銀行今昔 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・吹田市にお住いの柳原信雄さん(なにわなんでも大阪検定1級)の、大阪の銀行調査はとても素晴らしいのではじめに紹介させていただきます。

 

 

《NEWS》2018.4.1日本経済新聞より 

さらば「東京」/三菱UFJ銀行に行名変更 

三菱東京UFJ銀行は1日、「三菱UFJ銀行」に名称を変更した。行名変更は2006年に旧東京三菱銀、旧UFJ銀が合併してから初めて。戦後、世界で有数の貿易銀行として日本の国際金融を発展させた「東京銀行」の名残は行名から消える。持ち株会社の三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)と冠を合わせ、グループ一体経営を進める。1日までに、全国の支店や支社、出張所515拠点で、看板の掛け替え作業を終えた。支店の行員らは、振込用紙など備品の入れ替えを進め2日の営業に備える。英語表記は「MUFG Bank」に統一する。海外拠点は当局認可を経て、7月までに変更を終える見通しだ。 

 

・・・行名変更の「真相」(舞台裏)は、悲喜こもごものようです。 

 

《参考》ビジネスジャーナルより 

https://biz-journal.jp/2018/05/post_23308.html

日本取引所グループがまとめた「2005年以降商号変更会社一覧」によると、2005年から18年4月1日現在までに上場企業641社が社名変更した。旭硝子は18年7月1日から社名を「AGC」に変更する。世界的に認知されている企業ブランドと社名を統一する。1907年の創立以来、社名から初めて「硝子」が外れる。島村琢哉社長は社名変更の理由をこう語っている。「旭硝子は慣れ親しんだ名前だが、いろいろなことをやっている会社として理解してもらうほうが、会社の将来のためによいのではないか」旭硝子は化学品や電子部材、セラミックなど、ガラス以外に幅広く事業を展開している。そこで、グローバル展開にはAGCのほうが効率的と考えたわけだ。北越紀州製紙は18年7月1日に社名を「北越コーポレーション」に変更する。大手製紙会社で、社名から「製紙」を外すのは王子ホールディングスに続いて2社目。北越紀州製紙は2009年、新潟県が発祥の北越製紙が三重県で創業した紀州製紙を買収して誕生した。社名を変更するのは9年ぶり。電子化が進み、印刷・新聞用紙の需要が減るなど、製紙業界は苦境に立たされている。北越紀州製紙は紙の原料となるパルプの生産や紙の加工事業も手掛ける。社名変更で、製紙への依存からの脱却を目指すイメージを打ち出す。19年1月1日には、東洋ゴム工業が「TOYO TIRE(トーヨータイヤ)」に社名を変更する。15年に発覚した免震ゴムの耐震偽装問題を受け経営体制を一新。社名を変更して心機一転を図る。18年4月1日付で、パナホームがパナソニック ホームズに社名変更した。17年10月、TOB(株式公開買い付け)と株式併合によってパナソニックの完全子会社になった。社名変更は、統一性を重視するパナソニックのブランド戦略に基づく。(以下略) 

 

《NEWS》2018.8.1産経ニュースより 

御堂筋101mビル完成、規制緩和第1号/三菱UFJ銀行大阪ビル 

541-0044大阪市中央区伏見町3-5-6 

大阪市のメインストリート、御堂筋で建て替えが進んでいた三菱UFJ銀行大阪ビル(同市中央区)が完成し1日、竣工式が開かれた。地上21階建ての本館の高さは101.35メートルで、御堂筋の高さ規制が大阪市によって緩和されてから第1号となった。低中層部の外装は石張り、列柱デザインの重厚な構え。1階は一般の人も出入りできる★カフェや★ギャラリーを設け、銀行が保有する絵画や貨幣・両替商道具などを紹介する。御堂筋は景観に配慮して建物の高さ規制が設けられているが、沿道活性化のため段階的に規制緩和されてきた。平成26年には50メートルを超える上層部が歩道からの後退幅に応じて高くできるよう再緩和。三菱UFJ銀行大阪ビルは、旧ビル時代の2倍超の高さになった。

 

・・・規制緩和第1号だったんですね。今後、御堂筋の雰囲気がかわってくることでしょう。

 

 

★三菱UFJ銀行大阪ビル「ギャラリーラウンジ」/企画★乃村工藝社 

https://www.nomurakougei.co.jp/achievements/detail/400

三菱UFJ銀行大阪ビルの建て替えに伴う、1階賑わい施設の開発プロジェクト。2013年春より企画検討をスタートし、2018年8月開業。「周辺地域や御堂筋界隈の賑わいづくり」と「銀行建築としての上質な場の創造」を目的として、カフェとギャラリーラウンジを導入致しました。ギャラリーには、銀行様所有の絵画や歴史資料(貨幣、両替商道具など)を展示し、くつろぎながら気軽にアートや歴史に触れられる空間となっています。また、周辺の名所・旧跡を紹介するコーナーも併設し、周辺のまち歩きにつなげる工夫をしています。開発に際して弊社は、企画・コンサルティング、デザイン・設計・監理、展示物や家具・什器等の制作・施工を担当し、開業後の運営も一部お手伝いさせて頂いております。 

https://www.youtube.com/watch?v=ls8WRj_RVIc

 

●「カフェレクセル御堂筋淀屋橋店」 

https://www.doutor.co.jp/lex/

カフェレクセル、8月2日に三菱UFJ大阪ビルで御堂筋淀屋橋店をオープンした。三菱UFJ大阪ビルは、淀屋橋で8月1日に竣工した本館の高さが100メートルを超える、大阪市による御堂筋沿いのビルの高さ制限が規制緩和されてから建て替え第1号となる大阪の新たなランドマークとなるビルである。株式会社ドトールコーヒーが運営するカフェレクセルは、スペシャルティコーヒーと日本のコーヒー文化の融合をテーマに高品質なコーヒーを一杯ずつ抽出した「A CUP OF EXCELLENCE(=最高の一杯)」が楽しめるカフェ。2018年8月時点で関東圏に4店舗運営しており、御堂筋淀屋橋店は関西1号店となる。

 

・・・「カフェレクセル」も第1号だなんて、なんでも1番が好きなのかも?

 

 

《大阪商法会議所跡》 

中央区高麓橋三丁目6 三菱UFJ銀行大阪営業部★北東角 

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009606.html

天下の台所として繁栄していた大阪も、明治維新により致命的な打撃をうけた。このため大阪の経済発展を願って、会議所設立の気運が高まり、明治11年8月その開設をみた。初代会頭となった★五代友厚らの情熱と、すぐれた経済感覚により建て直しがはかられ、今日の大阪発展の基礎を確立した。昭和3年には名称も「大阪商工会議所」となり、現在に至っている。 

 

★大阪商法会議所の設立と動機 

https://www.osaka.cci.or.jp/Shoukai/Rekishi/01.html

天下の台所と謳われた大阪は、明治維新の改革で大きな打撃をうけ、経済活動は極めて衰退した。その主な原因は、上方で主に商品取引の際に基準とされていた銀目(銀建の慣行)の廃止や株仲間の解散で商取引きが混乱し、また度々のご用金調達、藩債の整理が行われて、富家や両替商は大部分の資産を失った。そのうえ従来の商人は新時代に素早く対応する姿勢を欠いていたためであった。こうした衰退を救い、大阪経済の繁栄を再現するため、新しいタイプの財界指導者有志15名によって、明治11年7月「大阪商法会議所」設立の願書が大阪府知事へ提出された。同年8月27日、大阪府の認可をえ、今日の大阪商工会議所の礎石が築かれた。渡辺大阪府知事に提出された設立儀願書によると「欧米各国に於て多く商法会議所の設け有之其実践を伝聞せしに頗る便益を極め即に東京府下に於ては有志の者発起其筋へ上願許可を蒙りたる趣御府下の儀商家稠密物品輻輳の地。然るに各自旧慣に安んじ商則も不相立より一般の公利を興す能ず。依て商法会譲所を設立して広く論議を尽し候は、自然内外商業の利害を明らかにし会員協同の力生じ、随って全般の公利を興し、商業の成跡を改良するに至り可申は必然にて……」云々と述べている。このように大阪経済の振興が会議所設立の直接の動機であった。

 

 

《参考》「浪華商工技芸名所智掾商用手引」 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803734

http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/osaka-toshi/doc_naniwa_syoukou.html

明治18(1885)に、亀岡佐七郎によって編集・出版された大阪市中の店を紹介した書物。大阪市中を「上町之部」「船場之部」「島ノ内之部」などとして地域別に分類し、扱われている商品とその経営者の名前が掲載されています。また、巻末には「有名諸大家」「能狂言」などの項目が立てられ、当時の大阪の文化人をはじめ各界の著名人が列記されています。明治中ごろの「商都大阪」の繁栄を知ることができる資料です。 

http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/gallery.do;jsessionid=BA2DBC54B190A268D205AD96942B1C50?&smode=10&gid=52

重要な財政経済問題についての施策を政府や大阪府に建議・報告、また同業組合の設置や貿易振興に尽力し、衰退した大阪経済の再生を図りました。明治23年、政府が「商業会議所条例」を制定したのにともない、明治24年1月に「大阪商業会議所」へ改称、また昭和2年「商工会議所法」が制定されたことにより、昭和3年「大阪商工会議所」に改称されます。現在、大阪商工会議所前には初代会頭★五代友厚銅像が建立されています。 

https://www.sojitz.com/history/jp/company/post-114.php

NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデル・広岡浅子の夫、信五郎は日本綿花(現・双日)発起人の一人。日本綿花は、大阪商人ら25名によって設立され、彼らの多くは五代友厚らが主導した大阪商法会議所(後・大阪商業会議所、現・大阪商工会議所)の会員となり、大阪の近代化に尽力した。明治11(1878)年に設立された大阪商法会議所は、五代友厚が初代会頭となり、第3代、第5代の会頭は日本綿花発起人で社長を務めた田中市兵衛が、第6代会頭は、同じく日本綿花発起人の浮田桂造が務めた。明治24(1891)年に大阪商法会議所が、大阪商業会議所に改組した際に、大阪の有力商人50名が発起人として名を連ね初期会員として登録された。その中には、加島銀行の広岡久右衛門(信五郎の弟)の名があり、それ以外に9名が日本綿花発起人と重なる。尚、大阪商法会議所の設立された翌年の明治25(1892)年に日本綿花が設立されている。こうした歴史的背景もあり、日本綿花、ニチメンそして現在の双日にいたるまで、大阪商工会議所★会員番号1番であり続けている。 

https://www.zenitaka.co.jp/works/achievements/05-02.html

 

・・・「三菱UFJ銀行大阪ビル」が建替えられ、御堂筋に面した植え込み部分に設置されていた「跡碑」はどうなるのか、とても心配していたのです。