・・・「胡蝶」の演目はありませんが、「舞楽」を鑑賞したくて四天王寺さんに行ってきました。
・・・長蛇の列です。開場まで時間がありますので、ちょっとウロウロ。
《NEWS》2016.11.11産経ニュースより
「野沢菜のルーツは天王寺蕪」 大阪・四天王寺の境内で絆伝える記念碑除幕
「信州名物の野沢菜のルーツは★天王寺蕪(かぶら)」という由来を記した「野沢菜伝来記念碑」が10日、大阪市天王寺区の四天王寺境内に建立された。野沢菜は、江戸時代、野沢村(現・長野県野沢温泉村)の僧侶が京都への遊学の際に持ち帰った天王寺蕪の種が先祖とされており、除幕式には関係者ら約60人が出席し、新たなシンボルの誕生を祝った。高さ約1・8メートル、横約2・4メートルの記念碑が設置されたのは五重塔や金堂のある中心伽藍の東側。記念碑には「野沢菜原種旅の起点」と刻まれ、野沢菜のレリーフと大阪から長野までの伝来のルートが紹介されている。野沢菜は宝暦6(1756)年、同村にある健命寺の晃天園瑞住職が修行先で天王寺蕪の味に感動し、持ち帰ったのが栽培の始まりと伝えられている。一方、天王寺付近が発祥の地とされる天王寺蕪は、与謝蕪村が「名物や蕪の中の天王寺」と詠んだほど全国にその名を知られ、多くの人に好まれたが、明治後期に虫の被害などで姿を消した。平成13年ごろ、天王寺蕪の普及をめざす「天王寺蕪の会」の関係者が野沢菜の言い伝えを知り、野沢温泉村を訪ねたのが交流のきっかけ。
【難波りんご】「天王寺蕪の会」事務局長
1955年大阪市出身。神戸女学院大学文学部英文学科卒業。1989年にタウン紙『おかあさんチョット…』阿倍野区版編集長を担当したのを機に、郷土史の調査・研究を始め、阿倍野区の沿革や埋もれた史跡を発掘して地域情報紙などに発表。学校・地域の要請で講演活動を展開。2000年『もうちょっと知っとく? 私たちの阿倍野』(新風書房)を出版。学校で地域学習に使用されるほか、住民にも愛読されている。1995年大阪の伝統野菜である天王寺蕪が野沢菜の先祖であることを発表。マスコミで報道されて以来「なにわ伝統野菜」が一躍有名に。現在は「天王寺蕪の会」事務局長として、野沢温泉村との友好交流を継続中。著書に『あべの昔話 鬼はどこへ消えた?!』(新風書房)、共著に『ごめんやす「おおさか弁」』(リバティ書房)、『大阪力事典』(創元社)など。
http://www.30ans.com/specialtalk/backnumber/vivi_200610.html
https://www.yotuba.gr.jp/shokai/naniwa.html
https://www.osakahonjou.com/naniwa/200412.htm
以来、野沢菜が伝わった道を歩いてたどる「野沢菜伝来の街道(みち)ウォーキング」に参加したり、地元で開かれる“蕪主総会”に出席したりして交流を続けてきた。記念碑は今年、同村が村制施行60周年に当たることから「後世にこのつながりを伝えたい」と記念事業の一環として企画された。野沢温泉村の富井俊雄村長(66)は「野沢菜を通して長野と大阪の絆を強めていきたい」と話している。
https://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/tennoji/0000377719.html
《参考》「野沢菜発祥の里」信州野沢温泉村
https://www.nozawana.co.jp/%E9%87%8E%E6%B2%A2%E8%8F%9C%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5/
野沢菜は、宝暦六年(1756)、長野県下高井郡野沢温泉村の名刹薬王山健命寺の八代住職昇天園端大和尚が京都に遊学の際、浪速の天王寺蕪の種子を持ち帰りました。さっそく、それを寺内の法泉地畑に蒔いたところ、北信濃野沢温泉の風土、気候、地味に合った結果、根も茎も蕪も大きくなり「野沢菜」になったと言い伝えられています。今でも寺の法泉寺畑で採取した種子原種とされています。以来、寺の重要な収入源の一つにもなっています。種子に純粋性を保つため昔から農家では、油菜種 や、また、交配するような種子の栽培を禁じて雑種が出来ないようにつとめています。こうした野沢菜の種子は、長野県一帯と新潟県一帯に出荷され冬の味覚を作ってきました。
《菅楯彦「筆塚」》
浪速御民 菅楯彦(菅楯彦 書)筆塚 (田中塊堂 書)昭和49年(1974)建立
【菅楯彦】(1878~1963)
鳥取に生まれ、幼少時に来阪。独学で絵を研究し、独自の画境を開く。自らを「浪速御民」と号するほど生涯大阪を愛し、大阪の風俗を描き続けた。また天王寺舞楽をこよなく愛し、舞楽を題材とした作品を数多く残している。★天王寺舞楽協会初代会長を務めるなど、文化遺産の顕彰にも尽力した。昭和37年(1962)★初代の大阪市名誉市民に選ばれている。(四天王寺の説明板より)
《篝火》
古来の照明具の一つ。主として屋外用のもので、手に持って移動するときは松明 (たいまつ) を使い、固定するときは篝火を使う。松の木などの脂 (あぶら) の多い部分を割り木にして、鉄製の篝籠に入れ、火をつけるもので、「かがり」の名も細長い鉄片を編んだ容器からの命名といわれる。軍陣や祭礼など、野外に多数の人の集るときに使うほか、漁船に取付けて集魚灯の役目も果した。有名な長良川の鵜飼舟にも、篝火を取付けており、古風を重んじる祭礼の夜間行事には、今日でも使われることがある。『源氏物語』第27帖を「篝火」と題しているのは、ほのかな篝火の火影に見える女性の姿を情趣深くとらえるところからきたものである。
・・・「能」の場合は「薪能」と言いますよね。
《参考》薪能(たきぎのう)
主として夏場の夜間、能楽堂、もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能楽。「薪の宴の能」の意。起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催されたものが最初だという。興福寺では、現在5月の11日、12日に薪能が行われている。ただし興福寺では薪御能(たきぎおのう)と呼ぶ。また、薪御能の源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であり、野外で薪を燃やせば薪能になるのではないとしている。しかし公的団体が、日本文化の趣旨を地域住民に理解してもらうように様々な資料を用意し、能楽を広めるために行っている行事を、能楽関係者が深く関わることにより、政(まつりごと)としての薪能の趣旨が生きてくるという考え方もある。
《能楽トリビア》
http://www.the-noh.com/jp/trivia/018.html
●薪能の舞台は、かがり火の揺らぎが大きな★演出効果を生み出します。しかし、このかがり火は、たんなる照明装置ではありません。神社や仏閣で行われる薪能は、それ自体が神事、法会のひとつです。舞台に先立ち、神官、僧侶による「火入れ式」が行われます。薪に火をつけ、かがり火を灯すものですが、その種火は、人力でおこします。「轆轤鑽(ろくろひきり)」という火おこし器を使い、摩擦熱で火をおこす、昔ながらの方法です。木くずを焦がし、紙を添え、木片を添えて、少しずつ大きくしていく火が、松明をめらめらと燃やします。その火を消すことで、舞台そのものが闇に消えて終幕となる薪能では、火そのものの変化を感じてみるといいでしょう。舞台同様に、その時だけの、二度はない、貴重な体験となるでしょう。
●近年はさまざまな機会で能の舞台が開催されることが多くなりました。中でも、独特な開放感がある薪能は、イベント性も高く、敷居が低いこともあって人気があり、開催の機会も増えています。しかし、主な開催が、暖かな季節の夕方ということもあり、天候とのかねあいが難しい舞台でもあります。規模の大きな薪能の場合は、雨天順延、もしくは中止となることもあります。中・小規模の公演では、屋内に別の場所を確保して、雨天の時はそこを代替会場にすることもあります。薪能ではなく、屋内の「ろうそく能」にすることも。その場合は、雨天でなければ観られなかった舞台とも言えるので、また違った趣を楽しめるでしょう。演能の途中から空模様が怪しくなることもありますが、こういうケースは演者の立場からも、特に避けたい状況です。その場合は、空の様子を見ながら、影響の少ない地謡の一部を抜いて短縮する、一時中断してから再開するなど、最後まで演じるように策を尽くします。それでも無理な場合は……。遭遇したくないですね。
・・・「薪能」も観に行きたいなあ。さあ、「篝の舞楽」が始まります。