《NEWS》2018.11.23毎日新聞より
<古代史>謎のベール脱ぐ大山古墳/築造・5世紀の姿残す
謎のベールに包まれた日本最大の前方後円墳「大山古墳」(仁徳天皇陵)=堺市堺区=の一端が22日、報道陣や考古・歴史学の16団体の研究者に初公開された。埴輪列や石敷きを施した5世紀の堤が現れ、研究者は「築造当初の姿が非常によく残っている」と評価。適切な保全や成果のさらなる公開につながるか、注目が集まる。今回の発掘された最も内側の堤は深い緑に覆われ、台風の影響で所々で木が折れていた。足元はふかふかとした土で覆われ、長い間、人が入っていないことを示していた。一瀬和夫・京都橘大教授は「これまで知られずにきた日本一の古墳のデータが手に入った」と喜んだ。埴輪の列は聖なる区域との境界を示すとされる。発見された円筒埴輪は直径約35センチで、1周約2.6キロの堤に約7000個が連なっていた計算だ。上部が開いた朝顔形埴輪の破片も出土し、混在して立っていたらしい。堤の埴輪列は2列が一般的だが、今回は外側に1列しかなく、宮内庁は内側の列が何らかの影響で崩れた可能性もあるとみる。堤の平たん面には角の丸い、こぶし大の石が敷かれていた。墳丘に石をふく例はあるが、堤では珍しいという。日本考古学協会理事の杉井健・熊本大准教授は「(古墳を)荘厳に見せるためだったのではないか」と推測。別の研究者は「さすがは大王墓、という丁寧な仕事だ」と驚いた。同庁と堺市は共同発掘の意義を主張した。同庁の徳田誠志・陵墓調査官は「石が地元産かどうかなど、現場で協議できて有益だった」。堺市文化財課の海辺博史主査は「公開を必要と考える市と、静安と尊厳を守る宮内庁の立場は違うように思えるが、古墳を守り伝えていく思いは同じと感じた」と話した。一方、課題を指摘する声もある。今尾文昭・関西大非常勤講師は「発掘は解剖のように一度すると元に戻らないが、保全のためには欠かせない。市民の理解を得ながら慎重に進めていく必要がある」とし、一般向けの現地説明会の開催などさらなる取り組みの必要性を説いた。
<古代史>大山古墳「真の被葬者」を巡る議論は:宮内庁と堺市の大山古墳(仁徳天皇陵)の共同発掘調査は、古墳の保全が急がれる事情により、同庁からの要請で実現した。「真の被葬者」を巡る議論について同庁は「墓誌など明確な根拠がないので指定は変えない」と従来の姿勢を変えないが、陵墓を「皇室の祖先の墓」として立ち入りを制限する同庁と、「文化財としての古墳」とみる研究者の立場や見解が、初の共同発掘という形で折り合ったと言える。高度経済成長期の開発で多くの古墳が失われた。考古学の学会などは1976年5月、陵墓や周辺の保存と学術調査などを求める声明を発表。同庁は段階的に公開し、2006年11月には墳丘最下段への立ち入りを認めた。同庁は60年代から陵墓の保全工事を行ってきたが、規模がトップ3の大山古墳、誉田御廟山古墳(応神天皇陵、大阪府羽曳野市)、百舌鳥陵山古墳(履中天皇陵、堺市)は巨大さが故にほとんど手つかずだった。3古墳は世界文化遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群の主要な構成資産で、保全の徹底が求められている。同庁は16年3月、地元自治体などと共同調査を行うと発表。大山古墳は当初から念頭にあったという。
◇宮内庁陵墓管理委員を務める白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長の話
巨大古墳は墳丘や濠、周域をも含めて一つの古墳だ。しかし、実際には宮内庁と地元自治体が分けて管理している所も多く、そのままでは古墳全体を理解し、管理することができない。今回のように共同でやるのが理想的だ。また、時間はかかると思うが、陵墓の公開に向けた動きとしても評価できる。
◇大山古墳:堺市堺区にある日本最大の前方後円墳。三重の濠が巡る墳丘は全長486メートルあり、最新調査では500メートル超ともされる。埴輪の形式などからは5世紀の築造と考えられている。平安時代の「延喜式」の記述などから仁徳天皇の墓「百舌鳥耳原中陵」とされ、宮内庁も踏襲して管理するが、考古学上、被葬者は分かっていない。
・・・丸保山古墳のサボテン、とうとう折れて残念。
https://happyandsmartandlife.blogspot.com/2018/08/saboten.html
《NEWS》2018.11.22毎日新聞より
大山古墳で石敷きと埴輪確認/外部機関と初の発掘
三重の濠を持つ日本最大の前方後円墳「大山古墳」(仁徳天皇陵)=堺市堺区、全長約500メートル=について、宮内庁は22日、堺市と共同発掘している現場を初めて報道陣と研究者に公開した。最も内側の堤の南東部に5世紀の埴輪列があったほか、石敷きが初めて確認された。専門家は「知られざる大王墓の姿が見えてきた」と評価している。大山古墳は同庁が仁徳天皇の墓として管理するが学術的には確定していない。同庁は陵墓の「静安と尊厳」を保持するため外部の立ち入りを原則認めておらず、外部機関と共同発掘するのは今回が初めて。浸食された墳丘などの保全計画に役立てるという。調査では最も内側の堤(幅約30メートル)について、古墳南東部の計3カ所で溝(幅2メートル)を掘った。その結果、堤の外周部に並ぶ5世紀の円筒埴輪(直径約35センチ)計13個を確認した。同古墳では1973年に別の場所で円筒埴輪1個が見つかった記録があるが、複数は初めて。埴輪列は堤を1周していたとみられるが、内周部には見つからなかった。最初から存在しないのか、浸食で失われたのかは不明。また、平面部にこぶし大の石敷きが施され、同時代の古墳では珍しいという。宮内庁は今後さらに堤の発掘を進める方針だが、あくまで保全のための調査と位置づけており、被葬者の変更にはつながらないとみられる。この日は日本考古学協会など考古・歴史学の16団体にも初めて公開され、43人の専門家が熱心に観察していた。一般公開はしないが、堺市は速報展などの実施を検討している。
日本最大、別名「仁徳天皇陵」大山古墳。堺市堺区にある日本最大の前方後円墳。三重の濠が巡る墳丘は全長486メートルあり、最新調査では500メートル超ともされる。埴輪の形式などからは5世紀の築造と考えられている。平安時代の「延喜式」の記述などから仁徳天皇の墓「百舌鳥(もずの)耳原(みみはらの)中陵(なかのみささぎ)」とされ、宮内庁も踏襲して管理するが、考古学上、被葬者は分かっていない。
宮内庁陵墓管理委員を務める白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長の話 巨大古墳は墳丘や濠、周域をも含めて一つの古墳だ。しかし、実際には宮内庁と地元自治体が分けて管理している所も多く、そのままでは古墳全体を理解し、管理することができない。今回のように共同でやるのが理想的だ。また、時間はかかると思うが、陵墓の公開に向けた動きとしても評価できる。
《NEWS》2018.11.22産経新聞より
仁徳陵の調査結果「何らかの方法で公開」堺市長が表明
宮内庁と堺市による仁徳天皇陵(大山古墳、堺市堺区)の共同発掘調査結果を受け、同市の竹山修身市長は22日、宮内庁が公開しないとしている調査結果を、博物館での展示など、何らかの方法で市民らに公開する意向を表明した。実現に向け、宮内庁に働きかけるという。市役所で記者団の質問に答えた。竹山市長は11日に発掘現場を視察。「ほんのわずかな時間だった」というが、「初めて仁徳天皇陵古墳の調査に入らせていただいたことは貴重な機会だった」と位置づけた。調査結果では、円筒埴輪(はにわ)列などが確認されており、「埴輪列や石敷きが良好な状態で残っており、感動した」と振り返った。今回の調査は、古墳の墳丘を囲む2つの堤のうち内側の堤である第1堤の3カ所で行われたが、宮内庁は「一般公開はしない」との方針を示している。これに対し、竹山市長は「別の場で、市民の皆さんに発表できるようにしたい」と述べ、何らかの形で調査結果を公開できるよう、宮内庁に働きかけていく意向を明らかにした。そのうえで、「たとえば市博物館などで、『埴輪列はこんな形で出土した』ということを、(市民らに)見せられるような展示も考えていきたい」とした。今回の調査は、歴代天皇や皇族の陵墓で宮内庁が外部機関と共同で発掘調査を行った初のケースになった。竹山市長は「今後も同様の調査があれば、また(堺市も)加えていただきたいと思っている」と発言。世界文化遺産登録を目指す百舌鳥・古市古墳群のうち堺市の百舌鳥古墳群で、同様の調査に協力していく考えも示した。
《NEWS》2018.9.17産経デジタルより
世界遺産へ、仁徳天皇陵古墳を視察/堺、ユネスコ諮問機関
国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会の諮問機関・イコモスの調査員が17日、国内最大の前方後円墳、仁徳天皇陵古墳(堺市)で現地調査を行った。同古墳は来年の世界文化遺産登録を目指している「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市)の一つ。古墳群全体を11~17日にかけて調査。この日は仁徳天皇陵古墳の保全状態や周辺環境などを視察し、事前に提出されていた推薦書の記載内容を照らし合わせながら、古墳群が登録にふさわしいかどうか確認した。また、同古墳周辺の清掃ボランティアを行う住民グループ「仁徳陵をまもり隊」事務局長の草野利夫さん(65)が、活動について説明。草野さんによると、調査員から「古墳は地域住民にとってどんな存在か」と尋ねられ、「昔からとても大事にしている古墳だ」と応えたという。イコモスは今回の現地調査などを踏まえ、来年5月ごろに評価結果を勧告。同6~7月に、世界遺産委員会が登録の可否を決める。
《NEWS》2018.6.26朝日新聞より
大阪)仁徳陵西に自転車博物館/堺市、府立女子大跡検討
大阪府堺市は、いったん移転を中止した自転車博物館サイクルセンター(堺区)の新たな移転先として、仁徳陵古墳西側の府立大阪女子大跡地(同区)を検討していることを明らかにした。ただ、市議会から異論も出ており、実現には曲折がありそうだ。堺市は2010~12年、女子大跡地計5・1ヘクタールを府から計19億円で購入した。東側には、仁徳陵古墳を展望できるガイダンス施設(仮称)を建設する。市は、主に駐車場にするとしてきた西側の3・8ヘクタールに、新しい自転車博物館(敷地面積0・8ヘクタール)を開設する方向で検討している。現在の自転車博物館は、大仙公園に隣接する市有地にある。施設が手狭になり、運営法人と市は16年に大仙公園内への移転で合意した。市は用地を無償貸与し、建設費は法人が全額負担する。
《参考》平成30年6月★市議会より
百舌鳥古墳群の世界文化遺産登録は、早ければ来年の夏に実現します。我々大阪○○の会も、百舌鳥古墳群の世界文化遺産登録に賛成をしてきました。その中で仁徳天皇陵を初めとする天皇陵を世界文化遺産に登録するうえは、特に静安と尊厳を守ることが絶対条件であるということも強く要望してきました。しかし、我々の意に反して現在堺市は仁徳天皇陵に隣接する旧大阪女子大跡地に、ガイダンス施設と★自転車博物館を建設し観光地化しようとしています。ガイダンス施設については、30億円に上る多額の税金がかかることと、仁徳天皇陵からわずか30メートルしか離れておらず静安を守ることができないことから、大仙公園内にある堺市博物館に統合すべきであると提案しています。自転車博物館の移設については、世界文化遺産とは全く関係のない施設であり、他に移設する地がないための苦肉の策に他ならず、静安を脅かすことは明らかなため旧大阪女子大跡地に移設することに強く反対しています。
《NEWS》2018.4.7産経新聞より
自転車博物館★移転計画中止、古墳群遺産登録への影響を懸念/大阪
2018年7月に予定されていた国内唯一の自転車専門博物館「自転車博物館サイクルセンター」(堺市堺区大仙中町)の移転計画が中止となったことが4月3日、堺市への取材で分かった。博物館を運営する公益財団法人「シマノ・サイクル開発センター」が、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録への影響を懸念したといい、今後別の移転先について市と協議する方針。現在の博物館は平成4年に大仙公園に隣接する市有地にオープンしたが、建物の老朽化などから約700m南東の同公園内に新築移転し、今年7月の開館を予定していた。しかし移転予定地は百舌鳥古墳群の中心に位置し、周囲には仁徳天皇陵古墳のほか複数の小規模な古墳が密集している。近年、世界文化遺産の周辺環境に求められるハードルが高くなっており、有識者から「移転は古墳群の文化遺産登録に影響があるのではないか」などの指摘もあったことから、同法人が移転に向けた準備をいったん中断していた。同館の国方伸泰(くにかたのぶやす)館長は計画中止の理由について、「古墳群の文化遺産登録は重く、移転によって支障が出るのは本意ではない」と説明。一方で、新たな博物館は堺、羽曳野、藤井寺市にまたがる★両古墳群の周遊拠点として期待されていただけに、堺市世界文化遺産推進室は「古墳群を周遊する手段は今後も考えていかなければならない」としている。
《NEWS》2016.11.29産経新聞より
大阪の自転車博物館が新築移転へ、サイクルステーションも完備
国内唯一の自転車専門博物館「自転車博物館サイクルセンター」(大阪府堺市堺区大仙中町)が、建物の老朽化などから、約700m南東の大仙公園内に新築移転し、展示内容や機能を拡充することになった。来年4月に着工、平成30年7月に開館予定。博物館を運営する公益財団法人シマノ・サイクル開発センターの島野容三理事長が11月28日、堺市の竹山修身市長を訪問し伝えた。現在の博物館は4年4月にオープン。運営する同センターは自転車部品メーカー「シマノ」(本社・堺市)から100%の寄付を受けている。大仙公園に隣接する市有地にあり、3階建てで、約200年前から現代までの世界の自転車を展示している。新築移転を担当する建築事務所や市によると、新築する建物は地上2階地下1階建てで、市が無償で土地(堺区百舌鳥夕雲町、東上野芝町)を貸与。現在より約50台多い約300台の自転車を展示する。展示などを行う自転車博物館、自転車利用者のためのシャワー室や休憩室などを備えたサイクルステーションの2棟で構成。地下は2棟がつながり、博物館機能を持たせる。延べ床面積は現在の約1350平方メートルから約3200平方メートルになる。島野理事長は竹山市長に「『世界の自転車の聖地』として多くの人が利用できる施設にする」と説明。竹山市長は面談後、報道陣に「百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界文化遺産登録もめざしており、国内外の人にアピールしたい」と話した。
・・・自転車は「健康」「環境」にやさしいので、古墳に影響がおよばない規模と場所で実現してほしいものです。
《NEWS》2016.6.23日本経済新聞より
★米ボストン美術館には大山古墳(仁徳天皇陵)出土とされる古代の鏡や大刀などが収蔵されている。「1872(明治5)年、堺県(現堺市)の県令(知事)が立場を悪用して仁徳陵を発掘した際に持ち出した品」。こんな説が★小説などを通じて広まっている。確かにこの年、堺県が「墳丘を清掃して石を取り払ったら穴が開き、石室を見つけた」との文書を国に提出している。これが意図的な発掘だったというのだ。出土した石棺や甲冑などの詳しい絵図も残る。宮内省(現宮内庁)から派遣された絵師が描いたものとされる。だが当時の状況を詳しく検証した元堺市博物館学芸課主幹の樋口吉文さんは「当時の県令にそんな権限はなかった。ぬれぎぬだろう」と話す。江戸幕府は、周辺住民が里山として大山古墳を利用するかわりに維持管理を委ねた。明治初期もこの状況は続いており「まきでも拾おうと住民が墳丘に立ち入り、ついでに少し石をどけたところ石室を発見。県令が国に届け出たのだろう。通常の手続きで、文書の内容に疑わしい点はない」と樋口さんは分析する。絵図を描いたのは宮内省の絵師ではなく、絵の巧みな建築技師だったことも判明。「古美術に造詣が深かった技師が話を聞き、私的な立場で現地を訪ねて描いたのでは」ボストン美術館の収蔵品については「大山古墳とは年代が合わない」との指摘がかねて出ている。宮内庁は同館で調査し2010年、成果を公表した。収蔵品は★岡倉天心が買い付けたものだった。当時の記録で唯一残る会計報告書には「古代の墓から出土」とのみ記され、「仁徳陵」の名は無かった。裏付けのないまま唱えられた「仁徳陵出土」との推定が一人歩きした――。調査を担当した徳田誠志・陵墓調査官はこう推察する。「確かな情報は無く、現時点で結論は出ない。仁徳陵と結びつけることは控えるべきだ」
《風の王国》著:五木寛之
闇にねむる仁徳陵へ密やかに寄りつどう異形の遍路たち。そして、霧にけむる二上山をはやてのように駆けぬける謎の女…。脈々と世を忍びつづけた風の一族は、何ゆえに姿を現したのか?メルセデス300GDを駆って、出生にまつわる謎を追う速見卓の前に、暴かれていく現代国家の暗部。彼が行く手に視るものは異族の幻影か、禁断の神話か…。現代の語り部が放つ戦慄のロマン。
「風の一族」は元々は大和平野の二上山地域に棲んでいた「サンカ」と呼ばれる山の漂流民、明治維新の時に県令に弾圧され★仁徳陵の盗掘まで手伝わされ、命の危険を感じて伊豆山(静岡県)に逃避した八家五十五人。彼らは、山から下りて里に住んでも先祖の「一畝不耕、一所不在、一生無籍、一心無私」の漂流精神を尊重し権力に迎合せずに講を作って固い相互扶助のネットワークを作る。彼らは一族のことを「ケンシ」と自称した。山を降りても里に住まず、里にありても山を離れず、山と里の被膜に流れる者、これを世間師(セケンシ)という。
・・・読んだことがないので、さっそく注文しました。