《NEWS》2018.11.16産経新聞より
野口英世生家など建造物185件、登録有形文化財に
国の文化審議会は16日、「野口英世生家主屋」(福島県猪苗代町)や「旧吉田茂邸サンルーム」(神奈川県大磯町)、「七条大橋」(京都市)など34都道府県計185件の建造物を登録有形文化財にするよう、柴山昌彦文部科学相に答申した。近く告示され、建造物の登録は1万2128件になる。登録有形文化財は築50年以上が対象。審議会は、ハンセン病療養施設「長島愛生園旧事務本館」(岡山県瀬戸内市)や昭和を代表する建築家★村野藤吾設計の「甲南女子大学管理棟」(神戸市)など昭和期の建造物も数多く答申した。梅毒の研究などで功績のあった細菌学者、野口英世の生家は江戸後期の茅葺き農家。1歳半のときに落ちてやけどを負ったいろりも保存されている。旧吉田茂邸は平成21年の火災で主屋が焼けたが、サンルームは焼失を免れた。七条大橋は、大正2年に完成した鉄筋コンクリート・アーチ橋。
《コラム》「なぜ、いま村野藤吾なのか」文★笠原一人(京都工芸繊維大学助教)
https://www.hyokadb.jim.kit.ac.jp/profile/ja.b3ba40709f764a8bab05e7a1f81c6110.html
近年、村野藤吾(1891~1984)への関心が高まっている。大阪を拠点としておそらく300件以上の建築の設計を手掛け、文化勲章をも受章した日本を代表する建築家である。「大阪新歌舞伎座」(1958年)や「関西大学の校舎群」、「神戸新聞会館」(1956年)、京都や大阪、名古屋の都ホテルなど、著名な建物の設計を多数手がけたため、ご存知の方も多いだろう。しかし生前の村野は、必ずしも現在のような評価を受けていたわけではない。ではなぜ、いま村野が脚光を浴びているのだろうか。村野が建築家として活躍し始めた時代は、モダニズム建築の成立の時期に重なる。1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパを発祥とするモダニズムの理念と方法が世界中に広がり、建築は革命的な変化を遂げようとしていた。それは鉄やコンクリート、ガラスといった工業製品を用いて機能性や合理性を重視し、装飾を削ぎ落とした抽象的な形態を用いた点で、従来のいわゆる様式建築とは大きく異なっていた。こうしたモダニズム建築の姿を分かりやすく、また日本独自のものとして示したのは、戦後に活躍した丹下健三や前川國男、坂倉準三といったモダニストの建築家だった。彼らは、20世紀最大の巨匠であったフランスの建築家ル・コルビュジエから大きな影響を受け、東京を拠点とした。その作風は、打ち放しコンクリートによる装飾を削ぎ落としたデザインで内部と外部が統一されていた。そして、新しい社会にふさわしい公共空間のあり方を建築作品によって提示するなど、社会的な使命を背負った真面目さも併せ持っていた。
そんな中で村野の作品は、モダンな抽象美に基づくデザインではあるものの、建物によってすべて異なる表情を持ち、内部と外部が全く違うデザインであることも少なくない。和風も巧みに操り、様々な様式を折衷的に用いる。モダニズムが否定した様式建築に特有の三層構成を持ち、細部に独自の装飾を持つ作品も多い。タイルの裏側を表に向けて壁に貼ることさえあり、曲線や曲面も多用するなど、そのデザインは自由そのものであった。そのため、生粋のモダニストから、村野は★異端者として位置付けられた。モダニズムの全盛期にあって、モダニズムが否定するような方法を繰り返していたのだから、批判的な評価が生じるのも無理はなかったと言えるだろう。しかし村野にとっては、そんなことはどうでもよかった。村野は独自の視点で設計することにこだわり続けたのである。では、村野を支えた視点とは何だったのか。それは、★民衆の視点であったと言える。
村野は大学卒業後に渡辺節の建築設計事務所に就職したことで、大阪を拠点とするようになる。事務所では、渡辺から、「村野君ツーマッチモダンはいかん、売れる図面を描いてくれ」と言われたという。当時の最先端であった装飾のないモダニズム建築ではなく、民衆が好む様式建築をデザインせよ、という意味である。最先端の表現の追求よりも、建築を民衆に気に入られる、いわば商品として捉えることを叩き込まれたのである。商業都市大阪らしいエピソードだ。以来村野は、訪れる人々に親しみやすく繊細で豊かな建築をデザインし続けた。そんな態度は、村野の建築作品にもよく表れている。今回の一般公開に参加している村野作品にその様子を見てみよう。「中村健法律事務所」(1936)は、もはや現存数が少ない戦前の作品である。抽象化されたモダンなデザインだが、外壁にタイルが貼られ、建物全体に縁取りが付けられ、玄関上部には金属製の門灯が飾られているなど、古風な様式建築の特徴も備えている。「フジカワビル」(1953年)は戦後間もない頃の作品である。建物の正面はガラスブロックで覆われたモダンなものであるが、その両端に設けられたベランダの手摺のグリルは村野がデザインしたもので、階と位置によってデザインが異なるという凝りようである。1960年代になると、一層凝った作品が増える。
「輸出繊維会館」(1960)は、外観が白い大理石貼りによる抽象性の高いデザインが特徴だが、内部は一転して、玄関ホールの壁面に堂本印象によるカラフルなガラスモザイクの壁画や、村野がデザインしたシャンデリアや家具が設置されているなど、技巧的なデザインが目立つ。「森田ビルディング」 (1962)は、黒い御影石を外壁に貼った落ち着いた雰囲気で、同じようなデザインの窓が反復して設置されているが、よく見ると階によって高さが異なっていたり、東側の一部の壁面をセットバックさせたりしていて、外観に変化を見せている。「梅田吸気塔」(1963年)は、梅田の地下街が建設された際に設置された。曲線や曲面を多用し、しかも薄い金属で作られているためか、重さを感じさせないオブジェのようだ。「浪花組本社ビル」(1964年)は、左官業の会社の本社ビルである。亀甲型や菱形といった和風の幾何学形態による装飾や瓦で壁面を覆い尽くし、左官業の材料や技術を道行く人々にアピールしている。★「村野・森建築事務所」(1966)は、多くの村野作品が生み出された聖地のような建物である。小さな敷地に中庭を囲んで複数のボリュームを組み合わせた複雑な表情を持つ。増築が繰り返されたかのようにも見えるその姿は、どこか伝統的な日本建築に通じる。こうした村野の技巧に満ちたデザインを支えたのが、1904年に創業し現在もかつての村野の事務所に近い天王寺に本社を構える★「上野製作所」である。今はなき「そごう大阪店」(1935)や「新ダイビル」(1958)、「大阪新歌舞伎座」(1958)、「東京の日本生命日比谷ビル」 (日生劇場/1963)や「千代田生命本社ビル」(現・目黒区総合庁舎/1966)などの、階段手摺や装飾といった金属部分の制作を担当した。職人の技術こそが、村野の作品を細部から支えていたのである。近年、4件もの村野の建築が相次いで国の重要文化財などに指定されるなど、その社会的な評価が高まっており、村野のファンも増えている。それは何よりも、村野の建築が、商業都市大阪ならではの民衆の視点を意識してデザインされた、多彩さと細部の魅力を持つからだと言える。モダニズムの時代にあっても、モダニズムに対して超然とした態度で制作を続けた村野の作品だからこそ、モダニズムの教義から解放された現在、改めて多くの人々を魅了しているのであろう。村野の建築には、イズムに左右されない、普遍的な豊かさが備わっているのである。
【笠原一人】(1970~)
https://www.hyokadb.jim.kit.ac.jp/profile/ja.b3ba40709f764a8bab05e7a1f81c6110.html
1970年神戸市生まれ。1998年京都工芸繊維大学大学院博士課程修了。2010-11年オランダ・デルフト工科大学客員研究員。博士(学術)。近代建築史・建築保存改修論専攻。モダニズム建築の専門家であり、建築家・村野藤吾の研究で知られる。「もうひとつの京都−モダニズム建築から見えてくるもの-」(共著、2011)や「村野藤吾建築案内」(共著、2009)など著書多数。京都工芸繊維大学/大学院・工芸科学研究科助教。
★「村野藤吾の設計研究会」(京都工芸繊維大学美術工芸資料館)
http://www.cis.kit.ac.jp/~mrtg02/index.html
村野藤吾(1891~1984)は、文化勲章や日本芸術院賞、日本建築学会賞などを受賞した、近代日本を代表する建築家です。代表作に「日生劇場」、「都ホテル京都佳水園」、「大阪新歌舞伎座」、「広島世界平和記念聖堂」などがあります。モダニズムの理念と方法から出発しながら、様式性や装飾性を湛えた独自のデザインを展開した建築家として知られています。京都工芸繊維大学美術工芸資料館では、1996年以来、村野・森建築事務所から村野作品の設計図やスケッチ類の寄贈(預託も含む)を受けてきました。その数は、2006年現在、約5万5千点におよびます。その内容は建築本体にとどまらず、内装、家具、照明、造園に関するものまで含まれています。これらは村野の足跡そのものであり、近代建築の歴史の重要な一部を成す資料といえます。本研究会は、本学美術工芸資料館が所蔵する村野資料の保管・整理作業を行い、その資料をもとに村野藤吾の建築作品について研究を行うことを目的として、1998年、本学美術工芸資料館内に設置されました。1999年からは、毎年「村野藤吾建築設計図展」を開催し、所蔵資料の公開を続けています。また、縁のある建築家や研究者を招いてシンポジウムを開催するなど、村野作品の魅力を伝えるための様々な活動を行っています。近年、近代建築の保存に関する国際的な組織DoCoMoMoの活動によって、文化遺産としての近代建築の重要性が唱えられています。そこでは建築物のみならず、設計図やスケッチもまた建築文化を伝える貴重な資料として保存の対象となっています。これらの資料を通じて、建築家の思考や創作の過程など、多くのことが明らかになります。村野がどのような思考や創作の過程を経て作品を生み出していたのか、設計図やスケッチに即した研究が、村野研究の新しい領域を切り開くことになると考えています。村野藤吾の建築に関する資料や保存についての情報をお持ちの方、また展覧会の図録購入をご希望の方は、研究会までご連絡いただければ幸いです。我々の活動や研究へのご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします。
・・・村野建築の魅力は、タテモノ内の細部にまでコダワリを持ってデザインされていることであり、ファーニチャー(furniture)の一つひとつが私の好奇心を満足させてくれるのです。丁寧に案内・説明してくださり、またクダラナイ質問に応対していただき、本当に感謝しかありません。ありがとうございました。さて、村野建築について「浪花組」さんからスタートしたわけですが、やはり「アベノ」にもどらなければなりません。