大山崎(山崎)4 | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「宝積寺」から「大山崎山荘」の裏側に抜けて、 最終目的地です。

 

◆【大山崎山荘美術館】◆ 

618-0071京都府乙訓郡大山崎町大山崎銭原5-3/075-957-3123 

https://www.asahibeer-oyamazaki.com/

美術館本館である「大山崎山荘」は、もとは関西の実業家★加賀正太郎(1888~1954)の別荘として、大正から昭和にかけ建設されました。加賀正太郎は、証券業をはじめ多方面で活躍した実業家である一方、大山崎山荘で蘭の栽培を手がけ、植物図譜《蘭花譜》を刊行するなど、趣味人としても大きな業績を遺しました。加賀は、ニッカウヰスキーの創業にも参画し、晩年には同社の株を深い親交があった朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長★山本爲三郎に託しました。この縁が、現在の美術館へと受け継がれていきます。ビールとウイスキーという新たな文化をわが国にもたらした二人が紡いだ時代の糸は、やがて桂川、宇治川、木津川、三つの川が合流するこの大山崎の地でひとつになります。1954年に加賀正太郎が亡くなり、ついで加賀夫人がこの世を去ると、1967年に大山崎山荘は加賀家の手を離れることになりました。幾度かの転売ののち、建物の老朽化が進んだこともあり、1989年には山荘をとり壊し、大規模マンションを建設する計画が浮上しました。しかし、地元有志の方を中心に保存運動が展開され、京都府や大山崎町から要請を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として公開することになります。アサヒビール大山崎山荘美術館は、歴史ゆたかな土地に建つ貴重な近代建築と、同時代の先端を行った芸術運動の遺産、そして国際的に活躍する建築家★安藤忠雄が手がけた現代建築の三つを擁して、1996年に開館しました。2004年には、「大山崎山荘」の6つの建物、霽景楼[現本館]、彩月庵[茶室]、橡ノ木茶屋、栖霞楼[物見塔]、旧車庫[現レストハウス]、琅玕洞[庭園入口トンネル]が国の有形文化財として登録されました。開館9年を迎えた2005年には来館者が100万人を越え、特色あるコレクションと建築、豊かな自然をともに楽しむことのできる美術館として、多くの人に親しまれています。

 

 

【加賀正太郎】(1888~1954) 

明治21年1月17日に大阪市東区今橋2丁目で生まれた。実家は大阪船場の商家「富商加賀商店」で江戸時代から両替商を営んでおり、明治に入ると証券業にも参入していた。東京高等商業(現在の一橋大)で学ぶと、22歳の時にヨーロッパに遊学。ロンドンの日英博覧会を見学すると、アルプスのユングフラウ(標高4158m)には、日本人で初めて登頂している。イギリスでは英国王立の植物園であるキュー・ガーデンでなどで蘭栽培を見学し、園芸にも深い関心を持つようになった。そして11年ぶりに、1911年(明治44)に日本に戻ると、恵まれた経済力と卓越した才能を発揮して、加賀証券の社長となった他、他には山林経営・土地開発・ゴルフ場設計・ラン栽培などで手腕を発揮した他、ヨーロッパの登山用具などを日本にもたらしてもいる。そして、1911年6月、ウィンザー城からの眺めに似た情景が望めるとして、山崎・天王山の中腹に高大な土地を購入し、1917年までに別荘を建築。当時、珍しい鉄筋コンクリート製にも拘わらず、チューダー様式の外観で、ハーフティンバー工法風の木の柱などが外壁にある建物となっており、ヨーロッパでの経験を活かし加賀正太郎が自ら家具や道路に至るまで設計して建てた。山荘を設計するにあたり、庭も山荘の大切な要素と加賀正太郎は考え「悠々居」と呼んでいた山荘本館の下には3つの池「琵琶の池」「一の池」「二の池」を配して、庭と山麓に融け込まさせたと言い、工事中には夏目漱石も見学に訪れている。また、蘭の本格的な栽培も開始し、山荘内に約1万株の温室を作ると、人工交配による新種が1140種という成果も生み出している。蘭も咲き乱れる山荘には、当初は週末だけ訪れていたが、その後、増築して常時居住するようになる。マッサンこと竹鶴政孝がスコットランドから帰国した際、帝塚山にアメリカ風で洋式トイレが備わる洋風高級賃貸物件を借りて住んだが、その時の大家である芝川又四郎が、この加賀正太郎社長と須磨の別荘が隣どおしだった事もあり、同じヨーロッパに渡航したことがある竹鶴政孝が紹介されており、加賀正太郎と竹鶴政孝の2人は面識があった。1924年(大正13)から、マッサンこと竹鶴政孝が寿屋(現在のサントリー)の鳥井信治郎社長から請われて、山崎にウイスキー国産化の工場を新設すると、竹鶴政孝は工場長として山崎に住む事となり、偶然にも竹鶴政孝と加賀正太郎の住まいは近い間柄となり、親交するようになった。竹鶴政孝の妻・リタは、加賀正太郎の山荘に通い、加賀正太郎の妻・加賀千代子に「英会話」を教えたと言う。やがて、本物のスコッチウイスキー製造に拘りたい竹鶴政孝が、北海道の余市にウイスキー工場を作る計画を知った加賀正太郎は、資金面で支援して出資金の70%を負担して筆頭株主になった。そして、1934年(昭和9年)に、大日本果汁(株)が設立された。のちの「ニッカウヰスキー」である。ニッカの社内で加賀正太郎は「御主人様」と呼ばれていたそうだ。ゴルフもうまく、茨木カンツリークラブのコースチェアマンとして活躍した加賀正太郎も、晩年は病を患った他、太平洋戦争の影響で事業も衰退した。そのような経緯もあり、知己のアサヒビール社長・山本為三郎に、ニッカウヰスキー株のほとんどを譲り渡し、昭和29年8月8日に死去した。喉頭ガン。66歳。1936年(昭和11年)に紺綬褒章受章。日本山岳会名誉会員。著作として、彼が栽培していた洋蘭の姿は、日本画家★池田瑞月に依頼し描かせた版画集『蘭花譜』として克明に記録されています。友人である★中村清太郎の手による油彩を印刷したもの、写真も数枚含まれています。

 

 

《参考》木版画再摺り/加賀正太郎監修「木版画集・蘭花譜」 

http://www.takezasa.co.jp/service/archive/re_rankafu.html

加賀正太郎が監修した洋蘭の木版画集「蘭花譜」の幻の版木発見によって立ち上がった再摺りプロジェクトで、竹中木版四代目現当主の竹中清八が摺師としてメンバーの一人に選任され、制作に参加しました。また、東京モリサワ・タイポグラフィ・スペースで蘭花譜の企画展が開催され、五代目の竹中健司が手摺り木版画の実演とワークショップを行いました。 

加賀は蘭の美しさを後世に伝えるため、特徴や色彩を記録する図譜の出版を計画し、「蘭花譜」の制作に至りました。カラー写真が発達していない当時、植物図譜の主流は石版画や銅版画などの西洋から導入された印刷技術による制作が主流でしたが、加賀が画集に採用したのは日本で独自の発展を遂げた印刷法である木版画でした。洋蘭の色の変化を立体的に表現するにあたり、原画絵師に京都で生まれ草花を主題とした日本画家の池田瑞月を迎え、当時最高の技術を持つ彫師と摺師と和紙職人を厳選して、収録点数104点のうち84点が木版画で制作されました。植物記録という特性から、池田瑞月による写実的な実物大原画をもとに、細部に渡って高い再現性を求められ、1点で版木20枚、摺り100回を超える作品も少なくありませんでした。完成までの道のりは険しく、色校正や修正を重ねること10年もの長い歳月を要して昭和二十一年に300部が完成、刊行されました。匠の技が散りばめられた本作は、肉筆と見まごうほどの植物図譜にとどまらず、木版画作品集として傑作と名高く、図譜の本場である西洋諸国でも美術的にも学術的にも高い評価を得ることとなりました。加賀の没後、蘭栽培のメッカともなった山荘も第2次大戦による混乱にみまわれ、蘭花譜の命とも言える版木が霧散、稀代の傑作は蘇ることのない幻の作品集となってしまいました。
しかし、平成15年に12枚の主版と色版一式が発見され、老舗美術印刷会社三浦印刷株式会社の支援のもと、原版を使った再摺りプロジェクトが計画されました。再摺りには京都を中心に木版画における熟練の職人たちが集結しました。名人とうたわれた彫師たちが残した線をたどり、欠けや損傷が見られる版木の修復を行い、和紙は当時と同様に越前奉書紙で、昭和の蘭花譜の和紙を漉いた八代岩野市兵衛氏の子息である、現人間国宝の九代岩野市兵衛氏によって制作されました。そして竹中清八を含む8人の熟練摺師が、繊細な色合いの変化や立体感を生み出す幾重もの高度なボカシや緻密な再現性を得意とする京版画の技を注ぎこみ、1年をかけて12作品各100部を摺りあげました。 

 

【池田瑞月】(1877~1944) 

金沢市に生まれ日本画家として生涯画題を植物一筋に求めた。代表作は「蘭花譜」の原画であるが、瑞月はその他に描いた植物画の数々を、世に問うことはほとんど無かった。今回作品を長男一路氏よりお借りし、金沢神社に残された作品20点を併せて公開する。 

★石川県政記念しいのき迎賓館「池田瑞月展」-草木写生画巻- 

920-0962 石川県金沢市広坂2-1-1/076-261-1111  

2013年12月2日(月)~2013年12月8日(日) 

http://www.shiinoki-geihinkan.jp/event/index.cgi?mode=pickup&ctg=gly&cord=134

『蘭花譜』とは、加賀正太郎が自ら育てた洋蘭をモチーフに第二次世界大戦直前までに木版画・油絵・写真による制作を企画、1946年に刊行した★104枚を1セットとする植物図譜である。加賀は、証券業や不動産業、林業などで財を成し、大日本果汁株式会社(現在のニッカウヰスキー株式会社)の設立にも尽力した実業家。若き日(明治43年/1910)の欧米視察旅行では、日本人初のユングフラウ登頂にも成功している。加賀は英国のキューガーデン(王立植物園)で初めて洋蘭を見て感銘を受け、帰国後に建設した大山崎山荘(現アサヒビール大山崎山荘美術館)に温室を設けて、自ら洋蘭栽培に乗り出した。大正から昭和初期に彼が育てた洋蘭は約1140種・約1万鉢にも上り、大山崎山荘は東京の新宿御苑と並ぶ日本の洋蘭栽培の中心地であった。『洋蘭譜』104枚のうち加賀が精魂を傾けて監修した木版画83枚は原画を池田端月、彫師は大倉半兵衛(東京)と菊田幸次郎(京都)、摺師は新味三郎(東京)と大岩雅泉堂(京都)という近代最高の職人が手がけている。学術的にも価値の高い記録でもある『蘭花譜』全300セットのうち、100セットを加賀は当初欧米はじめ世界の学術・研究機関に寄付を予定していたが、我が国の敗戦直後の混乱のなかで希望をかなえることはできなかった。今回展示の『蘭花譜』は当時の版木12点の主版色板一式が最近発見され、それを使い当時と同じく100から200回摺り重ねたものである。 

《芸艸堂》 

604-0932京都市中京区寺町二条南入る妙満寺前町459/075-231-3613 

http://www.hanga.co.jp/

http://www.hanga.co.jp/shopdetail/001003000001/

 

《参考》「蘭花笑覧」HPより 

https://nagoya-orchid.jimdo.com/

●昭和の『蘭花譜』 

●平成の『蘭花譜』 

2003年(平成15)★「芸艸堂」の版木蔵から『蘭花譜』の版木12点の主版と色板一式が発見され、その版木を使用して再摺りされたものです。 

 

《参考》「開運なんでも鑑定団」毎週火曜・夜8時54分放送 

2014年10月21日放送「蘭花譜」 

http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20141021/03.html

高校時代、花屋でアルバイトをしたのがきっかけで花が大好きになった中西さん。社会人になってすぐ蘭に興味をもち、自宅の庭にビニールハウスを作って栽培をはじめた。「大株で、大きな花を咲かせる」ことをテーマに努力を続け、数年前、名古屋愛蘭会という品評会で、最優秀賞を受賞。これからも人を感動させる蘭を作ることが目標だという。10年程前、蘭仲間家に遊びにいった際、玄関に飾られている「蘭花譜」の絵に魅了されてしまった。聞けば他にも103種類あるというので、古本屋やネットで探し、1枚1枚片っ端から購入し104枚コンプリートした。セットとしての価値を知りたい。→鑑定額は、なんと¥ 2,000,000でした。

 

 

・・・様々な見学・訪問は、たいがい一人で気楽・気軽に行くようにしてますが、今回はガイドによるグループでの見学でした。個人では見れない、入れない場所も案内していただき、何よりも「立て板に水」の解説はとても勉強になりました。郷土史家という肩書しかわかりませんでしたが、

 

 

《京都新聞洛西版2004年1月9日掲載》 

大山崎町教育委員会文化係長・林亨さん/町初の担当職員「点を線に、線を面に」 

-小学生時代に中山修一さんの授業を受けたそうですね。 

「長法寺小五年の時です。自宅近くに長岡第三小が新設されることになった。乙訓寺北側の重要地というので発掘調査が始まり、乙訓寺で中山先生に長岡京の話を聞く課外授業があった。調査の様子は間近に見ていました。講堂跡が出土し、礎石を据えるため根石を敷いた穴が出ていた。そこで土を掘ったら千二百年も昔のいろんな物が出てくると教わり、ショックを受けた」  

-考古学を志したのはそれからですか。 

「六年生で長岡第三小に移った。校庭に根石の穴が埋まっていると思うとわくわくした。花壇を耕した時に実際に土器が出てきた。学校北側の幼稚園造成地から運んだ土と聞いて、造成地へ通い、現場のおっちゃんに出てきた土器を取りおいてもらった。宝物でした。中山先生に見てもらったら長岡京や平安時代のもので、すごく感動した。それから発掘現場に顔を出すようになった。中学一年の夏、阪急西向日駅近くで宮域の調査に手弁当で入れてもらったのが出発点。翌年からアルバイトになり、毎夏調査に参加した。学生だけでなく先生方もいろんなことを教えてくれ、フィールドで多くを学んだ」  

-大山崎町教委初の文化財担当職員ですね。 

「昭和四十年から五十年代は開発で埋蔵文化財の破壊が進む中、発掘や記録保存について国や府で考え方がまとまっていく時だった。府が指導するけれど、中山先生の研究所や乙訓の文化遺産を守る会が加わり、民間に知恵をもらいながら調査団としてやっていた。まだ各市町に専門の担当者はおらず、市町の職員として調査に携わることも想像できなかった。だが、調査件数は増える一方。中山先生が地元自治体にその役割を説得し続け、行政側にも指導、調査する義務を果たさなければという意識が芽生えたと思う」  

-大山崎町での発掘の歩みは。  

「初期の取り組みは二市一町で長岡京をきっちり調査しようと始まった。大山崎で京域に入っているのは町域の北部五分の二程度。大山崎では長岡京廃都後の土地利用が活発で、平安京とのかかわりから重層的に広がる各時代の遺跡調査も欠かせない。最初の調査は遺跡が集中していると言われるJR山崎駅周辺で、個人宅の建て替え時にお願いして掘らせてもらった。半信半疑だったが、平安時代の基壇跡が見つかった。一緒に江戸時代までのにぎわいを伝える遺物や遺構も見つかった。マスコミにも大きく取り上げられ、遺跡周知のきっかけになった」  

-これからの課題は。 

「都の規模、完成度を考える上で京域の調査とともに、大山崎では、やはり都選定の大きな要素となった港と山陽道の姿、南海道の起点となった山崎橋を探り、交通の要衝としての位置づけを明らかにしたい。長岡京本体を明らかにすることにもつながる。点を線に、線を面にする努力を地道に続けたい」

 

 

【林亨(はやしとおる)】 

長岡京市出身。1979年、社会教育指導員として大山崎町教委入り。同年、山城国府跡第1次調査で平安時代の基壇跡を検出。93年から大山崎町教育委員会文化係長。99年、奈良時代の僧・行基建立の山崎院跡や最古級の彩色壁画片が出土した第54次調査などを手がける。2004年現在、47歳。 

《参考》大山崎町埋蔵文化財調査報告書第31集 

http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/annai/kyoikuiinkai/bunkageijutsukakari/1629.html

 

・・・たぶん、この方だと思いますが、もう退職されたのかな?長く「聴竹居倶楽部」で活動されてきたようです。本当にお世話になり、ありがとうございました。次は、ぜひ「聴竹居」へ行くぞ。