八尾市(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・百舌鳥・古市古墳群からはずれますが、ご近所ということで、

 

《NEWS》2019.3.18朝日新聞より

国史跡古墳の内部でインスタ映えする写真を撮りませんか――。大阪府八尾市は30日、国史跡の高安千塚古墳群の石室内をライトアップして写真撮影会を行う。より多くの人に身近な古墳の魅力を知ってもらおうと、初めて開催する。高安千塚古墳群は市東部に広がり、230基の古墳が確認され、古墳時代の有力氏族の墓とみられている。明治時代には、大森貝塚(東京都)を発見した米国の動物学者エドワード・モースも調査に訪れたことで知られ、2015年に110基の古墳が国史跡に指定された。撮影会では市史跡も含め5カ所の古墳を巡る。内部が暗い3カ所は石室内をライトアップ。1カ所は通常は立ち入り禁止だが、当日は特別に入ることができる。市教委文化財課の職員も同行し、古墳についての解説もある。同課の担当者は「ぜひ古墳の造りや石の大きさを間近で堪能し、珍しい写真を撮ってほしい」と話す。30日午前10時~正午。近鉄服部川駅集合、近鉄信貴山口駅解散。参加無料、定員20人で、応募多数の場合は抽選。申し込み締め切りは22日必着。申し込みと問い合わせは同課(072・924・8555)。

 

 

★「高安千塚古墳群/写真撮影会」について

https://www.city.yao.osaka.jp/0000040156.html

内容:八尾市の国史跡の一つである高安千塚古墳群で、古墳の散策と写真撮影会を行います。当日は、古墳の石室内部をライトアップします。ぜひ、この機会に写真を撮ってみませんか。

【日時】平成31年3月30日(土)午前10時~正午(解散予定)※少雨決行

【集合場所】近鉄服部川駅改札口【定員】20名(抽選)

【持ち物など】カメラ、携帯電話、スマートフォンなど、写真撮影ができるものをご持参ください。歩きやすい服装でご参加ください。

【申込み方法】所定の申込書に必要事項を記入のうえ、申し込みください。(文化財課窓口、FAX、メール、郵送)申込用紙は、市役所本館3階文化財課にあります。下記からもダウンロードできます。

【応募期間】平成31年2月21日~3月22日(必着)

【問合せ先】〒581-0003八尾市本町1-1-1八尾市教育委員会教育総務部文化財課

電話:072-924-8555 FAX:072-924-3995 Eメール:bunkazai@city.yao.osaka.jp

 

・・・ダメもとで応募したら当たりました。後で聞いたところによると、50人ほどが応募したので2班にわけて、午前の部・午後の部を実施したそうです。ようするに応募者全員が参加できたわけです、いいことですね。

 

 

《高安千塚古墳群》

https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

大阪府八尾市の東部に位置する高安千塚古墳群は、生駒山系の高安山麓の標高60~180m前後の西側斜面に分布している。高安千塚古墳群の存在は古くから知られており、延宝7年(1679)の『河内鑑名所記』や享和元年(1801)の★『河内名所図会』などに記載がみられる。

 

※「河内名所図会」を訪ねて(その2)

https://www.city.yao.osaka.jp/0000014004.html

左の絵は、何をしている場面か分かりますか。よく見ると左側の人たちは何かを掘り出しています。掘り出された土器や勾玉、管玉らしきものを見ている人もいます。これは、河内名所図会の「郡川のほとりの千塚」の場面で、古墳から副葬品を掘り出している様子を描いたものです。「千塚」の説明にも「窟中(※石室)より陶器の品類あるひは金環、鉄針、錬石の類(※副葬品)出る」とあり、江戸時代の高安古墳群で副葬品を求めた乱掘が行われていたことが分かります。明治時代に入ると、名所図会を参考にして、高安古墳群を研究しようとする人々が訪れるようになります。東京の大森貝塚を発掘調査した★エドワード・シルベスター・モースや、古墳研究の父と言われる★ウイリアム・ガウランドなど外国人研究者が石室の実測などの調査を行い、日本を代表する遺跡の一つとして、海外に紹介しました。外国人研究者の調査は、日本人の考古学者にも影響を与え、東京人類学会を創設した坪井正五郎や藤井寺市国府遺跡の発見者で後に地理学者となる山崎直方など日本考古学の発展に重要な役割を果たした人物らも、高安古墳群に関心を寄せました。名所図会では、洞穴のように見えましたが、横穴式石室の位置を正確に描いており、作者の秋里籬島は、絵師とともに実際に現地を訪ねたようです。現地への探訪意欲をかき立てる正確な最新情報こそが、名所図会の人気の理由だったのです。

 

【EdwardSylversterMorse】エドワード・シルベスター・モース(1838~1925)

https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/kaizuka/kaizuka.html

アメリカ人の動物学者で貝の研究をしていました。1877年(明治10)腕足類という貝の研究のため来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を発見しました。それが大森貝塚です。

 

 

【William GOWLAND】(1842~1922)★『ガウランド・日本考古学の父』/朝日新聞社2003

イギリスの冶金技術者のウィリアム・ガウランドが、日本の古墳を写真撮影したものを解説でまとめたものです。和文と英文で、併記されています。ヴィクター・ハリス(VictorHARRIS)さんと後藤和雄さんによる責任編集。ガウランドは、お雇い外国人として、1872(明治5)年に来日し1888年(明治21)年まで、大阪の帝国造幣局で硬貨の鋳造の指導を行いました。日本に滞在中に多くの古墳の写真を撮影しており、当時の様子を知ることができる貴重なものです。本書の内容は、以下のように、主に近畿地方の古墳の写真が掲載されています。

・ウィリアム・ガウランドの日本における足跡(ヴィクター・ハリス)

・ガウランドが撮った日本の古墳(解説:植田宏範)

●大和/•コナベ古墳•文殊院西古墳•文殊院東古墳•ミサンザイ古墳(神武天皇陵)•四条塚根山古墳(綏靖天皇陵)•艸墓古墳•梅山古墳(欽明天皇陵)•見瀬丸山古墳•檜隈墓(吉備姫王墓)•飛鳥の猿石•橘寺の二面石•鬼の俎・鬼の雪隠•小谷古墳•岩屋山古墳•平野塚穴山古墳

●河内/•誉田山古墳(応神天皇陵)•道明寺天満宮拝殿•市野山古墳(允恭天皇陵)•長持山古墳•岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)•河内大塚山古墳•平尾山千塚古墳群•高安千塚古墳群(1)•高安千塚古墳群(2)•高安千塚古墳群(3)•安福寺横穴墓群•山田高塚古墳(推古天皇陵)•鹿谷寺跡の十三重石塔•岩屋

●和泉/•百舌鳥陵山古墳(履中天皇陵)•大仙古墳(仁徳天皇陵)

●摂津/•太田茶臼山古墳(継体天皇陵)•耳原古墳•将軍塚古墳•塚原古墳群•桜古墳•中山寺白鳥塚古墳

●山城・丹波/•甲塚古墳•淳和天皇火葬塚•鹿谷古墳群

●伊予/•野々瀬古墳群

●出雲・豊前/•上塩冶築山古墳•綾塚古墳

ガウランド・コレクション(解説:大塚初重、撮影:後藤和雄)

•芝山古墳出土遺物•鹿谷古墳群出土遺物•天皇陵古墳出土遺物•祭祀具•装身具•馬具・武具•須恵器

・土師器その他•写真が語るW.ガウランドの軌跡(上田宏範)

•W.ガウランドと古墳研究(大塚初重)

•ガウランド・コレクションとの出会い(後藤和雄)

•ガウランド作成「日本のドルメンと古墳・横穴墓分布図」

•大英博物館所蔵・ガウランド撮影写真リスト

 

・・・誘惑に負けて、購入しました。

 

※『ロマイン・ヒッチコック ─滞在二か年の足跡 ─』

「日本考古学の父」といわれる英国人ウィリアム・ガウランドが、米国人ロマイン・ヒッチコックとともに、ガラス乾板による写真撮影を行い、「双室ドルメン」として、いち早く海外に紹介した古墳として貴重な学史を有する古墳です。ガウランドは、大阪造幣寮(おおさかぞうへいりょう)(現在の造幣局)の技術指導のため、わが国に招かれたお雇い外国人でした。彼は、日本各地の古墳の調査研究を行い、その業績は古墳の科学的研究の基礎を築いたものであり、「日本考古学の父」といわれています。ヒッチコックもまた、お雇い外国人であり、卓越した写真技術を持ち、日本の古代研究等にも大きな業績を残しています。彼らは、明治20~21年(1887~88年)に、高安古墳群を訪れたと考えられており、その写真には、当時の二室塚古墳石室の姿が明瞭に残されています。

※「古代氏族とその遺宝-W.ゴーランド教授を顕彰して-」

ウィリアム・ゴーランドは、明治政府がイギリスより大阪造幣寮に招聘した化学兼冶金技師。日本の古墳研究の先駆者としても名高く、日本考古学の父と呼ばれている。さらに、「日本アルプス」の命名者としても知られています。

 

 

明治12年(1879)には米国人研究者のE.S.モースが、さらに明治14~21年(1881~1888)には英国人研究者のW.ガウランドが古墳群を調査するなど、いち早く海外にも紹介されている。昭和35~37年には、★白石太一郎が分布調査を行い、昭和41~43年には大阪府教育委員会による分布調査と一部の古墳の墳丘測量と石室実測調査、昭和48~49年には有志による分布調査、昭和61~平成2年には市民団体による分布調査が行われ、古墳群の様相が明らかになっていった。平成16年度からは、八尾市教育委員会が分布調査を中心とする基礎調査を開始した。また、分布調査と併行して、特徴的な古墳の墳丘測量や石室実測調査、さらには既往出土品の調査を行った。そして、これらの調査成果を総括した『高安千塚古墳群基礎調査総括報告書』を平成23年度に刊行した。古墳群の総数については、大正時代には565基あったとの記述もあるが、現在は224基が確認されている。谷筋ごとの分布状況から、北から大窪・山畑支群、服部川支群、郡川北支群、郡川南支群の★4つの支群に分かれている。このうち、最も多く古墳が築かれているのが服部川支群であり、その基数は132基に達する。墳形はほぼすべてが円墳であり、その直径は8~27mである。埋葬施設については、現在確認されているものはすべて横穴式石室である。その規模は石室長約5~12mと小型であり、片袖式、両袖式、無袖式の3種類がある。玄室形態は長方形のものと方形のものの2系統が認められる。また服部川25号墳と郡川11号墳では、玄室部が2つ連なる二室構造を成す特異な形状の横穴式石室も確認されている。古墳群は6世紀前半に郡川北支群を除く3つの支群において造営が開始され、大窪・山畑6号墳に代表されるように、片袖式の横穴式石室が構築される。この時期の特徴としては、郡川16号墳のように天井がドーム状を遡る石室が構築され、かつ韓式系土器やミニチュア炊飯具などが副葬品として出土する古墳が造営されるなど、渡来系要素が認められる。一方、古墳群の最盛期である6世紀後半には渡来系要素は希薄になり、横穴式石室については郡川1号墳や服部川2号墳のように両袖式が出現する。また、石材の大型化や石積みの規格が進んでいく傾向も認められる。古墳の造営は7世紀前半で終焉を迎え、この頃には大窪・山畑5号墳のように小型で無袖の横穴式石室が作られるのみとなる。このように、高安千塚古墳群は畿内有数の大型群集墳であると共に、★6世紀に当該地域に居住していた渡来系集団と地域社会との関係が窺えることから、当該地域の歴史的及び社会的状況を考える上で重要な事例である。今回は高安千塚古墳群のうち、条件の整った服部川支群を中心に史跡に指定し、万全の保護を図るものである。

 

 

※6世紀は、聖徳太子や蘇我馬子・物部守屋が歴史に登場する時代です。

 

《NEWS》2015.4.3日本経済新聞より

迫力の石室、モース魅了/高安千塚古墳群(時の回廊)

河内平野の東縁、高安山の麓に関西有数の群集墳「高安千塚古墳群(大阪府八尾市)」がある。残存する224基の多くは6世紀に築かれた円墳で、横穴式石室を備える。大森貝塚(東京)を発掘した米国人研究者モースが明治12年(1879年)に調査し、「日本のドルメン(巨石墓)」として海外に紹介したことで日本考古学史に名を残す。八尾の街を見下ろしつつ、造園用樹木の畑が広がる高安の山裾を歩くと、木立の間のあちこちに石室の口が開いている。私有地である上、安全面から立ち入れない古墳が大半だが、一部が見学できる。その1つ、郡川1号墳を訪ねた。法蔵寺境内にあり、開山塚古墳とも呼ぶ。「18世紀に寺を開いた好山和尚の墓が近くにあるためだろう」。有沢博道住職が教えてくれた。モースはこの古墳を調べ、石室の精密な図面を作製している。内部に照明は無い。狭い羨道を懐中電灯を頼りに、腰をかがめ8メートルほどおそるおそる進むと玄室に至る。天井は約3.8メートルの高さ。滴る水音が暗闇に響く。日本神話の「黄泉国(よみのくに)」は横穴式石室がモチーフ、との説を思い返した。近くの来迎寺には大窪・山畑7号墳もある。玄室が失われ、長さ約8メートルの羨道のみトンネル状に残るユニークな姿で、「抜塚」の別称もある。高安に古墳群が形成され始めたのは6世紀前半。石室の天井がドーム状で韓式系土器を副葬するなど、渡来系の特徴が見られる。それが6世紀後半になるとこうした要素は影を潜め、代わりに大和に準じた規模や構造の大型石室が増える。7世紀に入ると、ぱったり築かれなくなった。河内に移り住んだ渡来系氏族が、次第に地域に溶け込みつつヤマトの有力者の支配下に組み込まれた――。古墳研究の第一人者、白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館館長はこう読み解き、その有力者は河内を拠点とした★物部氏だと唱える。「587年、蘇我馬子との抗争で物部守屋が敗死した後、高安の古墳群を築いた一族も衰えたのだろう」横穴式石室が密集する奇観は古くから広く知られ、大坂城を築く際に石材を調達した記録がある。江戸期には観光地となり、「河内名所図会」などにも紹介されている。近代以降は幾多の考古学者の関心を集めた。モースの調査から8年後には「日本考古学の父」とされる英国人研究者ゴーランドも訪れ、様々な写真などを残している。白石館長もその魅力に引かれた一人だ。大学院生だった50年ほど前、この古墳群を踏査して論文をまとめた。「発掘しなくても石室を詳しく観察でき、古墳群の成り立ちを考えることができる貴重な研究対象だった」と振り返る。近年は「開発の波が押し寄せ、保存対策が急がれる」と八尾市教育委員会文化財課の藤井淳弘さんは話す。大正期には565基あったとされるが今では半分以下。うち107基が2015年3月、国史跡に指定され、保存整備がこれから本格化する。観光名所だったかつてのにぎわいを取り戻そうと藤井さんらは意気込む。