた瓢箪を花入として用いた逸話や船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れた逸話などは有名です。利休に留まらず当時の茶人たちが、喫茶用としての茶碗といえば唐物の茶碗が主流であったのに対して、朝鮮半島の★雑器であった高麗茶碗をわび茶の道具として採り入れた精神や、当時の南蛮貿易でもたらされた品々を茶道具に転用したのも、「見立て」の精神だといえるでしょう。このように、茶の湯に何かを採り入れて、新鮮で趣のある試みを加えようとするのが「見立て」の心でした。近代では、早く仏教美術などの品々が茶室に採り入れられたり、また世界各地の陶磁器やガラス製品、あるいは金属製品なども茶道具として「見立て」られています。茶の湯を楽しく実践し革新する上でも、この「見立て」の精神は、茶の湯の原点とでもいうべき心なのです。たとえば、旅先でその土地の伝統工芸品などを眺めつつ、これを蓋置や香合として見立てられないかなど考えながら歩くのも旅の楽しみであり、茶の湯の生活の楽しみでもあります。また、すぐれた美意識を伴った「見立て」の心が、各地の伝統工芸や伝統産業を活性化させる可能性もあるでしょう。
《竹花入》茶道入門HPより
http://verdure.tyanoyu.net/hanaire_take.html
天正18年(1590)千利休が秀吉の小田原攻に従った折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて作ったものを始めとするのが通説となっています。このとき利休が切ったのが、一重切「園城寺」「音曲」、逆竹寸切「尺八」、その他に二重切「夜長」も作ったとされ、「尺八」は秀吉に献上し、「音曲」は織部に送り、「園城寺」を少庵への土産にし、「よなが」は自ら使用したらしく『利休百会記』天正19年1月の会に「よなが」の名がみえます。おそらく、利休以前にも竹で作られた花入は存在したが、利休によって正式な花入として認知されたのということなのではないかとされます。
①竹一重切花入「園城寺」…高さ33.4cm、口径10.5cm/蔵:東京国立博物館
②竹二重切花入「よなが」…高さ45.4cm、口径10.3cm/蔵:藤田美術館
③竹尺八花入「尺八」…高さ26.2cm、口径10.3cm/蔵:裏千家今日庵
《石水博物館》
514-0821三重県津市垂水3032番地18/059-227-5677
http://www.sekisui-museum.or.jp/
★④『竹一重切花入/銘「音曲」伝千利休作』川喜田家歴代コレクション
附 此ノ筒韮山竹小田原帰陣ノ時千少庵ヘ土産也、筒ノ裏ニ園城寺少庵ト書付有リ、名判無シ、又此ノ同竹ニテ先ツ尺八ヲ剪、太閤ヘ献ス、其ノ次音曲、已上三本何レモ竹筒ノ名物ナリ、音曲ニ利休狂歌アリ其文今京ノ人所持ス(『茶話指月集』久須見疎安1701)
一重切園城寺・尺八と一緒に作られたのは音曲、という事になります。利休が小田原陣中に伊豆の韮山の竹を切って作ったと伝えられるもので、「尺八」は尺八形、一重切は上部に窓が一つある。銘「園城寺」の花筒は、一重切の実例で織部宛利休自筆武蔵鐙の文と共に、雲州松平家に伝わり、目下★東京国立博物館の所蔵に帰している。また、銘「音曲」の花筒も、一重切で、織部宛利休自筆文と共に、三重県★川喜田家に伝わっている。二重切は、上部に窓が二つあるもので、銘「夜長」というのが、大阪★藤田家に伝わった。(千利休居士名宝図録1973より)
・・・「音曲」は現代の美術書や茶道具集に収録された事が殆どなく、「茶話指月集」や「茶湯古事談」など江戸時代の書物に名前が出てくるくらいです。一度、観てみたい。