・・・「服部川駅」に集合、「雨」の予報がでていますが、なんとか午前中はセーフのようです、ホッ。
《服部川駅》
581-0865八尾市服部川町7丁目258
https://www.kintetsu.co.jp/station/station_info/station13006.html
単式1面1線のホームを持つ地平駅で、信貴山口行きと河内山本行きが同じホームに発着する。駅舎(改札口)はホームの信貴山口寄りにある。付近は40‰の急勾配区間であるが、ホーム部分は10‰に勾配が抑えられている。
※鉄道線路の勾配を表す。水平距離1000m当たりの高低(m)をさす。鉄道は一般的に道路より勾配が緩いため、パーセント%表示ではなく、パーミル‰表示で表現することが多い。
古代のくらし【上】「高安千塚」と「かまど」
https://www.city.yao.osaka.jp/0000014000.html
私たちの毎日の食生活に欠かせない台所用品といえば、炊飯器をまず思い浮かべますが、一昔前までは「かまど」でご飯を炊いていたことは、よくご存知のことと思います。それでは、このかまどはいつごろにできたのでしょうか。実は、高安山の山麓にある古代の古墳群「高安千塚」からも、そのヒントとなる出土品が発掘されています。高安千塚は6世紀代に造られた220基余りの横穴式石室の古墳群ですが、この中の郡川16号墳から、実用品ではないミニチュアのかまどと鍋が出土しています。このようなミニチュア炊飯具をお墓に供える古墳は、朝鮮半島からわが国にやってきた渡来人の墓に多く見られるものです。これは、かまどというものが元来、日本には無く、5世紀以降に朝鮮半島から渡来した人々がもたらしたものであることと関連しています。それまでの日本では、土器を炉の火に直接かけて調理していましたが、渡来人によって、持ち運びできる土製のかまどや作り付けタイプのかまどのほか、これに載せる取っ手付きの鍋、甑(こしき)といわれる蒸し器として使う土器がもたらされました。土製のかまどは、萱振遺跡や成法寺遺跡などで出土しています。これらの新たな「台所用品」は、効率よくおいしいご飯を炊くことのできるものとして、当時の人々の食生活を大きく変える出来事であったと見られ、急速に普及していったようです。古代の遺跡には、現代につながる人々の暮らしの物語がたくさん秘められています。
古代のくらし【中】「高安千塚」と「古代の装い」
https://www.city.yao.osaka.jp/0000014001.html
わたしたちの日々の生活で、髪形や服装を整えることは、身だしなみでもあり、おしゃれの楽しみでもありますね。それでは、古代の人々はどんな髪形や装いをしていたのでしょうか。高安山麓にある6世紀代の古墳群、「高安千塚」の箸塚古墳からは、須恵器の装飾付器台といわれる土器が出土しています。この器台には、小さな人物の像が付けられており、高安千塚マスコット「はしづか君」のモデルにもなっています。この人物は男性で、「みずら」といわれる髪を左右に分けてお下げ髪のように結ぶ髪形をしています。古代男性は、このような「みずら」の髪形が多かったことが、人物埴輪(はにわ)像などからもうかがえます。それでは、女性の髪形はというと、島田髷(まげ)の原型といわれる髪を前後に分けて折り曲げて紐などで結ぶ髪形をしていました。このほかに高安千塚では、服部川37号墳などから、耳環(じかん)といわれる耳飾りが出土しています。これらは金属の棒を丸く曲げて耳たぶに挟むもので、金のメッキがされたきらびやかなものです。また、服部川135号墳(うし塚古墳)からは、水晶製の切子玉や瑪瑙(めのう)製の首飾りの玉などが出土しています。現代では、イヤリングやネックレスは女性が主に付けるものですが、人物埴輪などを見ると古代では男性も女性も付けています。古代では、貴金属や玉類は大変貴重なものであったことから、身分の高い人が自らの権力を示すために身に付けたことが多かったようです。古代の人々の装いは、現代の感覚とは少し異なったものであったようです。
古代のくらし【下】「高安千塚」と「馬」~
https://www.city.yao.osaka.jp/0000014002.html
馬といえば、現代ではあまり身近に見ることはなくなりましたが、一昔前までは、乗馬用をはじめ、人々の生活に欠かせない大切な動物でした。それでは乗馬の風習は、いつごろから始まったのでしょうか。6世紀代に造られた「高安千塚」の箸塚古墳出土装飾付器台には、人物像とともに鞍を付けた馬の小像が付けられています。このほかにも大窪・山畑南支群の土手山古墳からは、杏葉(ぎょうよう)といわれる馬の装具が出土しています。馬や、馬を使い慣らす技術は、5世紀ごろに朝鮮半島からわが国に伝わりました。市内の八尾南遺跡では、木製の鞍が出土しており、5世紀代の馬飼いのムラの跡と考えられています。また生駒山麓では、四條畷市を中心に馬飼い関係の遺跡がたくさん出土しています。これは古代、わが国の玄関口であった河内には、馬とこれに関わる技術が渡来人によっていち早く伝えられたことによるものです。6世紀代に入ると、乗馬の風習は身分の高い人を中心に広まり、馬の装具である馬具は、この時代の古墳に多く副葬されています。高安千塚のほかにも、府下最大の6世紀代の横穴式石室墳で府史跡の愛宕塚古墳からは、金銅張りの子持ち剣菱形杏葉をはじめとする豪華な馬具類が出土しています。このような馬具は実用品というよりは、これを所有する人の権力を示すものであったようです。ところで、現代では馬といえば脚の長いサラブレットを思い浮かべますが、この当時、朝鮮半島からやってきた馬は、脚が短く背の低い蒙古系の馬で、現代では木曽馬といわれる馬が最も近いそうです。
・・・まずは、「来迎寺」に向けて緩やかな上り坂を歩きます。サクラが美しく咲いていました。地元の方から、演歌歌手の方が寄贈した「河津桜」だと教えていただきました。
《河津桜》
オオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑種であると推定されている。1月下旬から2月にかけて開花する早咲き桜である。花は桃色ないし淡紅色で、ソメイヨシノよりも桃色が濃い。また花期が1ヶ月と長い。和名は、1955年に飯田勝美が静岡県河津町で原木を偶然発見したことが由来である。毎年2月上旬から行われる河津町の河津桜まつりは有名である。
《来迎寺》
581-0863八尾市大窪35/072-941-1529
http://bunka.city.yao.osaka.jp/detail/index?cultural_id=153
聖衆山護念院来迎寺といい、浄土宗で阿弥陀如来を本尊とする。本寺の創建年月は詳らかではないが、江戸の初期と思われる。宝永6(1709)年当寺中興の祖の筆という「開基由来記」によると、信心深い老母に孝養を尽くす為に草庵を結んだのが、その始めといわれる。寺号のいわれは、近くにその昔行基菩薩により開かれた来迎井という井戸の跡があり、そこから来迎寺と称された。付近一帯は、高安山古墳群で境内にも奥行7メートルもある塚があり、その石組は代表的なもの。また北側の山の傾斜地には、家型石棺の入っていた横穴式円墳がある。境内から眺めはよく、晴れた日には六甲の山、大阪湾が見える。
《大窪・山畑7号墳、8号墳》
http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1446
◆大窪・山畑7号墳(抜塚):浄土宗来迎寺の墓地内の南側、現在地から右手に見える横穴式石室墳です。トンネルのように、通りぬけることができることから、抜塚ともよばれています。現在、残っている部分は、羨道といわれる石室の通路部分です。羨道の長さは8m、高さは2.2mあります。本来はこの部分の北側、本堂寄りに、玄室といわれる棺を納めた部屋がありました。玄室は、長さ5~6m、幅3m前後と推定され、石室の本来の長さは、13~14m前後になると想定でき、高安古墳群中で最大級の石室の1つであったと考えられます。石室には、巨大な石材が使用されており、奈良県明日香村の石舞台古墳と同じ時期、7世紀前半頃に造られた古墳と考えられます。
◆大窪・山畑8号墳:墓地内の上手、来迎寺本堂寄りにある横穴式石室墳で、墳丘はわかりにくくなっていますが、墓地に囲まれて石室が残っています。石室の全長は6.8m、玄室は、長さ4.4m、幅1.7m、高さ2.2mの石室です。小さめの石材を使用し、玄室の平面形状が縦長の長方形をしています。これらは、古いタイプの石室を示すもので、高安古墳群の墓造りが開始されてまもない頃、6世紀中頃に造られた古墳です。大窪・山畑7・8号墳は、「高安千塚」ともいわれる高安古墳群の集中地域のなかでも、北側の大窪・山畑南支群内の古墳です。来迎寺墓地内に残されたこれらの古墳は、「高安千塚」を造った人々の力の大きさや、墓造りが開始された頃の石室のありかたを知ることのできる貴重なものです。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2008年)】
・・・次は「神光寺」へ。
《神光寺》
581-0865八尾市服部川1023/072-941-8672
http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1230
服部川の東方山腹にあり、谷一つ隔てて、郡川の法蔵寺に相対する。医王山薬師院神光寺と称し、曹洞宗蔭涼寺末である。享保年間(18世紀初め)に万徹和尚の開基で、薬師如来を本尊とし、本堂前に揚げてある“天玄堂”の扁額は、徳川光圀の帰依した東皇心越の書である。風景よく、参道には桜並木があり、桜の名所として知られ、春の花時には非常に賑わいを見せる。また付近一帯は、横穴式石室の後期古墳の群集地で、至る所に古墳がみられる。山門前には、懐徳堂、含翆堂創始者らの墓所を示す標石がある。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
・・・「服部川7号墳」そして「二室塚古墳」(服部川25号墳)へ。
・・・一番の目的地、「二室塚古墳」はもうすぐです。