・・・二上山の火山活動により火山灰などが堆積した屯鶴峯の「凝灰岩」の地層は、各地★古墳で石棺などに用いられるなど、地質学や考古学上も貴重な一帯とされる。
《屯鶴峯》639-0252奈良県香芝市★穴虫
二上山の火山活動により火山岩屑が沈積し、その後の隆起によって凝灰岩が露出し、1500万年間の風化・浸食を経て奇岩群となった標高約150mの岩山。サヌカイトやザクロ石閃緑岩などの岩石が産出する。県天然記念物であり、金剛生駒紀泉国定公園の見所の一つである。
大東亜戦争中に造られた複雑な防空壕があることでも知られる。本土決戦を目前にした陸軍が航空部隊・航空総軍の戦闘司令所として建設されたもので、二つの壕に分かれている。
防空壕の一部は京都大学防災研究所附属地震予知研究センター屯鶴峯観測所として使用されており、地震予知研究計画の一環として地殻変動の連続観測が実施されている。
http://www1.rcep.dpri.kyoto-u.ac.jp/observatories/DON.html
《穴虫峠》
大阪府南河内郡太子町春日と奈良県香芝市穴虫の府県境にある標高140mの峠である。大阪側の入りに南阪奈道路や、それに付随する道路整備がされている以外は、山の斜面を利用したブドウ栽培のハウスなどがある、自然豊かな景色であり、近隣に屯鶴峯がある。同じく奈良と大阪を結ぶ竹内峠より勾配が緩やかなため、バイクや自転車で越境する住民も多い。
https://www.city.kashiba.lg.jp/shisei/0000000824.html
「穴虫」という地名の由来は、穴に伏す低地という地形から。古くは★大坂と呼ばれていたと考えられている。
《参考》かん館メールマガジン(2016年8月号Vol.131)香芝市図書館・博物館メルマガ
https://www.city.kashiba.lg.jp/kurashi/0000004896.html
●田尻峠の石器作り弥生人
奈良県の天然記念物に指定されている屯鶴峯、市民に親しまれている景勝地なので何度か訪れた方も多いことでしょう。屯鶴峯があるすぐ東側は、大阪に通じる国道165号線が田尻峠を越える位置にあたります。このあたり一帯には読者にはお馴染みの先史時代に使われた石器の石材となる、サヌカイトが産出することでもよく知られています。いまから約30年も前のことになりますが、1987年にその田尻峠に近い場所で、中和幹線道路建設に伴う発掘調査が実施されることになりました。大阪層群と呼称される礫、砂、粘土が互層となる基盤層と、その再堆積層に含まれているサヌカイト礫を利用して、石器の製作を行った跡を発見したのです。田尻峠第1・第2・第3地点と命名されたこの遺跡からは、人工的に基盤層を掘り込んだ穴が発見されました。基盤層にはサヌカイト礫が含まれていることから、サヌカイトの獲得を目的とした採掘穴と考えられます。またここでは、火を使ったと思われる焚き火の痕跡も見つかっています。
この場所では炭がまとまって見つかり、その周辺からサヌカイトの原礫を粗割りした破片や石屑のほか、仕上げまではしていないものの、石槍や石剣の形に石器に加工しようとしたことが窺える未完成品も出土しています。しかしその未完成品はいずれも、割れていたり一部が欠けている謂わば失敗品ばかりでした。当然のことですが、無傷の未完成品や完成された石槍などは、この石器製作の場からは持ち出されていたことになります。この遺跡からは僅か1点でしかも小さな破片ですが、弥生時代中期の土器が石器の未完成などとともに出土していて、サヌカイトの石槍などの製作も、この頃のものと考えられています。さて田尻峠で採掘し製作されたサヌカイト製の石器は、どこへ運ばれたのでしょうか。近畿地方では弥生時代中期の遺跡から、二上山産のサヌカイトの石鏃や石剣などが各地で出土しています。兵庫県の西部の遺跡では、香川県金山産のサヌカイトと、ほぼ相半ばする割合で出土しています。奈良盆地の代表的弥生時代集落である唐古・鍵遺跡では、直線距離にして12kmあまりしか離れていないこともあり、二上山サヌカイトを使った石器が多数出土しています。ここでは完成品以外に、人頭大の大きなサヌカイトの原礫もいくつか出土しています。これらの原礫はどれも一部が欠けた個所が認められます。
恐らく二上山周辺の原産地で礫の一部を打ち欠いて、サヌカイトの質を確かめたのだろうと想像されます。このように場合によっては、原礫のまま消費地まで運ばれたケースもあったようです。旧石器時代以来、有用な石器材料として利用され続けた二上山産のサヌカイトも、弥生時代後期を迎えると、急速に近畿地方の遺跡から姿を消してゆきます。時代が地域の統合という大きな社会再編に向かうなかで、各種利器の材料も石器から金属器へという文化的な転換がはかられたのでした。
《大坂山口神社》
639-0252奈良県香芝市★穴虫1499-1
祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)。式内社大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では★長尾街道に面する交通の要衝に鎮座されます。本殿は三間社流造の銅板葺きで、文化十三年(一八一六)の再建とされますが、寛永ニ年(一六二五)以来の棟札が残されています。それには、背後の山の石巌を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺とみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。拝殿は間口五間、奥行ニ間の割拝殿で、棟札によると延享元年(一七四四)の再建になります。また、平成元年三月には、本殿屋根を銅板葺きに改修、あわせて拝殿脇殿、上段の塀、手水舎などが新築されています。近世の『大和志』には、「在穴蒸村 今称牛頭天王」とみえ、牛頭天王社(祇園宮)と称されていたことがわかります。秋の大祭には、この牛頭天王に奉納する★宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。拝殿には、文久二年(一八六二)や明治十九年(一八八六)の奉納板番付があり、境内には馬場組記念碑や石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていました。この馬場組をリードしたのは、大阪相撲で活躍した地元出身の力士、大の松為次郎(一八五九~一九ニ一)で、大正四年(一九一五)境内で引退相撲を行ったあと、素人相撲の世話役として活躍されました。また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組が『竹園日記』などにみえ、周辺の墓地には古い力士墓があります。二上山麓の村々では相撲が大変盛んであったことがわかります。
《大坂山口神社》639-0251奈良県香芝市逢坂
式内社大坂山口神社は、穴虫とその北東約六〇〇mに位置する逢坂のニヶ所に所在し、ともに式内社と称しています。
《参考》「箸墓古墳」
築造について日本書紀は記す。「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)★大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。 大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも 」と。
特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭の三世紀後期から4世紀に築造された古墳であると考えられている。埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるという。この石材は、大阪府柏原市★芝山の石であることが判明している。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではない。
★かしわらイイネット/コラム・寄稿「柏原石おこし」3
https://kashiwara-e.net/column/4962/
「芝山」は玄武岩や安山岩という堅い火山岩でできています。そのため、大和川は芝山を迂回するように大きく北へ湾曲し、古くから現在に至るまで洪水の被害を何度も受けてきた場所でもあります。太古(約1億年前)の地殻変動によって生駒山系が隆起しても長い時間のなかで侵食が続き、河川の状態となっています。地層の分析から、芝山は★二上山の噴火が続いていた時期(1500万年前~1300万年前の間)の火山岩と考えられ、大和川はその流れに影響を受けることとなりました。流れ方には、そのほかにも★亀の瀬地すべりや断層などの影響も受けています。
大和川を見下ろすような丘陵に造られた★松岳山古墳群は、芝山の一部に存在し、その墳丘石積みには、芝山火山岩の玄武岩・安山岩と呼ばれる火成岩(マグマが地表で急に冷え固まった石)が使われています。特に玄武岩は濃い黒色が特徴で、柏原市において多く見られるものではありません。この芝山から産出された石が、松岳山古墳群だけではなく、奈良にある古墳時代前期の遺跡にも多く使われていることです。中でも桜井市にある纒向(まきむく)遺跡★箸墓古墳において、柏原市芝山産かんらん石玄武岩や安山岩の使用が、最近の調査によって判明しています。
日本書紀には「故大坂山石而造。則自山至于墓、人民相踵、以手遞傅而運焉」とあり、「大坂山から墓に至るまで人々が連なって手渡しで石を運んだ」と記されています。かつては、この大坂山とは二上山であり、箸墓古墳に使われた石は二上山のものとされていましたが、実際は柏原市芝山産の石が含まれていることが明らかになっています。★二上山周辺地域を大坂山とみなす考え方もあります。
★奈良県景観資産―二上山を眺望できる「首子古墳群」周辺―
http://www.pref.nara.jp/31277.htm
◆【二上山博物館】◆
639-0243奈良県香芝市藤山1-17-17 /0745-77-1700
http://www.city.kashiba.lg.jp/kanko/0000003666.html
香芝市は、古代から近代まで、二上山が産んだ3つの石で知られている。数万年前の旧石器時代から2千年前の弥生時代に至るまで、青銅や鉄と同じぐらい重要な資源であった★サヌカイト。5・6世紀に、王者の棺として切り出された★二上山凝灰岩。明治以降、全国の90パーセント余りを占めた研磨材としての★金剛砂。これらは、それぞれの時代の“原子の火”であった。今、ここに3つの石がよみがえり、日本史上にはたした役割が浮かびあがる。金剛砂が天体望遠鏡のレンズ研磨材として活用されているのは、先人の工夫が未来につながっていることを象徴している。二上山麓の、葛城の古代を歩みながら、未来への道をたのしんでください。
《NEWS》2019.6.25産経新聞より
奈良・香芝の平野塚穴山古墳に二上山凝灰岩の貼り石 斉明天皇の父の墓か
飛鳥時代の皇族の墓とされる奈良県香芝市の史跡・平野塚穴山(つかあなやま)古墳(7世紀後半)の墳丘が、近くの★二上山で産出された凝灰岩を平らに加工した張り石で装飾されていたことが分かり25日、香芝市教育委員会が発表した。同様の装飾は、天武・持統天皇が埋葬された野口王墓古墳(同県明日香村)と、斉明天皇の墓とされる牽牛子(けんごし)塚古墳(同)に次いで3例目といい、専門家は「斉明天皇の父、茅渟(ちぬ)王の墓説を補強する成果だ」と話している。平野塚穴山古墳は昭和47年の調査で、石室内から漆で布を塗り固めた「夾紵棺(きょうちょかん)」や組みひもを塗り固めた「漆塗籠棺(うるしぬりかごかん)」といった最高級の棺(ひつぎ)の破片が出土し、皇族の墓と推定されている。今回の調査では、墳丘斜面で約2メートル四方にわたり、一辺約15~30センチにカットされた張り石が約20点見つかった。当時は、傾斜に合わせてカットした面が表面になるよう並べられ、約25~30メートル四方で高さ5・4メートルの2段築成の方墳を装飾していたとみられる。石室の石には、石材を動かした跡とみられる「てこ穴」も8つあった。平安時代の法令集「延喜式」には、茅渟王は付近の地名を冠した「片岡(かたおかの)葦田墓(あしたのはか)」に葬られたと記され、平野塚穴山古墳が有力とされてきた。堺女子短大の塚口義信名誉学長は「娘の斉明天皇や孫の天武天皇の墓と同じ技術系譜を持つ石工集団が築造したと考えられ、文献の説を補強する」と指摘する。現地説明会は30日午前11時~午後3時。問い合わせは市教委生涯学習課(0745・77・1700)。
《参考》639-0251奈良県香芝市★逢坂
https://www.city.kashiba.lg.jp/shisei/0000000824.html
二つの坂が合体する峠に由来する説が有力。
《長尾街道 ~穴虫から長尾神社へ》
http://www.nantokanko.jp/kokaidou/187.html
長尾街道は堺市から穴虫峠を越えて、長尾神社へ通じる道です。大坂越えの道は穴虫東に向かう伊勢街道と長尾街道が分岐します。付近は道幅が狭いながらも、重厚な家並みが歴史を感じさせます。奈良県内の長尾街道周辺はすでに住宅地になってしまった場所も多いのですが、残された寺社や風景に時代を感じることができます。
近鉄二上駅~大坂山口神社(穴虫)~穴虫の集落~磯壁の地蔵堂~狐井杵築神社~狐井城山古墳~阿日寺(あにちじ)~阿弥陀橋~近鉄当麻寺前~竹ノ内街道~長尾神社~近鉄尺土駅(徒歩約3時間)
近鉄二上駅前のコンビニの横を曲がり、前方のこんもりとした杜をめがけて歩いていくと、大坂山口神社に辿り着きます。実は二上駅の東にも大坂山口神社があり、そちらは逢坂の山口神社、こちらは穴虫の山口神社と呼ばれています。相撲と大きく関わっていたというこの神社には、相撲の絵馬も奉納されていました。
穴虫の集落には古い町並みが残されています。街道沿いの家々は、かつての繁栄の名残をうかがわせる重厚な造りをしています。集落の途中の細い道を曲がって坂を登り、大坂山口神社の西側の参道を見てさらに進むと、道路元標が残され、もう1つの街道と出合います。これが大阪から穴虫峠を越えてきた長尾街道です。この付近にも古い家々が残っていますが、新しい道路がすぐそばを通り、その先は街道も自動車道路に吸収されて面影は消えてしまっています。
道路元標から坂を下っていくと、近鉄二上山駅付近に出ます。この周辺もすでに古い街道の趣は消え、自動車がスピードを上げ走り抜けて行きます。二上小学校を過ぎてまもなく、道は自動車道路を離れ南へ進んでいきます。古い街道とはわかりにくい道ですが、ゆるやかにカーブをつくり、道端に残されたお地蔵さんや小さな石碑がその面影を伝えています。
道なりに進んでいくと、やがて磯壁の住宅地に入ります。住宅地にある地蔵堂には鼻がかけてしまっている地蔵が祀られていて、その清潔なたたずまいからも住民に大切に守られていることがわかります。国道168号を渡ると、前方には香芝市最大の全長約140mの狐井城山古墳(きついしろやまこふん)が見えてきます。古墳の北側で下田から来た道と交わり、その交差点の東には狐井杵築神社と、恵心僧都が描いたという「板仏」がある★福応寺があります。「板仏」は毎年7月9日のみ拝観することができます。杵築神社にはかつて力くらべに用いられたという「かたげ石(力石)」が残されていました。
https://www.nihon-kankou.or.jp/nara/292109/detail/29210ag2132073598
古墳沿いに南へ進むと、道沿いに恵心僧都(えしんそうず)誕生の石碑が建ち、その奥に★阿日寺があります。この付近には阿弥陀橋もあり、この地で生まれ、延暦寺の僧侶となり、『往生要集』を著し、阿弥陀信仰を解いた恵心僧都ゆかりの地として知られています。
二上山を見ながら南へ進めば、道は近鉄当麻寺駅の近くを通り、葛城市役所當麻庁舎を過ぎ、やがて竹ノ内街道に合流します。峠から下る道は長尾神社の杜に続きます。伝説では奈良盆地に横たわる大蛇がいて長尾神社はその尾にあたり、頭は桜井市にある大神神社にあったのだそうです。周囲を住宅地に囲まれていますが、神社の杜は守られ、300m以上の長さがある参道が東に延びています。参道を進んでいくと近鉄南大阪線の線路に出て、振り返ると二上山が穏やかな姿を見せています。長尾神社付近は古代、交通の要衝の地で、東は竹ノ内街道が大阪へ、西は横大路が伊勢へ、南は下市街道が御所(ごせ)や下市へ延びていたのです。
《葛城「経塚」二十八宿》
http://yochanh.sakura.ne.jp/kyouzuka/kyouzukanoichi.html
★役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚である。葛城二十八宿経塚、葛城修験二十八宿などともいう。和泉山脈~金剛山地の山やその付近の寺社を中心に二十八ヶ所の経塚があり、現在も修験道の行場となっている。経塚には青岸渡寺(熊野修験)、七宝滝寺(犬鳴山修験)、転法輪寺(葛城修験)、聖護院(本山派修験)などの修験者による多くの碑伝が奉納されている。
【第一番経塚】友ヶ島虎島 妙法蓮華経 序品【第二番経塚】泉州神福寺 妙法蓮華経 方便品【第三番経塚】紀州大福山 妙法蓮華経 譬喩品【第四番経塚】入江宿 妙法蓮華経 信解品【第五番経塚】倉谷川 妙法蓮華経 薬草喩品【第六番経塚】志野峠 妙法蓮華経 授記品【第七番経塚】中津川 妙法蓮華経 化城喩品【第八番経塚】犬鳴山 妙法蓮華経 五百弟子受記品【第九番経塚】和泉葛城山八大竜王社(山頂)妙法蓮華経 授学無学人記品【第十番経塚】大威徳寺 妙法蓮華経 法師品【第十一番経塚】西の堂屋敷 妙法蓮華経 見宝塔品【第十二番経塚】東の燈明ヶ岳 妙法蓮華経 堤婆品【第十三番経塚】鎌の多輪 妙法蓮華経 勧持品【第十四番経塚】一本杉 仏徳多和 妙法蓮華経 安楽行品【第十五番経塚】岩湧寺 妙法蓮華経 従地湧出品【第十六番経塚】流谷の里 妙法蓮華経 如来寿量品【第十七番経塚】天見不動 妙法蓮華経 分別功徳品【第十八番経塚】賽ノ神谷 妙法蓮華経 随喜功徳品【第十九番経塚】神福山 妙法蓮華経 法師功徳品【第二十番経塚】石寺跡 妙法蓮華経 常不軽菩薩品【第二十一番経塚】金剛山湧出岳 妙法蓮華経 如来神力品【第二十二番経塚】大田和地蔵 妙法蓮華経 嘱累品【第二十三番経塚】倶尸羅 妙法蓮華経 薬王菩薩本事品【第二十四番経塚】平石峠 妙法蓮華経 妙音菩薩品【第二十五番経塚】高貴寺 妙法蓮華経 観世音菩薩普門品★【第二十六番経塚】二上山 妙法蓮華経 陀羅尼品第二十六★【第二十七番経塚】逢坂 妙法蓮華経 妙荘厳王本事品★【第二十八番経塚】亀ヶ瀬 妙法蓮華経 普賢菩薩勧発品
・・・話があっちこっち行きましたが、「二上山」おそるべしですね。