・・・残念ながら実際には観れなかったので、
●作品No. tk06「北浜の小さな香川ギャラリー」★うちわの骨の広場/作:西堀隆史
https://setouchi-artfest.jp/artworks-artists/artworks/takamatsu/290.html
7000枚のうちわの骨による瀬戸内海の表情。丸亀市で職人の手によって丁寧につくられる「丸亀うちわ」。作家はうちわの骨・約7000枚を用いて、一見穏やかに見える瀬戸内海の場所ごとに異なる潮の流れやそれによって生まれる様々な表情を意識した空間作品を展開する。
協力=香川県うちわ協同組合連合会
・・・せめて「かがわプラザ」へ。
《高松シンボルタワー》設計:松田平田設計
760-0019香川県高松市サンポート2-1
https://www.mhs.co.jp/work/takamatsu-symbol-tower/
★「かがわプラザ」タワー棟6階/087-822-1707
http://www.symboltower.com/plaza/
かがわプラザは昭和30年代の街並みを再現、来訪者の方々に見て体験して楽しんでいただく新しいスタイルの情報発信交流拠点で、さぬきうどんや瀬戸内海などをはじめとして、香川の歴史や文化、自然、観光物産など様々な情報を提供します。
・・・あまり期待してなかったのですが、予想をはるかに上回る見応えでした。
・・・「丸亀団扇」が観れたらいいなあとぐらいにしか思ってなかったので、この展示の規模に圧倒されました。完全に穴場です、ほとんど人がいないのですから。
《丸亀団扇》
慶長5年(1600)、丸亀の旅僧が九州で一宿のお礼にうちわの製法を伝授したのが、★熊本来民うちわの始まりと言われています。このため、「丸亀うちわ」の技術は江戸時代初期までに確立していたと考えられています。寛永10年(1633)になると、金毘羅参りのお土産として天狗の羽団扇にちなむ朱色に丸金印の『渋うちわ(男竹丸柄うちわ)』作りを考案。その後、丸亀藩が藩士の内職にうちわ作りを奨励するなど、代表的なうちわ産地の基盤を築くことになりました。「伊予竹に土佐紙貼りてあわ(阿波)ぐれば讃岐うちわで至極(四国)涼しい」と歌い継がれる丸亀は、材料すべてを近隣で揃えられる恵まれた土地。また、全47もの製造工程のほとんどを頼る職人の手仕事は「丸亀うちわ」の要です。地紙ひとつとっても、破れにくくするため、素材の厚さにより糊の濃度を調節するなど、「丸亀うちわ」は最高の材料と卓越した職人技の集大成なのです。うちわ作りの職人が多く在住していた丸亀では、全国から特色あるうちわ作りを任されるようになっていきました。そのため、柄と骨とが一本の竹から作られる、本来の「丸亀うちわ」と、各産地の要素が融合。こうして、多くの特長を得た丸亀うちわは、今では★国内シェア9割に上る年間約1億本以上もの生産量と、形の多様さともに日本一を誇り、平成9年には国の伝統的工芸品に指定されました。
《参考》「うちわの港ミュージアム」
763-0042香川県丸亀市港町307-15/0877-24-7055
https://marugameuchiwa.jp/facility
《熊本来民うちわ》
http://kumamoto-kougeikan.jp/kougeihin/cn31/cn30/pg422.html
真竹を小割りした骨に和紙を貼り、柿渋を塗って、優雅な色と強度を増しています。山鹿市来民(くたみ)で作られ、京都や丸亀とともにうちわの三大産地とされてきました。慶長5年 (1600)、四国の丸亀の旅僧が一宿の謝礼として、うちわの製法を伝授したのが来民うちわの始まりといわれています。また、和紙と竹という資材に恵まれていたため、17世紀中頃、細川藩主 細川忠利が奨励したとも言われています。最盛期には、年間600万本を生産し、九州一円から中国、韓国、台湾まで販路を広げました。近年、冷暖房の普及で需要が少なくなりました。現在は栗川商店が生産を続けています。
https://www.shokunin.com/jp/kurikawa/
・・・私の地元では、
《NEWS》2017.3.25産経ニュースより
伝統の小山団扇、藤井寺に「里帰り」講談師・旭堂南陵さんが寄贈
戦国時代に起源を持ちながら、現在では職人がいなくなり、製造が途絶えた大阪府藤井寺市の伝統工芸品「小山団扇(こやまうちわ)」の昭和初期のものが見つかり、市に寄贈された。寄贈したのは大阪芸術大学の客員教授としても活躍する講談師、旭堂南陵さん(67)。「これを機に多くの市民に知ってもらえれば」と話している。小山団扇は戦国時代、武田信玄に仕えた知将・山本勘助が敵方の動きを探るため、現在の藤井寺市小山地区に潜伏していた際、隠れみのの職業として作ったことがルーツとされる。一本の竹を細かく裂いた骨組みが特徴で、徳川将軍家や皇室への献上品としても知られ、江戸時代の観光ガイドブックでも紹介された。製法は一子相伝とされ、明治以降は代々「中野茂八郎(もはちろう)」という名前を継いだ職人が手がけてきたが、昭和45年に最後の茂八郎氏が死去、技術は途絶えた。今回南陵さんが寄贈したのは今年1月に京都の古本市で入手した黄色と濃い桃色の小山団扇2本。これ以外に、団扇本体を守るカバーや、箱に入っていた史料なども含まれる。史料の中には中野氏の名や小山団扇の由来、「昭和五年七月」という日付のほか値段表が記された解説書も。同書によると、寄贈された団扇は骨の数が80本ある「三號形(さんごうがた)」で当時の価格で2円程度。カレー1人前の値段が数十銭の時代で、やや高価な品だったことがわかるほか、最高級品は6円という記載もあるという。また、貴重な団扇用カバーもあり、今回の2本の団扇も、カバーの効果で歳月による変色はみられないという。有効な活用法を考えていた南陵さんが、知人の勧めなどもあり、藤井寺市へ贈ることを決めたという。南陵さんは「市民の間でも知らない人が多い。これを機に、多くの人に知ってほしい」。松浦信孝副市長も「ご厚意を生かし、何とか市民の皆さんの目に見える形で魅力をPRしていきたい」と語った。
・・・そうだ「サヌカイト」を忘れてはならない、「二上山博物館」にも行かなくては。