・・・「葛城アート」も終えホッとしたところですが、しめくくりに?「二上山」に登ってきました。出迎えてくれたのは、またまた「ニワトリ」でした。
《古代池》
●二上山「古代池」周辺観察会
http://blog.livedoor.jp/amehurudaichi/archives/38358543.html
雨ふる大地の水辺保全ネットワークでは、大阪府南河内を流れる石川の流域で絶滅が危惧されている★カワバタモロコの保全や、子どもが、楽しく自然で遊んで生きものと触れ合う場所や時をつくっています。
https://9351669103.amebaownd.com/
《参考》
●生駒市で、絶滅危惧種カワバタモロコが発見されました/2016.12.7
https://www.city.ikoma.lg.jp/0000003782.html
●太子町立中学校「社会科学部」
https://4189cb4d75d09d893fe10b2a.amebaownd.com/posts/6725177/
社会科学部では、色々な班に分かれて活動しています。また、社会科学部全体では地域の人々とのかかわり合いを大切にしています。太井川や二上山で観察会をおこなったり、太子町に生息する昆虫も調べています。モニタリング班では個体数が減りつつ有るホタルと水生生物の研究をおこなっています。カワバタモロコ班はカワバタモロコとモツゴの種間競争があるのかを観察し、論文にまとめるべく頑張っています。
https://88399c460cf2dc7e4ae4fca2.amebaownd.com/posts/6278264/
カワバタモロコという魚を聞いたことがありますか?カワバタモロコは、体長約3cmで、5~6月ごろには婚姻色という金色の線がオスの体に出てきます。飼育するのも簡単で、夏場の暑さにも死ぬことなく飼育できます。しかし、絶滅危惧種に指定されていて、南河内地区でも1ヵ所でしか生息が確認されていません。そこで、カワバタモロコを絶滅から救うために、カワバタモロコの生態や生息地であるため池の環境などを調査し、研究をしています。今までに、カワバタモロコはナワバリを持たず、産卵した卵を自ら食べてしまうということなど、たくさんのことがわかりました。これからも研究を続けていき、カワバタモロコを絶滅から救う方法を明らかにしていきたいと思います。
http://5actions.jp/show/taishicho/
http://kir050674.kir.jp/taishi-tyannneru.html
・・・がんばれ中学生、みんなで応援しましょう。
●万葉「朝がゆ」会
「粥(かゆ)」の起源について、光明皇后が病気やひもじさに苦しむ人々のために悲田院や施薬院を建て、そこで施されたのがはじまりという。「万葉朝がゆ会」 は、毎月第一日曜日に、朝6時30分から雌岳山頂に登り下山の頃に、この古代池付近でおいしい炊きたての茶がゆが振る舞われる。入会金は年千円。
★書家・榊莫山さんの「花アルトキハ花ニ酔イ 風アルトキハ風ニ酔ウ」の石碑。莫山先生は大の二上山びいきで、こよなく二上山を愛し、来山記念として揮毫したのがこの句と、馬の背近くにある「トロイデ火山ハ静マリテ 女岳雄岳ヲ拝ム里 尼上嶽ト誰カ言ウ」の二句です。
【榊莫山】(1926~2010)
1926年生まれ、2010年10月3日没。本名は榊齊。敗戦後復員し、教員のかたわら選科生として京都大学文学部に入学し、井島勉のもとで美学を学ぶ。1946年より書を辻本史邑に、篆刻を梅舒適に師事。日本書芸院展、奎星会展で度重なる最高賞を受け、20代から審査員としても活躍。順風満帆と思われたその矢先、突然の不幸が榊を襲います。それは、2歳の長男寧(やすし)の突然の死。以後、定期的に開いていた個展には夭逝したわが子の菩提を弔うために★『般若心経』を出品するようになり、それがまた新たな書の世界を広げることにもつながります。そして昭和32年、長く師事してきた辻本史邑が亡くなったことを機に、公募団体から離れることを決意。1958年に書壇を退き、独自の創作活動へ。昭和36年には奎星会の同人も辞退し、まったくフリーの立場で書に臨むようになるのです。自由の身となった榊は、やがて師を★『野の書』に求めるようになります。奈良や京都、伊賀を歩き、道標や文学碑、寺院の扁額、店の看板などから面白い書を見つけては写真を撮り、生きた書を学んだのです。さらに、書の歴史をひもとくことにも時間を費やすようになり、王羲之や空海をはじめ、白隠、仙厓、良寛といった禅の書に傾倒しました。同時に出版やテレビ出演をこなすなど、高度経済成長という時代のエネルギーに後押しされるように、創作活動のフィールドを広げます。間もなく、東京と大阪で個展を開くことが恒例となり、榊はアバンギャルドな書家としての認知を得ていき、野の書が『日本美術工芸』誌で連載されるようになったことで、★アート界でもその名が知られるようになっていきました。40代からの『土』『女』シリーズや、50代からの『詩書画三絶』で独自の世界を展開。宝酒造『よかいち』のテレビCM出演から莫山先生の愛称で親しまれ、テレビ番組にも多数出演。関西地方の長寿番組『真珠の小箱』の題字を記憶している人も多いだろう。晩年までほぼ毎年個展を行い、『野の書』『禅の書』『文房四宝』『莫山書話』などのエッセイ集や関連書は100冊にもおよぶ。
※「田中家」
545-0052大阪市阿倍野区阿倍野筋3丁目10番1-100/0120-110-548
http://e-tanakaya.co.jp/about/performance.html
田中家と莫山先生とは、先生が40代の頃からご縁をいただき、何度かお仕事もさせていただいておりました。お仕事の中には、3~4㎝の河原の石に「土」や「女」の一文字彫刻をするなど、中々大変なケースもありました。また奈良の★二上山の山頂に詩碑を建立したり、「花アルトキハ花ニ酔ヒ・・」の詩碑等、気の張る仕事もありましたが、どれを取っても楽しく思い出深いものでした。先生は書家というより、詩や絵、もとより著作も多く、いわゆる中国の文人に近いほうかも知れません。20代の終わり頃には、もう書家として昇りつめられ、審査員にもなられましたが、その世界からも出て、ひとりの道を選ばれました。先生のご自宅に「人皆直行我独横行」と書かれた蟹の代々伝わる襖絵があります。「人のまねはするな」といった祖父の言葉は、わたしの胸にぐさりとささっていた。わたしは、三十二歳で書の団体からぬけだしてほんとの独り歩きをつづけてきた。それは、道しるべのない山道を、木をかきわけて歩いているようだ。もうかれこれ五十年。さいわい女房が、わたしの尻をうまくたたいてくれるので、しあわせである。「もう少し、ひととのつきあいをしなさい」と言うけれど、戸襖の二枚の絵からはなれられないわたし。宴席にはべらず、誰とも会わず。ますます一人暮らしが、楽しくなっている。いま、八十一歳。曾孫が四人。これ以上のことはない。絵をかいたり、書や文をかいたりしている。〈ヒト皆直行、我レ独リ横行〉をつぶやきながら、ありがたいことである。これからも、私たち田中家は莫山先生の様にとはいかないかもしれませんが、日々の仕事をきっちりとこなし、お客様との繋がりを大切にサービスの充実に努めてまいります。
・・・莫山さんの生き方そのものがアート、学ばなければと思います。初心に戻って、さらに登ります。
《石切場跡》
ここから産した石材は、二上山凝灰岩です。古墳時代終末期に奈良県明日香村★高松塚古墳、マルコ山古墳の横口式石棺の石槨材として利用されています。また、古墳や石棺のほかにも寺院や宮殿の基壇化粧石にも利用されています。二上山の岩屋、鹿谷寺もかつて凝灰岩石切場の跡を寺院に利用したものと言われています。この石切場跡は、凝灰岩の露頭が剥き出しになっており、岩塊には矢の跡が多く残り、方形の切り出し痕跡が認められます。