・・・「月のアート展」出品作のタイトルは、《月の★室礼(しつらい)》としました。
《室礼(しつらい)》
※「設え」:しつらえること。用意。準備。「客室の設えが済む」
「鋪設」「補理」とも書き、建具や調度を配置して、生活の場、または儀式の場を作ることである。室礼は、主に寝殿造において、柱だけの開放的な空間を「御簾」「几帳」「壁代」などのカーテン類、屏風や衝立などのパネル類、押障子や鳥居障子などの取り外し可能な建具などで仕切り、必要な場所に畳や二階棚などの家具・調度を配置して、日常生活、または儀式の場を作ることである。
史料としては★『類聚雑要抄』の他に『満佐須計装束抄』、鎌倉時代前期に順徳天皇によって制作された『禁秘抄』が有名である。其の他『山槐記』など同時代の貴族の日記により知られる。 ただしそれらは12世紀以降の内裏、里内裏、摂関家の東三条殿についての記録が中心であり、摂関家以外の大臣、公卿などの屋敷の室礼についてはほとんど知られていない。『類聚雑要抄』にはハレの儀式用の室礼の例に永久4年、東三条殿母屋での正月大饗の指図、保延2年12月9日「内大臣殿庇大饗の差図(東三条殿)」など。日常生活用の室礼の例には、永久3年7月21日の藤原忠実の東三条殿への移徙の室礼があり、侍廊、二棟廊(出居)、台盤所、随身所まで掲載されている。 『満佐須計装束抄』にも「大饗の事」以下「五箇所の事」までの行事毎の項目が書かれている。
・・・その言葉を知ったのは、★父からである。深く意味を考えたこともなく、感覚的に、部屋の中を整えることだと信じていた。商売をやっている父は、店舗内を美しく整えることを常としていたし、生活場面でも家具や調度類などにわりと気を遣っていたようだ。とりわけ「椅子」にはコダワリがあり、気に入るものがあれば購入しては悦に入っていたものである。やがて父も亡くなり、「しつらい」という言葉を用いる人と出会うこともなく、その言葉は長く記憶の奥底に沈んでしまっていた。
・・・父が亡くなってからの★母は、のびのびと好きな水墨や日本画に打ち込むものと勝手に思い込んでいたが、豈図らん(あにはからん)や描くことのハリを失ってしまうとは。結果として、多くの画材を譲り受ける結果となった。しかし、これまで油絵や洋画を軸としてきた私にとって、紙類やノリ類は無用の長物に思えて、どうしたものかと長く放置してきた。たまにコラージュなど手ごろなものを使用する程度で、たかが知れたものである。そんな時、偶然手に入れた虫食いの安価な浮世絵を、立派に仕立ててやろうと思い立ち、和紙やら糊やら引っ張り出し★「表装」の手引きなど参考にしつつ試行錯誤。何に驚いたかというと、これまで経験したことのない★「糊」にである。接着剤というよりも、感覚は絵具に近い。手頃な粘着力でノビがよく、乾燥速度もゆっくりでしかも大きく紙自体が反ったりすることもなく、もとより水性で後片付けも便利。再度水を打てば、簡単に溶けて剥がすことも容易、久々の感動であった。以来、「糊」を使用することが楽しくて制作してきたような、変な気分でもある。
《参考》「トルコ文化年」
https://twitter.com/TourismturkeyJP
2019年は「日本におけるトルコ年」です。これは両国が共同で宣言し、友好と文化交流を目的として開催されるものです。2010年には「トルコにおける日本年」が開催されており、トルコ国内で180を超える文化事業が開催されました。トルコは親日国として知られていますし、2018年のトルコへの日本人観光客も8万人を超え、来年にはエルトゥールル号遭難事件から130周年を迎えます。
トルコといえば、香川真司選手(ベシクタシュJK所属)と長友佑都選手(ガラタサライSK所属)がトルコのサッカーチームで活躍しています。2002年の日韓ワールドカップで一躍有名になったイルハン・マンスズ選手もトルコ代表でした。のび~るアイスことトルコアイス(ドンドゥルマ)はアイスを客になかなか渡してくれない屋台も話題になりました。トルコの甘い紅茶チャイも日本のカフェなどで見かけるようになりました。トルコの映画を観てるとすぐに「チャイ飲む?」という会話が出てきます。1日に何杯も飲む習慣があるようです。トルコ行進曲は18世紀頃にヨーロッパで起きたトルコブームの中で、トルコの軍楽隊の音楽に刺激を受けた作曲家たちが作った行進曲のこと。有名なのはモーツァルトのピアノソナタ第11番第3楽章とベートーヴェンの『アテネの廃墟』の第4曲です。題名でピンとこなくても聴けば知ってる超有名曲です。英語でターコイズ(Turquoise)と呼ばれる「トルコ石」は宝石のひとつ。トルコ石はトルコでは産出されていないとのこと。トルコを経由してヨーロッパに輸出されていたからトルコ石と呼ばれたようです。
★エブル(Ebru)
https://www.turkeycenter.co.jp/art/ebru/
中央アジアからトルコへと伝わった★「マーブリング」の技法です。トルコではオスマン帝国時代に大きく発展しました。その後、オスマン帝国を旅していたヨーロッパ人からヨーロッパに伝わり、マーブリングとして世界中に伝えられました。現在でもトルコでは、国民にとても愛されている芸術の一つです。マーブリングとは、器の中に水溶液を入れ、その中にインクを落として模様を作り、模様を紙に写し取る芸術の一つです。エブルは中央アジアで始まったとされており、7世紀頃トルコに伝わったと言われています。実は同じ時期、中央アジアから中国を通って、日本にも同じ技法が伝わりました。それが★『墨流し』です。
《NEWS》2019.8.3FNNイスタンブール支局長
明治から令和へ~“贈りもの”が語りかける日トルコ友好の「原点」…修復に込められた思い
エルトゥールル号遭難事故をご存じだろうか? 今から約130年前の1890年(明治23)、日本から帰国途中のトルコの使節団を乗せた軍艦が嵐に見舞われ、現在の和歌山県串本町沖で座礁、乗組員500人以上が死亡したという痛ましい海難事故だ。そんな中、地元の人々が懸命な救護活動を行って69人のトルコ人の命を救い、日本海軍が巡洋艦で彼らをトルコまで送り届けた。トルコ国民の多くは今でもこの恩を忘れておらず、トルコが世界有数の親日国と言われるきっかけとなった出来事だ。この事故の3年前の1887年(明治20)、軍人でもあり日清戦争でも指揮を執った小松宮彰仁親王が、ヨーロッパ視察旅行の帰途にイスタンブールを訪問し、当時のオスマン帝国皇帝、アブデュルハミト2世に謁見している。トルコ側の厚遇に感謝した明治天皇は、翌年、皇帝に親書と勲章を捧呈した。そして1889年(明治22)、今度は皇帝が明治天皇に勲章を捧呈するためエルトゥールル号を派遣したのだ。事故の前から日本とトルコの友好関係が深まりつつあったことが伺える。小松宮彰仁親王はアブデュルハミト2世に謁見した際、日本から持参した屏風を贈呈した。屏風はボスポラス海峡に佇む壮麗なドルマバフチェ宮殿内に飾られてきたが、日焼けなどの痛みが激しく、今年6月、別の宮殿の修復アトリエに持ち込まれた。日本刺繍絵画が施された立派な屏風だ。我々は今回、その修復作業を取材することができた。屏風の刺繍絵画は全部で6枚あり、日本の国鳥であるキジや牡丹など、鳥や花がモチーフとなっている。シルクの布の色は褪せ、汚れや破れた箇所も目立つとはいえ、写実的な構図はオリジナルのまま。まさに、時空を超えて訴えかけてくるようだ。この時代に作られた手作業の日本刺繍は、その多くが輸出されてしまったとみられ、この作品もまた大変貴重だと言えよう。修復作業では、本来の刺繍絵画に近い色のシルクの布を用意し、さらに似た色に染めた上で破れた部分にあてがうという。想像するだけで大変な作業だ。修復作業の責任者、バシャック・ビルセルさんに話を聞いた。「日本の芸術作品のほとんどの作品は、われわれが今までに見たことのない手法で作られています。織り方もトルコのものとかなり異なります。そのため、まず作品を理解することから始めます。どのように作られたのか?どのように織られたのか?文献を調べたり、時には日本の大学に問い合わせたりもします。とはいえ、修復の基本的な仕方は変わりません。今の状態を良好にし、それを保つようにしていくのです」修復作業は、まずは★リサーチからだと語るビルセルさん。同じ芸術品といってもトルコ古来のものとは勝手が違う。使われている素材や工具も当然異なるはずだ。日本にまで問い合わせるというから、作業は一筋縄ではいかないだろう。そんな修復作業の過程で、ある発見があったという。屏風を解体したところ、当時の日本の新聞が出てきたのだ。屏風の骨組みの★「下張り」として使われたとみられ、朝日新聞のほか、当時発行されていた時事新報があった。時事新報は福沢諭吉が1882年(明治15年)に創刊した日刊紙。歴史を感じざるを得ない。これらの★新聞もあわせて修復するというが、再び「下張り」され、次の修復までの間、再び“タイムカプセル”となる。「ドルマバフチェ宮殿には『日本の間』と呼ばれるホールがあり、シックな日本の作品が多く揃っています。そのほとんどが、オスマン帝国時代に日本から贈られたものです」「日本の作品はトルコの宮殿によくマッチしていて、相応しい品格があります。作品の修復には細心の注意を払い、まずはその歴史背景を調べることからスタートします。★調べれば調べるほど、両国のきずなを感じるのです」ビルセルさんの言葉からは、修復する作品への愛だけではなく、日本に対する尊敬の念が感じられた。今年は日本における「トルコ文化年」。日本各地でトルコにまつわるイベントも多く開催されている。今回、われわれが取材した刺繍絵画の屏風の修復作業が終了し、再びドルマバフチェ宮殿に展示されるのは2か月後だという。この作品が日本とトルコの友好の証として、末永く両国の人々の記憶に残ることを願ってやまない。
・・・今回の作品においても、「屏風」そして「新聞」は大きな共通点です。