・・・一つひとつの作品をじっくり鑑賞させていただくと、私の関心事と共通するものが多く、正直驚いてしまった。まずは「紙漉き」、
★東日本大震災翌日の新聞一面を漉いた葉書
《参考》京都新聞「美術欄」より
そこにある文字や写真は当たり前のように購読者に“ほぼ昨日”あった出来事を知らせるべく、郵便受けにカタンと配達され、売店で襟を正して並んでいる。日々の新聞。ギャラリーの壁一面に張られているのは、その日々の新聞を漉(す)いたもの。灰色の手漉きハガキは近づいてみるとかすかに文字の破片が認識できるほどだ。新聞であった事実を、事実として記録された物言わぬ長方形。354枚のハガキのうち、一枚だけが空白になって、反対側の壁に張られている。それは3月12日の新聞を漉いたハガキ。前日に日本の東北で起こったことの全体像がまだ把握されていない。とんでもない出来事は、これから何回も何十回も津波のようにじわじわと、その凄惨な事実を伝えてきた。見えなかったものが、知らなかったことがその後、継続的に報じられることにより、僕たちの前に全容をむきだしにする。しかし僕の知っているのはテレビに映り、新聞に印刷される、四角にトリミングされた情報だけ。この四角なハガキもまた、トリミングされた事実をこうして散らばった活字の下に潜ませている。が、これは判別できない、出自が新聞とは到底理解しがたいただの紙となった。予期も予感も予兆もないままに太田さんは日々の絶えなき時間の経過を小さなミッションのように粛々と新聞を溶かし漉く。そしてその日は来た。その日は日本にとって、世界にとって特別な意味を持つ日になったのだ。「重要な日もあれば、穏やかな日もあった。3.11はドロドロと新聞を溶かした時、津波に飲まれたガレキを思い出さずにはいられなかった」
・・・私の場合、まったくの無意味なのだが、偶然まさに「紙漉き」作業をしているところだった。新聞紙ではなく「紙パック」であるが、どのような作品につながるのかは、闇の中。
・・・続いて「赤チン」、「ヨイコヌリエ」戦時中のぬりえ(復刻版)を赤チンで着色した作品。「ヨイコキッテ」もある。
《参考》「マーキュロクロム液」
メルブロミン(merbromin)は、皮膚・キズの殺菌・消毒に用いられる局所殺菌剤である。メルブロミンは有機水銀二ナトリウム塩化合物であり、フルオレセイン骨格を有する。メルブロミンの水溶液(メルブロミン液)は暗赤褐色の液体であり、商品名★マーキュロクロム液あるいは通称の赤チン(あかチン)として知られている。通称の赤チンは「赤いヨードチンキ」の意味で、同じ殺菌・消毒の目的で使われる★希ヨードチンキが茶色なのにたいして本品の色が赤いことからつけられた。ただし、マーキュロクロム液は水溶液である。アメリカ合衆国での商品名は、Mercurochrome、Merbromine、Sodium mercurescein、Asceptichrome、Supercrome、Brocasept、Cinfacrominなど。
日本では、製造工程で水銀が発生するという理由から1973年頃に製造が中止されたが、常備薬として求める声は多く、海外で製造した原料を輸入することで現在も販売されている。2019年5月31日をもって日本薬局方から削除され、「日本薬局方」を記載したパッケージでは売れなくなり、あらためて承認審査を通さなければならない。2020年12月31日に水銀による環境の汚染の防止に関する法律によって国内での製造も規制される予定。
《NEWS》2019.4.16産経新聞より
「赤チン」来年で姿消す/最後のメーカー生産中止
傷口に塗ると赤色になることから「赤チン」の愛称で親しまれた消毒薬「マーキュロクロム液」の国内生産が令和2(2020)年末で終わることが16日、分かった。日本で唯一のメーカーとみられる三栄製薬(東京)が生産をやめると明らかにした。昭和世代になじみ深い製品がまた姿を消す。赤チンはかつて家庭や学校の常備薬の定番だった。しかし、水銀が原因の水俣病が公害に認定され、生産過程で水銀を含んだ廃液が発生することから、昭和48(1973)年に原料の国内生産が終了した。三栄製薬などは海外から原料を輸入して生産を続けたが、同46年に無色透明の消毒薬「マキロン」が登場し、売れ行きは落ち込む一方だった。根強いファンから「いつまでもつくり続けて」などの声も寄せられるという。
《おまけ》「赤チンの町」著:ねじめ正一/新潮社1993
昭和30年代の東京大田区。モモタロウパン店の息子、貞雄は中学一年生。★東京オリンピック前の熱気に憑かれたような街で多感な日々を過ごしていた。夏休みや運動会の狭間に、異性への目覚め、友人の姉の失踪と自殺未遂、父との葛藤などを経験し、“大人”への入り口をくぐっていく。少年が少年であった時代、工場と海と飛行場を背景に思春期特有の心の揺れを描く成長小説。
《NEWS》2011.3.18日本経済新聞
ヨウ素補給にうがい薬や昆布が不適な理由
震災に伴う原子力発電所の事故をきっかけに、放射線被曝(ひばく)による健康被害と、その予防について関心が高まっています。原発事故で漏洩し得る放射性物質には、様々なものがありますが、特に健康への影響が大きいとされるのが、ヨウ素(I)、セシウム(Cs)、ストロンチウム(Sr)です。これらは、呼吸などを介して体内に取り込まれ、内部被曝の原因になります。今回、このヨウ素、セシウム、ストロンチウムについて、資料を調べましたのでお知らせします。
■放射性ヨウ素(131-I)の危険性
ヨウ素は、甲状腺に集積する性質があり、摂取された10~30%くらいが甲状腺に沈着します。放射性ヨウ素が甲状腺に多く取り込まれると、甲状腺癌(がん)を発症する可能性があります。実際、チェルノブイリの原発事故では、当時0~5歳だった人の甲状腺癌発症率が高いことが報告されています。これは事故により、131-Iが大量に散布され、それを乳牛が食べてそのミルクを摂取し生物学的濃縮が起きたのだと考えられています。なお、この甲状腺癌は、予後が非常に良いことも報告されています(5年生存率98.8%、10年生存率95.5%)。
■安定ヨウ素剤の効果、必要量、副作用について
安定ヨウ素剤による甲状腺癌の発症予防効果については、次の二つのメカニズムが紹介されています。
【1】非放射性ヨウ素を投与してその血中濃度が高まることで、相対的に放射性ヨウ素の血中濃度が低下し、甲状腺への取り込みが減少する(競合的阻害)
【2】血中の非放射性ヨウ素の濃度が上昇することで、甲状腺ホルモンの合成に抑制がかかり、ヨウ素の取り込みが減少する安定ヨウ素剤によるブロック効果は、被曝24時間前摂取で93%、被曝2時間後摂取で80%、被曝8時間後摂取で40%、被曝24時間後摂取では7%と、時間により大きな差があります。必要量は、年齢によって異なります。 ※ヨウ化カリウム丸は1錠50mg。(中略)
2011年3月12日に、日医工が約25万人分のヨウ化カリウムを福島県の卸に無償で出荷したことが報告されています。ですから現時点では、ほかの地域では品薄になっている可能性が高いと考えられます。ちなみに、2001年の論文には、敦賀湾での事故を想定して、「ヨウ化カリウム錠26万錠、ヨウレチンは0.75mg錠相当で2万8000錠など、10万8000人分が備蓄されている」と書かれています。有機ヨウ素であるヨウレチンでも、ヨウ化カリウムを代替できる可能性が示唆されていますが、具体的な摂取量については触れられていません。
■うがい薬や昆布が予防に不適当な理由
インターネットなどで、安定ヨウ素剤の代わりに、ヨウ素を含むOTC(Over The Counter:オーバー・ザ・カウンター)薬や食品を摂取すれば甲状腺癌が予防できるという"俗説"がありますが、いずれもこの目的で使用するには適当ではありません。
《ヨードチンキ》(Joodtinctuur、Jodtinktur)
ヨウ素(ヨード)の殺菌作用を利用した殺菌薬・消毒薬のことである。赤褐色の液体で劇薬である。通常、消毒に用いられるのは2倍に希釈した希ヨードチンキ(こちらは劇薬ではない)であるが、一般にはこれもヨードチンキと呼ばれている。 ヨウ素は水にはほとんど溶けないが、有機溶媒の一種であるアルコールに対しては比較的溶ける。ヨードチンキもヨウ素をエタノールに溶かしたもので、添加物としてヨウ化カリウム (KI) が含まれる。
・・・以上のようなニュースもあったりして、「赤チン」や「ヨーチン」を時々作品に用いています。ですから、太田さんの作品を知り驚きました。
・・・続いて「重森美玲」さんの茶室が登場して、
【重森美玲】(1896~1975)
http://www.est.hi-ho.ne.jp/shigemori/index.html
岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、いけばなと茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。大正6年(1917)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)★京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。その後は日本庭園を独学で学ぶ。昭和11年(1936)より全国の庭園を実測調査し、全国500箇所にさまざまな時代の名庭実測、古庭園の調査などにより、研究家として日本庭園史のさきがけとなっていく。昭和14年(1939)、『日本庭園史図鑑』26巻を上梓して庭園史研究の基礎を築き、また昭和51年(1976年)には息子の重森完途と共に『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成させるなど庭園史研究家としても多大な功績を残した。昭和24年(1949)には前衛いけばなの創作研究グループ「白東社」を主宰、後に前衛いけばな誌「いけばな藝術」を創刊した。三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。
・・・一時「茶室」や「日本庭園」にはまったことがあり、重森美玲さんの庭園を追っかけたことがありました。岡山出身だったんですねえ、ここで再会できるとは思いませんでした。
・・・そしてもちろん様々な★箱、詰められた思いがビンビン伝わってきて、素晴らしい作家です。岡山に来て、本当に良かったです。