・・・志村けんさんについては、いつかどこかで書きたいと思っていましたが、次の記事を読ませていただいてアートに通じるというか、同じだなと深く納得させられました。
★「お前、ナメてんのか!」志村けんがファミレスで激怒した「忘れられないあの事件」愛弟子が初告白。初めて明かされる「師匠と弟子の2500日」/2020.4.11「文春オンライン」特集班より
3月29日に新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった志村けん(享年70)の弟子で、現在は故郷の鹿児島でタレントや、ご当地レポーターとして活躍する乾き亭げそ太郎氏(49)。「志村けんのバカ殿様」(フジテレビ系)ではメガネをかけた家来として出演。
送迎用に★ロールス・ロイスを所有しているが、志村自身は自動車の運転免許を持っていないため、専属の運転手を雇っている。ただし、『人気者でいこう!』の企画で教習所で1度だけ車の運転をしたことがある。競走馬の馬主としてアイーンベル等を所有している。
●仕事場から自宅まで送迎するのが日課だった。車中での志村はビートルズや吉幾三、吉田拓郎の曲を好んで聴いていたという。
●「田舎から出てきて急に高級車なんて初めてですし、左ハンドルも経験がありませんでしたので、もう怖くて仕方なかったですね。恐る恐る運転して、心配になって後部座席に乗る志村さんをバックミラーで見たら、信号待ちで車が止まる度に通行人にお辞儀をしているんです。そんなことが何日か続き、僕が『志村さんは凄いですね。信号待ちする度に通行人に頭を下げているので、びっくりしました』と話したら、『違うよ! お前がブレーキをいつも強く踏むから頭が前に倒れるんだよ』と、笑いながらツッコまれました」
●「現場で志村さんから目を離したときはよく叱られました。志村さんがタバコを吸いたいときに用意が遅れたり、汗をかいたときにタオルの準備ができていないと、『オレが今、何を思って、何を考えているか読めよ。芸人は目の前の1人の気持ちを分からなくて、テレビの向こう側にいる何百万、何千万人の視聴者の気持ちがわかるわけないだろう』と注意されました。
●志村さんがもっとも嫌うのが遅刻です。ある日、僕が一度だけ大幅に遅刻してしまったことがありました。収録終わりの深夜3時のファミレスで志村さんに『お前、ナメてんのか! オレは1日がマイナスからのスタートになるから遅刻は嫌なんだ。“すみません”のマイナスからのスタートになることを何で弟子のお前がやるんだ。調子に乗ってんのか』と、朝の7時まで説教を受け、本当に申し訳ないと思いました」
●「『弟子を辞めさせてください』とお話ししたときに志村さんに怒られたんです。『ダメだ。お前、この3年の間に何もやってないじゃないか。環境を変えたら自分ができると思っているかもしれないけど、やる人はどの環境にいても絶対にやるからな。俺もドリフターズに坊や(付き人)で付いていたときに、坊やの仕事をしながらメンバーやスタッフを笑わせていた。与えられた環境で何もしていないお前は他へ行っても何もできない』と言われました」
●「僕の出すネタは当然、会議では箸にも棒にも掛からないんですけど、ある時、家族コントが1本通ったんです。それから2本、3本と少しネタが通ると、志村さんから『メシ食いにいくか?』と声を掛けてもらって、『お前はやればできるんだから、芸人としてがんばれよ』と照れ屋の志村さんが初めて褒めてくれました。97年に、ディレクターさんが志村さんに『こいつがんばっているので、バカ殿の家来にも使ってみませんか』と助言してくれて、『バカ殿様』への出演が決まり、志村さんと念願の共演ができました。心の底からうれしかったですね」
●「志村さんがコントで大切にしていたのは、★リアリティでした。『コントの入りが“そんなこと現実にないよ”と最初に視聴者に思わせてしまうと、見ている人は入り込めない。最初は現実的な日常じゃないといけない。そこからどんどん進んでいって、★最後はもうリアルじゃなくても関係なくなるんだから』と。そしてコントで演じるときは、演技の★前段階をよく考えろと口酸っぱく言われました。例えば、志村さんが酔っぱらいの役をやるときに『オレはいつも演じる酔っぱらいが、うれしくて飲んでいるのか、悲しくて飲んでいるのか、怒って飲んでいるのかを考えてやっている。それによって演技やセリフも大きく変わってくる。演技の前の気持ちを作って、セリフを言わないとダメだ』と丁寧に教えていただきました」
・・・大学時代「鷹の台」に下宿してましたので、「東村山」はすぐ近くでした。さらにビートたけしさんの話、
《NEWS》2020.4.11スポニチニュースより
たけし、盟友”志村さん急死で「鬱になっちゃって、ノイローゼになっちゃって」
タレントのビートたけし(73)が11日、TBS「新・情報7daysニュースキャスター」に生出演し、3月29日に新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなったタレントの志村けんさん(享年70)の突然の死に「鬱になっちゃって、ノイローゼになっちゃって」と落ち込んだことを明かした。同番組は先週休みだったため、たけしが志村さんについて語るのは初めて。「やっぱりね、けんちゃんは苦労しているからね。荒井さんがやめるまで、ドリフの坊やだからね」と話し、かつてしのぎを削った志村さんら「ザ・ドリフターズ」が出演した「8時だよ!全員集合」と「オレたちひょうきん族」についても「ドリフは、ちゃんと作った計算されたお笑いなのね。お菓子でいえば★大納言というか、ちゃんとした小豆と砂糖の味なの。ひょうきん族は、テレビの裏で見せる★人工甘味料なの。どうしても人は新しいものに目が行くから、追い抜いたこともあるけど、結果的に両方ともダメになった」と語った。また、志村さんは「正当な東京のコントだった。関西のお笑いが入ってきたけど、その★防波堤だった。お笑いに対してはコント、芸人そのもの。俺は色々手を出したけど、この人はコント一筋の人で。なかなかできないですよ、こういう人は。時代が変化しても、この人はお笑いのコントを突き詰めていた」と称えた。「その代わりに俺にこぼしたけど、しゃべれないんだよ。フリートーク下手だと話していた」と続けたが「何も、これで逝かなくていいじゃんってことあるよね。いずれ人間は死ぬけど、なんでこの芸人が、なんでこんなところで…ってところがある。逆に考えれば、けんちゃんはいい所におさまったな。俺はもっと苦労するのかなって。いい所でいなくなったな、とは思う。幸せじゃん、と思うけど、こんなこと言ったらファンに怒られちゃうかな。俺とさんまは孤独死だよって言っている」と寂しそうに笑った。安住アナが「やっぱり突然すぎましたね」と語ると「ちょっとね、鬱になっちゃって。ノイローゼになっちゃって。だから、何も考えなくなったね。ああ、俺はこの後、どんな人生を歩むんだ、くらいまで考えたね。どうしようと」と明かした。だが「ちょっと冷静になってくると、やりたいと思ったことを一生懸命やるべきだと。余計なことを考えるのはよそうってなった」と自らに言い聞かせるように語った。
・・・大阪生まれ育ちの「お笑い」大好き人間として、さらに調べてみました。
《参考》関東と関西のお笑いの違い/2008.12.13テレビ番組なるほどプログより
■ 関東:関東人には関西人のような★「ノリ」がないので、脈絡に★「ひねり」がなければユーモアとして捉えようとしない傾向があります。そのため、言葉・話・展開・文脈などの脈絡に「構造上から発生する納得感と違和感」を持たせることで面白さにつなげて笑いを誘う、いわゆる「ひねり」が必要になります(※「他者への好意」によって単純なことでも笑うことはあります)。
■ 関西:関西圏(特に大阪)では「ノリ」から作り出したやり取りで笑いを誘うことを受け入れる傾向があります。関西人は多少の難があることでも受け入れようとする★人間性(人情味)が文化的に構築しているのだと思われます。脈絡のひねりが弱くても、「やり取り(ボケ)を楽しもう」という★感性が備わっているので、面白くなります。例えば、関西では「これいくら?」『百万円(実際には1000円)』「はいっ、百万円(1000円を渡す)」といったようなやり取りが行われることがあります。ちなみに、とある番組で関西人の「ノリ」を利用した実験をしていました。客が「いくら?」と聞き、店員が「百万円」と返答したときに本当に百万円を支払ったらどうなるのかという実験が行われました。そこで、実際に客が払ったら、店員が「!?(驚)」といった状態になっていました(笑)。
■ 結論:関西人が東京でウケ狙いの発言をしても、「ノリ」が存在しない東京(関西以外)ではスベりやすいと言えます。そのため、うまくひねりを入れたことを言う必要があります。そういった点から、コミュニケーションの取り方が東京と大阪ではまったく違ってきます。
■ ネタ番組:関東は「ネタ番組(※ジャンルを問わない)」がメインです。一方、関西は「漫才」がメインです。関西ではおしゃべり好きな人(観客・視聴者)が多いためか、「コンビで掛け合う漫才(※特に、口調を強める漫才や言い争うような漫才)」が好まれます。日常にある井戸端会議的なものや、店員とお客(おばちゃん)との掛け合いのようなやり取りをお笑いネタに求めているのが原因なのだろうと思われます。つまり★「日常の延長をネタ(漫才)」として見たいという文化圏なのだろうと思われます。一方、関東圏はそういった「日常の延長をベースとしたお笑いネタ」が必ずしも求めてられてはいないので、漫才以外のネタが浸透しているのだろうと思われます。つまり、「世界観を作り出すネタ」でも構わないので、「コント(+漫才以外のネタ)が主流」なのだろうと思われます。
■ 漫才:関東の漫才と関西の漫才ではフリ(ボケのきっかけ)に使う時間が違います。関東の漫才はフリが極端に短い傾向があり、またフリが短いだけにボケ倒すことができるので、笑いを誘う回数が多くなっています。こうしたネタの作り方の違いの背景には、関西漫才師が漫才ネタを作るときには、関西圏で好まれるコンビでの会話の掛け合い(フリの部分)をしっかり入れなければならないという固定観念があるためだろうと思われます。そのため、関西圏の漫才師には、「フリを極端に短くしよう」という発想が生まれなかったのだろうと思われます。やはり、関西では「コンビ間での掛け合いの★おしゃべりを楽しむことが漫才」ということなんでしょう。一方、関東圏の芸人さんは、おしゃべりをするような漫才にとらわれなかったので、ピン芸のあるあるネタのような短いフリで笑いをとるネタが流行っているところで活動していたり、オリジナリティーを追求するうえで何でもありな漫才を思いつくことができたのがフリを短くする発想につながったのだろうと思われます。
■ コンプレックスで笑いを誘う:(関西の漫才では、)自身または相方のコンプレックス(特に、身体的な特徴から生まれる★劣等感を持つ要素)を使って笑いを誘う光景が多く見られます。一般的にコンプレックスは、社会の平均基準からはずれ、自他ともに負の違和感が発生する心理です。普通は他人から嫌われたくないので、自身の評価を下げる恐れのあるコンプレックスを自ら話題にするようなことは絶対にありえず、公言しないようにするものです。しかし、関西では自身や相方のコンプレックスでさえも、★笑いを誘う武器に変えるというのが関西流の笑いの誘い方になっています。言葉ややり取りなどをひねって笑いを誘うには、★ボケ(言語・脈絡)への理解力(思考力・知識など)を必要とします。一方、顔立ち、頭髪、体型などを悪く言うことは「見た目(抽象化された心理的な印象)のボケ」なので老若男女問わず伝わりやすく、理解しやすいボケとして多く使われるのだろうと思われます。関西では劣等感・羞恥心よりも、★笑いを取るほうが自尊心よりも優先的なのかもしれません。一方、関西圏以外では笑いを取るよりも、劣等感・羞恥心のほうが優先的なのかもしれません。そこには、関西人は多少の難があることでも受け入れようとする★人間性(人情味)が文化的に構築していることから、コンプレックスでさえも武器にしようという芸人さんが多く生まれ、またそれを受け入れる★土壌(観客・視聴者)があるのが背景なのだろうと思います。
■ お笑いタレントの傾向:関西のバラエティ番組で見かけるお笑いタレントさんの大半は、「変な声」をしていることが多いです(※関西のお笑いタレントさん、ごめんなさい…)。関西の番組では鼻声、こもった声、舌足らず、滑舌が悪い、ハスキーな声、高い声などをしたタレントさんが頻繁にテレビに出ています。例えば、ハスキーな声(宇都宮まき)、高い系(さゆり、稲垣早希、酒井藍)。これは「変な声 = コミカルに感じる(※楽しい印象を与える)」ということからだと思われます。もしアニメの「クレヨンしんちゃん」の主人公・野原しんのすけが普通の声をしていたとしたら?もし、「ちびまる子ちゃん」のまる子が普通の声をしていたとしたら?面白さが声質に左右されるというのは、アニメ(特に、ギャグ系)を見れば一目瞭然です。また、ふくよか(顔・体が丸みを帯びている)な傾向もあります。やはり、これも見た目がコミカルに感じるということからだと思われます。例えば、上沼恵美子、ハイヒール・モモコ、友近、海原やすよ・ともこ、なるみ、酒井藍、未知やすえ、(※敬称略)。もし、ゆるキャラ(くまモン・ひこにゃん)が細身だとしたら?もし、ドラえもんやアンパンマンの顔が細身だとしたら?見た目の丸さがコミカル(愛嬌)を生み出すということは、国民的に愛されるキャラクターを見れば一目瞭然です。普通のことを普通に仲間内でワイワイと話していても、話し声や見た目がコミカルに感じると、観ているほう(観客・視聴者)としても楽しい感覚になりやすいといった作用を、番組制作側が利用しているのだろうと思われます。もちろん、男性タレントさんも声質や見た目を重視しています。例を挙げようかと思いましたが、大半のタレントさんになるので、省略します。ちなみに、非常に失礼な分析をすると、★関西のお笑いタレントはしゃべりは素人レベルでも、声質や見た目さえコミカルであれば、仲間内でハキハキ話せるだけで番組起用されています。
・・・なかなか的を得た分析だと思いますが、感想は「お笑い」にならんなあ、でした。せめてオチとして大好きな歌を掲載しておきましょう。
『大阪ストラット・パートII』
https://www.youtube.com/watch?v=rGtnAp8KZ_8
1995年5月21日に発売されたウルフルズ7枚目のシングル。大瀧詠一のアルバム『NIAGARA MOON』収録曲「福生ストラット Part2」のカバーである。
http://hvymetal.com/363271.html
固有名詞を大阪のものに差し替え、1人コント仕立てのラップ(歌詞に登場する「宮内」とは、ICEの宮内和之のこと)を挿入するなど、大胆なアレンジをしている。竹内鉄郎演出によるミュージック・ビデオはミナミで撮影され、ラップ部分はトータス松本が1人6役を演じ、ウルフルケイスケは大阪城天守をバックにギター・ソロを披露している。後に未発表音源として、一部歌詞違いの「大阪ストラット(パート1)」を収録した「バンザイ 〜10th Anniversary Edition〜」を発表している。
https://s.awa.fm/track/366de21dc0ca2e131547/
梅田行きのキップ買って
紀ノ国屋で待っちきって
梅田行きのキップ買って
三番街から茶屋町 (あ、ええ感じですよね そやねー)
梅田行きのキップ買って (アベックだらけ)
カンテGでやっぱチャイとケーキ (アベックだらけ)
梅田行きのキップ買って (アベックだらけ)
やっぱキタはそんなこんなで (ええなぁー)、
OSAKA STRUT Just keep on
OSAKA STRUT
・ ・ ・
どやった? んーちょっとなー、えっ、ちょっとてなんやねん
あんまし、かわいない、いや かわいーかなー
どっちか言うたらかわいーかな
どっちやねんな、おまえは!!
ナニはなくともナニワはサイコー
★他に比べりゃ外国同然
OSAKA STRUT Just keep on
OSAKA STRUT
《STRUT》
横行闊歩。伸し歩く。ようするに「気取って歩く」というのがわかりやすいかな?
《NEWS》2014.3.21音楽ナタリーより
大瀧詠一お別れ会、はっぴいえんど3人が弔辞「またね」
2013年12月30日に永眠した大瀧詠一を偲ぶ関係者向けのお別れ会が、本日3月21日に東京・SME乃木坂ビルにて行われた。本日は、大瀧のラストワークとなるアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日であり、1981年に名作「A LONG VACATION」がリリースされた日。その後のカタログもほぼ同日の発売だったように、大瀧が強いこだわりを持っていた日だった。また会場となったSME乃木坂ビルは、地下にレコーディングスタジオがあり、大瀧は晩年ここでほぼすべての仕事を行っていた。仕事場として思い入れのある、彼にとって東京の自宅と言っても過言ではない場所ということでお別れ会の開催地に選ばれた。会場には、菊、蘭、ユリの花などで彩られた祭壇の上に大瀧の遺影が飾られていた。遺影は1982年(当時34歳)のTBSラジオ「ゴー!ゴー!ナイアガラ」収録時の写真が、遺族の意向によって選定された。会の初めには黙とうが捧げられ、主催者代表としてソニー・ミュージックレコーズ代表取締役の村松俊亮、フジパシフィック音楽出版会長の朝妻一郎が挨拶を行った。その後、思い出の映像を上映。この中には、1977年6月20日に東京・渋谷公会堂で開催されたライブ「ザ・ファースト・ナイアガラ・ツアー」より★「福生ストラット Part2」のパフォーマンス、1976年2月頃に福生45スタジオで撮影されたセッションなど、一般公開されていない貴重なアーカイブが多く含まれていた。出席者を代表して弔辞を読んだのは、はっぴいえんどのメンバーとして共に活動した松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人。まず松本が「はっぴいえんどが、3人になっちゃいました」という言葉から静かに話を始めた。彼は大瀧との出会いや、初めて自分の詞と大瀧の曲が合体し「春よ来い」と「12月の雨の日」ができた日のことを回想。「時代をかける12月の旅人よ、僕らが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だ。なぜ謎のように『12月』という単語が忍ばれていたか、やっとわかったよ。苦く、美しい青春をありがとう」と、芸術的な作詞センスを持つ松本ならではの言葉で締める。ギター&ボーカル担当だった鈴木は、「ゆでめん」(1stアルバム「はっぴいえんど」の通称)のレコーディングを終えて朝日を浴びながらメンバーみんなで一言ふた言交わし別れたこと、アメリカに出かけてエレベーターに閉じ込められた大瀧を全員で助けたことを、柔らかく笑いながら話す。「僕がその中で一番楽しみにしていたのは、ライブ会場の楽屋で毎回新しいアレンジを考えてくる大瀧さんでした。『茂、こういうふうにギターを弾いてくれ』って言われるのがとても楽しみで、それは僕にとってとてもうれしい時間でありました。大瀧さんの魂、思いは、おそらく誰かに、あるいはどこかで受け継がれていくと思います。素晴らしい大瀧さんに会えたことを本当に感謝しています。どうもありがとう」と口にした。最後は細野。彼は「とにかく、突然逝かれてショックでした。いなくなって初めて、自分の中に大瀧詠一という存在がずっといたんだなと思いました。なぜかと言えば、アルバムを作るたびに『彼はこれをどう聴くんだろう』と、いつもそのことを考えていて。それはいまだに謎なんですけど」と積年の思いを打ち明ける。大瀧の存在については「とても共通したところもあるし、とても違うところもある、バンドの仲間の大事な存在だなと今では痛感します。老後はのんびり細々と音楽の話をもっとできてもよかったんじゃないかなと。僕にとってそういう仲間はもう本当に残り少ない……ですね」と話した。また、細野は去年の秋、はっぴいえんどの再結成を思案していたという。「前の再結成(1985年に国立競技場で行った再結成ライブ)、あのときはぎくしゃくしてましたけど、今ならじっくりはっぴいえんどをもう一度できるんじゃないかなと思ってた矢先でした。一緒にまたやりましょう。またね」と天国の盟友へ言葉を送った。会の締めくくりには、遺族を代表して妻の静子さんが挨拶を行い、大瀧の最期の様子を語った。亡くなる2週間前に体調を崩したという大瀧。足腰が弱り★「俺、脳が疲れたよ」と言っていたため妻が病院に行くことを勧めたが、3月に仕事のひとつが終わるまで病院に行くのがもったいないと言って、その後症状は快復を見せていた。亡くなる当日の12月30日は、17時頃にスタジオから自宅に戻り、妻と日常会話をしていた。東日本大震災のことが気になっていた大瀧は、新聞を読みながら「少しずつだけど復興してるんだな」と喜んでいたという。静子さんは「夕食前だからリンゴでも食べるかなと思い皮を剥いていたとき、突然★『ママ、ありがとう!』と大きな声で言われました。そんなことを突然言われましたので、びっくりして主人のほうを見ますと、イスにもたれかかり、ぐったりしていました」と当時の様子を克明に語ってくれた。その後救急車に乗せて病院へ行っても、大瀧が息を吹き返すことはなかった。静子さんは続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は★大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。
■参列者囲み取材
お別れ会に参列した関係者は約250人。主な著名人として、甲斐よしひろ、佐野元春、サンボマスター、佐野史郎、松たか子、清水ミチコ、ウルフルズのトータス松本、ジョンB、サンコンJr.の3人、あがた森魚、泉麻人、糸井重里、杉真理、伊藤銀次、サエキけんぞう、高田文夫らの姿があった。
このうち、ナイアガラ・トライアングルのメンバーだった杉真理はマスコミ陣の取材に対し、「いろんな困難にぶつかっていっても必ず大瀧さんはユーモアで乗り切っていたような気がします。一番、大瀧さんから教わったのが★『好きなことをやるのが最終的には残っていく』っていうことですね」とコメント。大瀧にかけたい言葉は?と聞かれると「僕を仲間に入れてくれて本当にありがとうございます。光栄です」と話してくれた。佐野史郎は15歳ではっぴいえんどの楽曲を初めて聴き、以降熱心なファンに。この十数年間は年1回以上必ず会う仲だったという。彼は「音楽として一緒に演奏したということはなかったんですけれども、森羅万象型で、特に日本映画についてはとても精通してらっしゃいましたから、ときに厳しく叱咤激励していただくこともありました。そういう意味ではやはり師にあたる方だと思います」と、涙をこらえながらも笑顔で思い出を語った。甲斐よしひろは、大瀧と公での関わりはなかったが、4、5年に一度スタジオで出くわしては長々と世間話で盛り上がっていたという仲。「大瀧さんは『好きなことはなんでもやっていいんだ』っていうことを僕らにずっと言い続けていた人だと思うんですね。お花をあげながらそんな声が聞こえて、相変わらずだなあ大瀧さんは、と思って」と話し、故人と交わした会話の数々を思い出していた。葬式にも参列したという清水ミチコは、大瀧の存在について★「音楽的な偉大な先輩。お笑いもすごく詳しかったので、昔のお笑いについてもたくさん教えてもらいました」とコメント。「大瀧さんは人を驚かすことが好きな方で、いきなり私に写真をくれたんですけど、それが私の実家の飛騨高山に今いるよっていう写真で……」とユーモラスなエピソードも披露してくれた。なお、大瀧は清水がレギュラー出演しているラジオ番組「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」のファンで、清水のライブにも足を運んでいた。
■思い出の品展示
この日、会場の地下にある「幸せな結末」や「恋するふたり」が録音されたスタジオには大瀧のゆかりの品を展示。ここには、本人所有のジュークボックス、使用したギター、「ゴー!ゴー!ナイアガラ」収録時に使用されたターンテーブル、直筆の譜面、これまで受賞した音楽賞の盾、歴代の販促ポスターなどが飾られていた。また本人の仕事部屋を再現したブースも用意され、愛用のマイク、ミキサー、天眼鏡などを関係者も興味深く鑑賞していた。なお参列者には、会葬御礼品として式典限定ボックス仕様のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」が配られた。
・・・ウルフルズ「大阪ストラット」から大瀧詠一さん「福生ストラット」へ。大学時代の友人が「横田基地」近くの「米軍ハウス」に住んでいたので、懐かしいです。何度も何度も同じこと書きますが、大好きな人やことがつながっていく。そして、自分の思い出とも重なって、嬉しくなります。