・・・御所への訪問で、久しぶりに「大和郡山市」にも行ってみようと思いました。
《参考》「大和郡山市観光協会」
639-1132奈良県大和郡山市高田町92-16(市民交流館)/0743-52-2010
・・・なんてったって「金魚」ですが、残念なニュースもありました。
《金魚電話ボックス》
2014年ごろに市内の柳町商店街に設置され、人気の観光スポットになった。「金魚の町」をうたう市の観光パンフレットにも載せられ、インスタ映えすることで話題になっていた。もともとは、★京都造形芸術大の学生グループが11年ごろに制作した作品で、それが地域振興に再利用され、電話ボックスは商店街などが管理に当たっていた。ところが、この電話ボックスについては、福島県いわき市内の現代美術作家★山本伸樹さん(62)が当初から著作権侵害を訴えていた。山本さんが1998年に制作した作品に酷似しているという。商店街では、山本さんと話し合った結果、17年8月に商店街と山本さんとのコラボ作品だとする貼り紙を出したが、山本さんは、自腹を切って自分の作品と同じ色の電話機に付け替えることも求めた。これに対し、商店街では18年3月28日、著作権侵害と認識していないとしながらも、トラブルの経緯や現状を考えて電話ボックスを★撤去することを決めたと山本さんに回答した。
・・・うれしいニュースとしては、
《郡山城》
城跡は1881年(明治14)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年(昭和58)に追手門が、翌1984年(昭和59)追手東隅櫓が、1987年(昭和62)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。
天守は★逆さ地蔵の祟りや大和大地震で倒壊したという俗説が残っている。『郡山城と城下町』によると「現存している伝天守台に5層6階の天守は建築学上から考えて建てられること不可能」としている。しかし平成25年から平成29年にかけて調査・整備事業が行われ、豊臣秀長時代あるいは増田長盛時代には天守が確実に存在し、後に二条城更に淀城へ移築された話も事実と確定された。★平成29年3月26日から展望台施設が公開された。
《逆さ地蔵》
天守台の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。これらの地蔵のために、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。また地蔵以外にも由来の変わった石は多く、市内東部の平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものなどもある。
毘沙門曲輪は現在の★柳沢文庫がある一帯で、もともとは「本丸ニの郭」と呼称されていたが、柳沢氏入部以降に「毘沙門曲輪」と改名した。本丸と繋がっていた★極楽橋の復元が計画されている。
・・・以前に訪問した時は調査・整備事業中で、完成した展望台(天守台)にはまだ行けてなかったし、やはり「逆さ地蔵」が観たい。
・・・むむ、この下に見える立て看板は何やら怪しい。
・・・ちょっとわかりずらいですが、まさしく「お地蔵さん」です。すご~い。