・・・前回の松原市で「河内鑑名所記」を紹介しましたので、もう少し調べておきたいと思います。
《御陵で阿保親王を見た男》(大塚山にまつわる話四話その一)
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6131.html
(前略)仲間の一人が「大塚山にはたくさんの金銀が埋められていると昔から伝えられている。この金銀で青年団の資金にしようではないか」という提案がでたそうです。しかしそのころの松原では、大塚山は★阿保親王の御陵と信じられていましたので、「松原にとって恩義ある親王の墓を荒らすことは出来ない」と皆が口々に言い、松原に住む者としてこの案は承知出来ない、と満場一致で廃案と決定しました。するとその時一人青年がしっかりとした口調で、「あの墓が阿保親王の墓で、もしそこへ財宝があるなら後々の人々のために役立つようにと埋められたに違いない。そして今その時に来ているのではないか」と発言したそうです。若者達は、なるほど阿保親王ならきっと後の世のためにと財宝を残されるに違いないと思って、阿保親王の期待を裏切らないようにその財宝を有意義に使うことを誓いあって、早速翌朝に集合して大塚山へと出かけて行ったそうです。
《参考》松原の阿保親王伝説
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6136.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/soshiki/hisyo_kouhou/6/1/2/3171.html
・・・「河内鑑名所記」には阿保親王御陵と書かれていました。
《長尾街道・中高野街道交差点人々が行き交う阿保茶屋村》
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/work/7/7615.html
河内松原駅から北へ、にぎやかな通りを少し行くと、東西を走る道と交差します。南北の道は、平安時代以降、高野山(和歌山県)方面に向かい、「中高野街道」とよばれています。一方、東西の道は七世紀ごろには敷設されていたらしく、近代以降「長尾街道」の名が定着してきました。この四つ辻は、古代以降の重要な街道が交差する要衝の地で、江戸時代、長尾街道の南は丹北郡松原村上田で、北側は阿保村でした。もっとも、上田の本村は今の河内松原駅の南側で、阿保村の集落も阿保神社周辺にかたまっていました。このため、江戸時代の絵図には、交差点の南側は「上田出郷」、北側は「阿保村出在家」とか「阿保茶屋」と記されているものもあります。四つ辻は、両村の出入り口ですが、商いや参詣人の往来が盛んでしたので、休憩する人々のために茶屋などが並んでいたようです。ですから、交差点付近は★「阿保茶屋」とよばれ、集落は阿保茶屋村とも称されることもありました。阿保茶屋の読みは、阿保は「あお」ですが、「あおちゃや」ではなく★「あおんちゃや」と「ん」を入れて読むことに注意して下さい。すでに阿保茶屋村の名は、上田五丁目の反(は)正(じ)山(やま)地蔵堂に保管されている鰐口に刻まれた銘に見られます。そこには「元禄八年亥(い)九月七日」「松原ノ内阿保茶屋村」とあります。松原は上田・新堂・岡の三地区で構成されていますが、元禄八年(一六九二)、阿保茶屋も独立性を持った松原の一村として、認識されていたことがうかがえます。阿保茶屋村銘の鰐口が上田の反正山地区の地蔵堂に現存している経過は、両村の檀那寺が真宗大谷派の願正寺ですので、共有されたのかもしれません。享保二十年(一七三五)に発行された河内国の地誌の『河内志』にも、丹北郡の村として、松原村植田(上田)・新堂・岡や阿保村と並んで、阿保茶屋村が記されています。阿保村と松原村の出入口の意味を持つ「阿保松原ノ荘出戸」の注記もあります。下って、天保三年(一八三二)十一月二十八日、願正寺の本山である東本願寺二十世の達(たつ)如(にょ)が阿保茶屋の門徒に出した御文にも、「願正寺河州丹北郡松原庄茶屋村 本山十七日講中」と見られます。願正寺の檀家たちは、他の真宗寺院と同じく、講をつくっており、阿保茶屋の仲間たちは十七日講としておつとめしていました。その際、本山は彼らの地域を茶屋村と記しているのです。明治時代以降も、阿保茶屋は松原村の交通の中心地として、地域の記念碑や村内・街道を守る地蔵堂が再建されるなど、コミュニティの場としても活用されました。交差点の西南角に、明治三十九年(一九〇六)五月に建立された「日露戦役記念碑」が見られます。日露戦争(明治三十七~三十八年)に松原村から出兵した軍人たちの名前が刻まれています(「歴史ウォーク」103)。また、昭和天皇の即位を祝って、松原村が昭和三年(一九二八)十一月に建てた「御大典記念」「松原村分会」の標石もあります。さらに、昭和十年(一九三五)四月には、満州事変などで亡くなった松原村の人々の「忠(ちゅう)魂(こん)碑」も建っています。これらの記念碑の南側には、阿保茶屋の地蔵堂があり、堂内には昭和四年(一九二九)八月二十三日のお盆に再建されたことを記す台石の上に子安地蔵が祀られています。昭和三十年(一九五五)、松原市が誕生した際、市が作った「松原市全図」に交差点の周辺に阿保茶屋の地名が見られます。今では地元の人以外、阿保茶屋の名を知る人は少なくなってきました。歴史的由緒を持つ阿保茶屋の名称を将来にも残すため、いろんな所で地名として使用されることが望まれます。
《松原の狐達》
●三ッ池の狐 https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6009.html
●赤い笠の狐 https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/5986.html
●四十二の膳と狐の嫁入り https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6151.html
●人間の戦いと狸と狐 https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6092.html
●よしな菊は狐の涙 https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6022.html
信太の狐(阿倍野の狐)、布忍の狐、高井田の狐は三兄弟であるとの伝承もあります。
●出兵したのは狐か狸か https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6028.html
●おいはぎと狐 https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6024.html
●源九郎狐
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6020.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6018.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6016.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6007.html
●耕助狐の話
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/5922.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/5920.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6214.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6212.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/6210.html
松原では不思議と中高野街道を境に狐は西、狸は東と語りが分布している。
●狐塚
https://www.city.matsubara.lg.jp/soshiki/hisyo_kouhou/6/2/10/4682.html
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/minwa/2/5976.html
松原の日常生活の中では、たくさんの「狐藪(きつねやま)」「狐塚」と呼ばれる所は数多くあります。いつも言っていますが、松原の人々にとって狐は隣人(となりびと)ですので「三ツ池のおよし」「一里塚の耕助」のように名前を持っていますが、塚の狐は名前を持ちません。そのかわり血統を持っています。「布忍の塚の狐は高井田(阿倍野と言う人もあり)、布忍、信太の三兄弟狐」「阪南大裏の狐は大和の狐」と言った形です。ついては、松原では生活用語として民間で狐塚と呼ぶ塚の他に狐塚古墳跡の指定地があります。高さ2~3メートル、周囲30メートル位で、古墳時代の前方後円墳が天美西地区にあります。★「河内名鑑」に「塚本の狐、これは布忍に塚あり。泉州信太の狐は女、塚本の狐は男。信太へ通いけるとぞ。両所は狐の名所なりと記せど、今 その後を知らず」とあります。
★さすかなる つかもと茂る 木立かな 一志
★塚もとの きつねはけてや 女郎花 栄貞
※狐塚古墳跡【きつねづかこふん】
https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/bunkazai/9/6757.html
天美西1・5・6丁目にまたがり位置する古墳跡です。現在は主要地方道大阪狭山線道路建設により残っていませんが、かつてはここに狐塚と呼ばれる小丘がありました。古い航空写真で確認すると、およそ全長30メートル程度の前方後円墳であったのではなかろうかと思われます。発掘調査が行われていませんので、古墳の時期など詳しいことはわかっていません。
《参考》「まつばらの民話」第1話~143話/大阪府文化財愛護推進委員:加藤孜子(あつこ)
https://www.city.matsubara.lg.jp/soshiki/hisyo_kouhou/6/1/2/
・・・これらの民話を採集執筆されているのは、大阪府文化財愛護推進委員★加藤孜子さん、素晴らしい。講演会とかないのかなあ。
《NEWS》2002.8.2毎日新聞より
「かごめかごめ」は遊女の歌です。かごめかごめ……後ろの正面だ~れ。幼いころに、輪を作って歌った。どこか物悲しい調べだった。遊女が歌ったのだと教えてくれたのは、身近な昔話を集めている★加藤孜子さんだった。かごの中の鳥は、女性のこと。閉じ込められた世界で、不可能なことばかりに包まれた現実を、歌詞が表現しているのだという。加藤さんは、「地べたをはったもん」の話にこだわり、聞き書きを続ける。「ワテは7つの時に、テテオヤに炭3俵で、郭(くるわ)に行ったんだすわ。姉さんのふき紙洗うて、きれいにたたんで、姉さんに買うてもろうて、おだちんもろたりしまして、おとした(妹や弟)に何ぞ買ったりしました」この女性の話を聞き、★話はそのまま伝えねばならない、と誓った。庶民の歴史に忠実に、と。
・・・続いて堺市へ、
《第44回全国公募写真展『視点』大阪展》日本リアリズム写真集団大阪支部写真展
2019年8月7日(水)~11日(日) 10:00〜18:00
590-0014堺市堺区田出井町1-2-200ベルマージュ堺弐番館/072-222-5533
於:「堺市立文化館」2F~4F
《3F全室》第44回全国公募写真展「視点」大阪展
《2Fつつじ》日本リアリズム写真集団 大阪支部写真展
《2Fしょうぶ》三枝妙子写真展★「戦争を知る旅」
http://www.jrp.gr.jp/modules/myalbum0/photo.php?lid=145
日本リアリズム写真集団所属の三枝妙子さん(57)=大阪市=が15日、写真集「戦争を知る旅-軍事要塞を訪れる」(日本機関紙出版センター、2160円)を刊行した。戦争を知らない自分と向きあい、約20年前から撮りためた日本各地の砲台や観測所、北海道のトーチカ群、大阪の真田山陸軍墓地、広島・大久野島の毒ガス製造工場、沖縄の壕など20カ所以上のモノクロ写真。海峡を守る要塞、砲台、火薬庫、観測所……朽ち、草むした姿が戦争の記憶の風化を象徴している。三枝さんは1961年生まれ。小学生の時に、大阪・梅田の陸橋で見た傷病軍人の姿が「戦争」にまつわる最初の★記憶だ。突然あらわれた「過去」「兵隊さん」に驚いた覚えがある。
・・・リアリズムとは何か?最近よく考えます。
《参考》日本ペンクラブ電子文藝館より
芸術としての俳句のあり方について─社会性をベースにした詩性の確立
http://bungeikan.jp/domestic/detail/889/
(前略)草田男の「私」と「公」の融合、兜太の「表現という精神」と「具象と韻律という肉体」の抱合、赤城さかえの「リアリズム」と「ロマンチシズム」の統一が代表的なものである。しかし、これはモーツアルトのコンチェルタントな精神、とはいかない困難なものである。俳句においては「詩性」と「社会性」は相容れない水と油の様なもので、両者の融合・抱合・統一という表現には無理があり、却って混乱を招く結果になることを筆者は危惧する。(中略)
そして俳句の未来のために一つ付け加えたい。西鶴が俳諧から小説という形式に向かわざるを得なかったように(三島由紀夫は韻文的特質と散文的特質の奔放な混交と表現)、俳句の短小な形式では、草田男の第三世界や現代の複雑な諸相の表現には荷が重いことは明白であり、他の表現手段の力を借りることも有効であろう。例えば最近みられる、★写真とのコラボレーションである。筆者の試みたアフォリズムとのコラボもこれに他ならない。ベートーヴェンの「合唱」という芸術の総合の理想型を、俳句にも夢見るものである。
生き残る種というのは、最も強いものでもなければ、最も知的なものでもない。
最も★変化に適応できる種が生き残るのだ。チャールズ・ダーウィン
・・・自分にとってのリアリズムとして、玉手箱プロジェクト「記憶の玉手箱」ピースアクションへと昇華させていきたい。