ころな・こまる・こもる(19) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・原久路さんの写真で思い出したことが、

 

【石黒正数】(1977~)

https://twitter.com/masakazuishi?ref_src=twsrc%5Etfw

日本の男性漫画家。福井県福井市出身。福井高等学校デザイン科 、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科卒業。在学中に所属していたサークルに佐藤利幸や吉田仁郎などがいる。また、イラストレーターの中村佑介も同級生であり、互いに意識しあって活動していて、現在でも親交がある。

https://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/departments/design/interview/ishiguro.html

2000年に「ヒーロー」でアフタヌーン四季賞秋の四季賞を受賞し、デビュー。現在『ヤングキングアワーズ』にて『それでも町は廻っている』、『週刊少年チャンピオン』にて『木曜日のフルット』を連載中。影響を受けた漫画家として、藤子不二雄、大友克洋、小原愼司を挙げている。初めて読んだ漫画が藤子の『ドラえもん』であり、中学生の頃まで藤子の漫画ばかり読んでいたと語る。特に藤子・F・不二雄に受けた影響は大きく、自身の作風は藤子の作風である「S・F(すこし・ふしぎ)」を更にリスペクトしたものであるとしてい[。その後、絵に関して大友の影響を受けたのち、小原の日常をベースにした作品に影響を受けた。『月刊アフタヌーン』に持ち込みをしたのも小原の『菫画報』の掲載誌だったためで、現在では本人とも親交がある。小原には直接「俺の『菫画報』を描かせてくれ!」と頼んだと言う 。

 

 

★「ちゃりん娘」

http://www.unit-of-land.com/t-item/ct155.html

インディーズTシャツブランドのunit of landから、★東日本大震災チャリティ企画として石黒正数デザインのTシャツがリリースされた。注文受付中で発送時期は2011年9月26日以降の予定だ。「ちゃりん娘」と題されたTシャツには「震災以前の様に笑顔で自転車に乗れる日々が戻ってくるように!」という思いが込められており、自転車にまたがる★セーラー服の少女がデザインされている。ボディカラーはホワイトとベビーピンクの2種類を用意。価格は3000円で、売り上げの半分1500円が義援金として寄付される。

 

・・・こういうチャリティは大歓迎。セーラー服で自転車にまたがる女学生、「風」が気になります。

 

《参考》学校制服としてのセーラー服の歴史/トンボ学生服より

https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/pocket/03.html

日本においてセーラー服といえば、女生徒の学校制服を意味するほど、セーラー服は学校生活に溶け込み、日本の風景になじんでおり、今なお中学校では半数以上、高校でも2割強で採用されているロングライフアイテムです。セーラー服をこのように多数が着用し愛用している国は世界を見渡しても日本以外に見当たりません。セーラー服は、1857年にイギリス海軍でデザインされ、各国海軍もこれに習って導入しました。その後、海軍幼年学校の制服に採用されたことが契機となって、19世紀後半には子供服としてポピュラーになり、男の子は水兵と同じようにズボン、女の子はスカート姿が定着しました。ちなみに日本海軍は、1872年に水兵の制服として採用しています。その独特で、かわいいスタイルを、ヨーロッパ各国の学校が、制服にしたのは無理からぬことで、19世紀末から第2次世界大戦頃まで、多くの学校で女生徒はセーラー服を着ていました。ただ、20世紀前後に採用された初期のスタイルは、上着やリボンは現在のものとほとんど変わっていませんが、スカートは当時の婦人服と同じように、細く長く、くるぶしあたりまであったのでプロポーションの点で大きく異なっていました。そして、20世紀に入りセーラー服は、ヨーロッパで、婦人服のニューアイテムとして登場します。当時のヨーロッパは、女性が身体的に活発になる時期で、★自転車が発明され、ビーチ遊びやテニス、クリケットなどのスポーツが先進的な女性に広まった時期でした。そんな精神的にも身体的にも高揚した時期に、スポーティで、しかも★海のイメージがある独特のデザインはぴったり当てはまり、とても流行したようです。日本に初めて学校制服としてセーラー服が導入されたのは諸説ありますが、1920年(大正9年)に京都の(現)平安女学院が採用したのが最初 (それまでは「着物にちょうちん袴スタイル」だったものが「濃色のワンピースにセーラー衿がついたスタイル」となりました)で、ついで1921年に金城学院(愛知)、福岡女学院(福岡)、フェリス女学院(東京)などが相次いで採用しています。

 

 

・・・さて今、入学式や始業式すら迎えられない学生さんたちのことを思うと、寂しい限りです。

 

《参考》「ウィーン少年合唱団」

https://www.japanarts.co.jp/wsk/

ウィーン少年合唱団の創立は1498年。巨匠・トスカニーニが彼らのコーラスを評して≪天使の歌声≫と命名したことでも有名。数ある少年(少女)合唱団の中、世界でもっとも有名なウィーン少年合唱団は、500年以上の伝統を誇っています。その特別な技術教育やコーラスの響きを受け継いで、2017年にはオーストリアのユネスコ無形文化遺産に登録されました。約100名のメンバーは、10歳から14歳の変声期を迎えるまでの僅かな期間、ウィーンに建つ白亜のアウガルテン宮殿で、国籍、言語、文化を超え、共同生活を送ります。彼らはシューベルト、ハイドン、モーツァルト、ブルックナーという、合唱団にゆかりのある音楽家の名を冠した4つのグループに分かれて活動しています。本拠地ウィーンでは宮廷楽団の一員として、ミサでの演奏、ウィーン・フィルやウィーン国立歌劇場との共演を行うほかに、世界では年間約300公演を行い、50万人もの聴衆を魅了し続けています。海外公演など長期の遠征は、グループごと年に一度。同じグループの訪日は4年に一度となり、同じメンバーが二度、集まることはありません。日本公演ではつねに新しい顔ぶれ、新しいコーラスとの出会いがあります。初来日は1955年。日本とのつながりは長く、東日本大震災に際しては、ウィーン史上初の全4グループ合同演奏によるチャリティ公演など、被災地支援を行っています。偉大な指揮者、トスカニーニをして《天使の歌声》と言わしめた、ウィーン少年合唱団。小さなプロフェッショナルである彼らの公演は、クラシックのみならず映画音楽、ポップス、日本の歌に加え、ダンスや楽器の演奏でも大いに観客を楽しませてくれます。2019年、日本とオーストリアは国交150年を迎えました。そしてウィーン少年合唱団の初来日から65年を迎える2020年は、シューベルト組(カペルマイスター:オリヴァー・シュテッヒ)が来日します。

 

 

https://www.wsk.at/en

★Coronavirus - Current Cancellations

We regret that we have had to cancel our planned journeys to the Netherlands, to Belgium, and to Denmark.Due to the Coronavirus outbreak, the Austrian Government has announced major restrictions of public life until 13 April. Restrictions apply to universities and schools, to public events, and obviously to travel. We are sorry for the cancellations, and sincerely hope to be able to hold the concerts at a later date.

コロナウイルス-現在のキャンセル

オランダ、ベルギー、デンマークへの計画された旅をキャンセルしなければならなかったことを後悔しています。コロナウイルスの発生により、オーストリア政府は4月13日まで公衆の生活に大きな制限を設けることを発表しました。 大学や学校、一般行事、旅行には制限があります。キャンセルとさせていただきますので、後日コンサートを開催できることを心よりお待ちしております。

 

 

《おまけ》2020.4.5スポニチより

桑田佳祐、志村けんさんに感謝/デビュー曲「勝手にシンドバッド!」は「パクリのパクリ」

「サザンオールスターズ」の桑田佳祐(64)が4日、パーソナリティーを務めるTOKYO FMの「桑田佳祐のやさしい夜遊び」(土曜後11・00)に出演し、3月29日に新型コロナウイルス感染による肺炎ため70歳で死去したタレント・志村けんさんを追悼した。リスナーから志村さんとの思い出はあるか、と聞かれた桑田は「ありますか、クソもない」と話しだし、「サザンのデビュー曲は『勝手にシンドバッド』っていうんですが、デビューしてからしばらく黙っていたんですけど、沢田研二さんの★『勝手にしやがれ』とピンクレディーさんの★『渚のシンドバッド』をくっつけたんですが、これタイトルはいかにも僕のオリジナルみたいんなんですけど、実はこれ志村けんさんなんですよ」と明かした。さらに志村さんが所属したザ・ドリフターズが出演していた「『8時だョ!全員集合』の中で★『勝手にシンドバッド!』って言っているのを何気なく見ていて、ああ面白いなと思って。曲ができた時に、志村けんさんが言っていたあれにしちゃおうと、しらばっくれてデビューしちゃおうと言うことでデビューしちゃったんですよ」と続けた。そういう縁もあり「よく、ドリフの皆さんにもかわいがっていただいた、といいますか、『8時だョ!全員集合』にも出させていただいて…。

https://www.asagei.com/146959

「実はサザンはデビューした78年に★『少年少女合唱団(聖歌隊)』に出演し、『勝手にシンドバッド』をワンフレーズだけ披露しているんです。そこに志村さんが『ちょっとちょっと!』と割り込んできて、『今の「勝手にシンドバッド」っての、オレが最初にやったんだよ』と猛アピール。いかりや長介さんが『原作はお前か。じゃあ、こっちは盗作か!』と桑田にツッコミを入れ、志村さんが元ネタを披露するというシーンがあったんです」

 

・・・ようやくここで「少年少女合唱団」つながりになりました、ははは。

 

 

残念ながら、憎いコロナなんですけども、とにかく『勝手にシンドバッド!』のタイトルのおおもとは、志村けんさんなんです。★パクリのパクリ。つつしんで心より、志村けんさんのご冥福をお祈りいたします」と語り、1978年のデビュー曲「勝手にシンドバッド」をかけ、志村さんをしのんだ。さらに曲の終わりに「志村けんさん、ありがとうございました。一言で天才って言ってしまうときっと違うと思うんですけど、あまりにも偉大で…我々の青春でした。ポップアイコンでした。愛され続けた志村けんさんでございました。志村けんさんがいなければ我々も表舞台に出てきていないと思います」と語り、その語も「志村けんさんのことを思い出すと、心がぽっと温かくなるような。本当のあの方のおかげで、ここまで来れました」と感謝していた。

《参考》日本レコード大賞 炎の四番勝負!「1978年~沢田研二VSピンクレディー~」

https://www.asagei.com/excerpt/18300

ただ歌うだけではない。どんな衣装で、どんな振付けで、どんな世界観を見せるのか──。日本の音楽史上、その命題に最も真剣に取り組んだのが1978年の「ジュリー」と「ピンク」だろう。史上初の2連覇を狙う沢田研二か? 怪物的な売上げを誇るピンク・レディーか? 戦いは真っ赤な炎として燃えさかった。視聴率50.8%──日本レコード大賞の歴代最高は、77年12月31日に記録された。受賞曲は沢田研二の「勝手にしやがれ」で、華麗なステージングは語り草となっている。「サビの『♪アア アアアアアア アア』に合わせて会場中が手を広げる。まるで稲穂が揺れているみたいで壮観でしたね」森本精人は沢田がソロに転向した71年から83年までチーフマネジャーを務めた。グループサウンズ全盛期に「ザ・タイガース」のボーカルとして頂点を極めた沢田はソロ転身後、日々、自分に言い聞かせていた。「俺は1人でもタイガースを越えてみせる!」順調にヒットを重ねた沢田は、72年に「許されない愛」でレコード大賞の歌唱賞に、そして73年には「危険なふたり」で日本歌謡大賞の栄冠に輝く。森本は、ようやく沢田がソロとしてタイガースを乗り越えたと思った。ただし、同じ年のレコ大では「大衆賞」に回り、大賞への挑戦権である「歌唱賞」からは漏れている。また75年には「時の過ぎゆくままに」が90万枚を売り、賞レースの本命に躍り出たのだが──、「パリでレコーディングをしていたら、渡辺晋社長から『すぐに帰って来い』との指令。社長は『歌謡大賞を獲らせるから』って確約してくれたんですよ」だが、実際には1票差で布施明の「シクラメンのかほり」に凱歌が上がる。布施も沢田と同じ渡辺プロに所属しており、いかに強大な“帝国”であったか、また内部調整が困難であったかを物語る一件となった。翌76年の沢田は、新幹線で「いもジュリー」と吐き捨てた見知らぬ男に殴りかかり、一時的に謹慎を強いられる。NHKなどが沢田の出演を見合わせるが、レコ大中継を立ち上げたTBSの砂田実チーフプロデューサー(当時)は、敢然とコメントした。「今のところ出演を拒否するつもりもない」あれから37年が経つが、あらためて砂田に沢田という存在を聞いてみた。「僕は演歌よりポップス派だけど、中でも沢田研二という人は画面から美しさが伝わる本物のスター。僕はTBSを辞めた後にナベプロに籍を置いたこともあったけど、驚いたのは彼が渋谷公会堂でのコンサートを終えた直後。近くのホテルの部屋に入ったら、すぐに電卓を取り出したんだ」それは自身の仕事に対する厳しいチェックを意味しており、スタッフにも、時には観客にも容赦しない。そして巻き返しを図る77年、あの傑作「勝手にしやがれ」が誕生する。森本はイントロを聴いた瞬間に「大ヒット間違いなし!」と確信し、そのままレコード大賞まで駆け抜けた。壇上にはGS時代からのライバル・萩原健一が祝福に訪れ、中継に花を添えた。森本は終演後に「おめでとう」と告げると、沢田は声を荒らげる。「バカヤロー! 喜んでないでお前は次の年のことを考えろ。てっぺん獲った翌年がダメってジンクスにはなりたくないんだよ」誰もやったことのない「連覇」を狙う。やがて沢田は、常に「1等賞」というフレーズを公言するようになった──。

 

《ステレオ太陽族》

サザンオールスターズの4枚目のオリジナル・アルバムであり、本作の9曲目に収録されている楽曲名でもある。映画「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」挿入歌。

https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/movie/40/

渥美清さんが生きていれば、きっとアーティストとして、あなたと意気投合できたんじゃないか。だから何とか、映画のなかであなたの歌を使わせてもらえないか。

https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/tora

1981年7月21日発売。発売元はInvitation。タイトルは、石原慎太郎原作の映画『太陽の季節』に登場し、1960年前後のサーファーなどの若者を指した太陽族から来ている。編曲やサポートメンバーとして八木正生が全面サポートしており、シングル曲以外は全体的にジャズ色の強い作品である。桑田佳祐も「ようやく満足できるスタジオ・アルバムが出来た」と語っている。

 

・・・ここで「セーラー服」もつながりました、ははは。このように大好きな人やことがつながっていくと、うれしくて元気になりますね。「つながり」という「パクリ」は、実はとても大切なことだと思うのです。