・・・「宗田家住宅」からガラッと雰囲気を変えて、
《東畑建築事務所(新高麗橋ビル)》
541-0043大阪市中央区高麗橋2-6-10/06-6202-0391
https://ikenchiku.jp/program/1264/
建設:1974/設計:東畑建築事務所
展示:東畑建築事務所「清林文庫」展&オープンサロン2018
「清林文庫」展:創業者東畑謙三が選んだ世界有数の稀覯本
特別展示 グーテンベルクの印刷革命
オープンサロン:市民と共に創り上げる取り組みの紹介
東畑建築事務所は、1932年★東畑謙三によって大阪市に開設されました。この間、各地に様々なかたちで建築空間をご提供し、幾多の方々にこれらをお使いいただいております。これもひとえに私どもが関係するあらゆる方々のご支援の賜物と感謝いたす次第です。技術の進展、少子高齢化や人口減少といった社会環境の大きな変化のなかで、これに対応する、先進性を有し、安全・安心で、地球環境にも配慮した建築が求められています。一方で、建築は古来より、人々に安らぎや華やぎを、時には祈りや昂ぶりを与えて来たのであり、こうした建築の力はこれからも変わることはありません。私どもは、創業以来大切にしてきた、お客さまに真摯に向き合う姿勢を堅持しつつ、経験と叡智を結集して、時代に即し人々を豊かにする建築や都市環境の創生に取り組み、お客さまの期待に応えるだけでなく、期待を超えるサービスをご提供して、社会の発展にも貢献してまいります。
★「清林文庫」
http://www.tohata.co.jp/memorial/bunko.html
東畑謙三は、技術研鑽に役立てるために、世界各地の建築、絵画、彫刻、考古学等の文献や古地図などを数多く蒐集し、これを「清林文庫」と名づけました。15,000冊にのぼる蔵書の中には西欧、中国、日本などの芸術文化に関する稀覯本も多く含まれます。ここではコレクションの中から東畑謙三が厳選した建築関連の稀覯本の一部をご紹介します。
【東畑謙三】(1902~1998)
http://www.tohata.co.jp/memorial/tohatakenzo_01.html
1902年(明治35年)三重県に生まれる。四兄弟の三男で長兄は文化勲章を受章した農政学者で東京大学教授を務めた東畑精一。次兄速水敬二も京都大学で哲学を修めた学者である。弟東畑四郎は、東京大学法学部を出て農林事務次官を務めた。いわば学者一家に生まれ育つ。第三高等学校在学中に、京都ではじめての鉄筋コンクリート造である京都大学建築学科本館を見て興味を覚えたのが建築を志すきっかけとなり、1923年京都大学建築学科に入学する。その後、大学院に進学し「建築学研究」の編集に携わり、L.コルビュジェやテオ・ファン・ドゥースブルフ等を紹介する。大学院終了後、武田五一教授の下で外務省嘱託となり、「東方文化学院京都研究所」の設計に携わる。
・・・スルーした「タテモノ」も紹介しておきます。
《オペラ・ドメーヌ高麗橋》(旧大阪教育生命保険ビル)
541-0043大阪市中央区高麗橋2-6-4/06-6220-1500
https://operadomaine.com/?utm_source=weddingpark.net&utm_medium=referral
1912年★辰野金吾が設計した煉瓦造の保険会社の社屋を、2008年(平成20年)11月より結婚式場として使用。以前はシェ・ワダという名のレストランだった。 株式会社プレミアリゾートオペレーションズがマスターリースし、ウェディングの運営を行なっている。
《日本基督教団「浪花教会」》
541-0043大阪市中央区高麗橋2-6-2/06-6231-4951
建設:1930年/設計:竹中工務店(★ヴォーリズ建築事務所が指導)
http://www.eonet.ne.jp/~naniwa-church/
1877年1月20日に松村診療所で澤山保羅と11人の信徒が浪花公会を設立しました。その当時は教会ではなく、公会という言葉が用いられていました。当日、新島襄牧師などが出席し、日本で最初の按手礼(牧師になる儀式)が澤山保羅に対して行われました。 初代牧師の澤山保羅(幼名:馬之進)は、1852年に長州吉敷(現・山口市吉敷)に生まれました。英語を学ぶために神戸に出て、宣教師のダニエル・クロスビー・グリーン(DCグリーン)と出会います。1872年にアメリカのイリノイ州にあるノースウエスタン大学予科に留学し、パッカード牧師に神学を学び、11月、エバンストン第一組合教会で洗礼を受けキリスト者としての歩みを始めました。1876年に帰国し、松村診療所で通訳として働きながら、キリスト教伝道の準備をしました。そして、日本で最初の海外からの援助を受けない「自給」教会が誕生しました。教会設立の翌年1878年、成瀬仁蔵らと梅花女学校を設立しました。梅本町公会と浪花公会の信徒の支えによって出来た学校ですので、「梅花」という名前になりました。教会も学校も、海外の教会からの援助なしに、教会の信徒によって創立する、ということに重きが置かれました。現在もその精神は受け継がれています。その他、1879年には、天満教会、その後も大和郡山教会、岸和田教会、また大阪YMCA(大阪基督教青年会)の前身である浪花基督教青年会、日本伝道会社の設立に情熱を傾けました。しかし1887年3月27日に肺結核のために34歳の生涯を閉じました。葬儀は土佐堀の大阪基督教青年会館で行われ、DCグリーンと新島襄が告別の説教を行いました。
浪花教会は、★プロテスタント(新教)の教会のひとつです。現在は1941年に合同した「日本基督教団」に属しています。日本基督教団と関係する学校は関西では、同志社、同志社女子、関西学院、神戸女学院、大阪女学院、梅花学園、清教学園などです。
《塩野義製薬》
541-0045大阪市中央区道修町3-1-8/06-6202-2161
http://www.shionogi.co.jp/index.html
1878年に道修町で薬種問屋を創業し130年以上にわたって道修町を拠点としている製薬企業として、シオノギが所蔵している史料を公開しております。本社ビル1階ロビーの展示コーナーでは、シオノギの商標である分銅の実物や大福帳などのほか、二代塩野義三郎が収集した江戸~明治時代に作成された絵びらや引き札などを展示しています。
★展示コーナー
https://www.shionogi.co.jp/company/csr/act/display.html
開館時間:10:00~17:00/休館日/土・日・祝日、年末年始、会社の休日/無料★玄関前には、旧ビルの列柱基壇部分が残されている。
★「大阪薬科大学発祥の地碑」
道修町の薬種商塩野吉兵衛が大阪薬科大学の前身である大阪道修薬学校の設立に関わり、この吉兵衛の薬種商は香料を扱う★「塩野香料」として現在も続いています。塩野義製薬の創設者は分家筋に当たるようです。
《参考》「塩野香料」
★「K・シオノビル」竣工:1990年9月30日
541-0045大阪市中央区道修町3-1-6/06-6222-2045
https://www.shiono-koryo.co.jp/
・・・ロビーに、「旧社屋遺構」がモニュメントとして残されています。
★大阪工場「塩野香料歴史資料室」
532-0033大阪市淀川区新高5-17-75/06-6391-0626
https://www.shiono-koryo.co.jp/company/history/
塩野香料では、創業200年の歴史を書いた社史『200年の歩み』を元に、大阪工場内に2014年「歴史資料室」を設置しました。館内では、「塩野香料の歴史」と「塩野家の紹介」のパネル展示や江戸時代~明治初期に使用していた道具・生薬原料の展示を通し、当時の雰囲気を再現。「研究開発紹介・体験コーナー」では、香料サンプルの香りを嗅ぐ体験もでき、ご来館いただいた方には大変好評です。また、「DVDモニター」では、弊社のプロモーションビデオや映像資料などをご覧いただけます。
・・・ぜひ行ってみたいと思っています。
《大日本住友製薬》
541-0045大阪市中央区道修町2-6-8/06-6203-5321
https://www.ds-pharma.co.jp/release/2014/20140325-2.html
★史料展示スペース
2014年3月 25 日に、大阪本社ビル内に創業時の史料等の展示スペースを開設しましたので、お知らせします。当社は、1897年(明治30)5月に大阪・道修町に設立し、100年を超える医薬品の研究開発、製造、販売の歴史を刻んできました。江戸時代からくすりの町として知られる道修町とともに築いてきた 100 年を超える当社のあゆみを一般の方々に広く知っていただくとともに、多くの方にくすりの町・道修町への関心と理解を深めていただきたいと考えています。創業の精神、長井長義博士の製薬事業発展への貢献、純正医薬品の製造と供給、革新的な医薬品の創出に挑戦する当社の現在の姿など、道修町と当社のあゆみを模型や展示パネル、動画上映、写真映写などにより、わかりやすく紹介します。
《武田道修町ビル》
https://ikenchiku.jp/program/194/
建設:1928年/設計★片岡建築事務所(松室重光)
https://www.takeda-sci.or.jp/index.html
★「杏雨書屋」
541-0045大阪市中央区道修町2-3-6武田科学振興財団1階杏雨書屋
https://www.takeda-sci.or.jp/business/kyou.html
五代武田長兵衞氏(武田和敬翁)は、1923年9月、関東大震災により東京で貴重な典籍が灰燼に帰したことを大いに痛嘆し、日本・中国の本草医書の散逸を防ぐことが、将来、社会・学界のために極めて有意義であると考え、早川佐七氏蔵書、藤浪剛一氏蔵書などを、機会に応じ私財をもって購入し、後に「杏雨書屋」と呼ばれる文庫を形成しました。ちなみに杏雨とは杏林(医学)を潤す雨の意です。この杏雨書屋は六代武田長兵衞氏に引き継がれ、歳月とともにその内容も増大しましたが、1977年当財団へ寄付を受けたので、1978年4月28日「杏雨書屋」の名称を継承し、本草医書を中心とする図書資料館として開館するに至りました。本館では資料の永久保存を図るとともに、研究者の利用に供し、春秋年2回の特別展示会及び常設展の開催、研究講演会の開催、所蔵図書関係の出版等の事業活動を行っています。
《参考》「船場ガイドブック」船場げんきの会より
http://semba-genki.net/category/guide
・・・センタービルの「高低差」を確かめながら、東から西へ。
《船場センタービル》
541-0055大阪市中央区船場中央2丁目3番6-401号
船場センタービル6号館4階/06-6281-4500(代表)
第二次世界大戦後は、御堂筋、四つ橋筋、堺筋をはじめとする街路の新設拡張など都市基盤の整備がめまぐるしい勢いで進められた。なかでも船場地域は東西方向の川の流れに沿った恵まれた構造から、御堂筋を中心に南北方向の都市軸を持つ構造へと変容を遂げた。このことで繊維卸売業者が集中していた丼池繊維問屋街も活況を呈し、近畿地方はもとより西日本全域を代表する商業地域に。
http://www.semba-center.com/history/
御堂筋(淀屋橋~本町)沿道は建設ラッシュを迎え、軒高のそろった街並みが出現。そして★1970年、大阪万国博覧会の開催に合わせ、御堂筋に面した地下鉄本町駅から堺筋本町駅を超えて東西にのびた船場センタービルが完成。ショッピング店、飲食店、事務所などが入り、船場の新しい顔になった。
《NEWS》2015.1.31日本経済新聞より
大阪市営地下鉄中央線の堺筋本町駅を降りると、レトロな建物に迷い込んだ。その名は船場センタービル。狭い通路の両脇に衣料品店や雑貨店、飲食店など、多種多様な店が並んでいる。「広くて古くて何が何だか分からない」というのが第一印象。地上に上がってみると、東西に延びるビルの上には高架道路が走っている。「1000メートルの散歩道」の不思議を追った。船場センタービルは堺筋の東から御堂筋の西までの約1キロメートル、いくつもの道路をまたいで1号館から10号館が連なる。鉄筋コンクリート造りの地上4階、地下2階の建物内には約840店舗がひしめく。館内は微妙な段差や曲がり道があり迷路のよう。1980年代は地下にボウリング場まであったという。なぜ高架道路や地下鉄と一体化した建物ができたのだろうか。ビルを管理する大阪市開発公社の鬼頭克則取締役は「70年に完成した★大阪万博の遺産の一つです」と教えてくれた。戦後間もなく、東大阪の工場地帯から大阪港までをつなぐ中央大通を通す計画が持ち上がった。当時の船場は大小400以上の繊維問屋が並ぶ大阪有数の商業地帯で、全店舗の立ち退きを迫るのは不可能。船場地域だけが取り残された形で工事が進んだが、大阪万博の開催が決まって待ったなしに。そこでビルの上に道路を走らせ、ビルに店舗を収容する発想に至った。建築史が専門の倉方俊輔・大阪市立大学准教授は「突拍子もないようで合理的な大阪人の考え方を象徴する建物」とみる。立ち退きたくない商人と道路を通したい行政を満足させる構想力は「力強い妥協というか、いかにも大阪商人の発想だ」。名称はビルだが「建築より土木に近い」(倉方准教授)。世界でも類を見ない構造物という。由来を知ったところで改めて中を歩いた。店舗が雑然と並び、どこで何を売っているかわかりにくい。フロアごとに紳士服、婦人服と分かれる商業ビルと異なり、紳士服店の隣に呉服店があったり、生地の専門店があったりする。その理由はビル内の複雑な権利関係にあった。鬼頭さんによると、建設費を軽減するためにビルの敷地を入居者に分譲した。代替わりや売却で所有者が変わったところも多いが、今も入居者の6割は区分所有者。カテゴリーごとにテナントを集約しようとしても「区分所有者の権利を整理する必要があって難しい」という。入居者でつくる船場センタービル連盟の池永純造会長に上手な歩き方を聞くと「同じように見えても、それぞれ専門分野が違う」と教えてくれた。よく見ると同じ婦人服店でもブラウス専門や黒い服専門、ズボン専門と取扱商品が異なる。「複数の店を訪ねて気に入ったものを少しずつそろえれば、自分だけのコーディネートができる」今は半数ほどの店舗が一般客向けの小売りも手掛けるが、開業当初は卸売専門店が大半。今も「一般客お断り」の札を掲げた店は多い。池永会長によると「日本の商店街のファッションを支えてきた」そうで、北海道から九州までの商店街の衣料品店が買い付けに来るという。とはいえ、ショッピングセンターなどに押されて商店街の洋服店は衰退気味だ。センタービルに買い付けにくる客も減り、かつてのにぎわいはない。開業45周年を機に、集客力を取り戻す試みも動き出した。★2014年8月に外装を現代的に刷新する工事を始め、2015年5月に完成。全館を挙げたセールも年内に4回催す計画だ。従来はばらばらに実施していたが、初めて一致団結したという。卸売専門店が主体だった頃の名残で、衣料品店などは今も午後6時に閉館し日曜日は全館が休業する。一般消費者には使いにくい面もある。倉方准教授は「この建物のエネルギーをどう生かすか。建設時の大胆な発想が問われている」と話す。にぎわいを取り戻すことはできるだろうか。
《船場を象徴する巨大商業ビルの外壁大改修》熊谷組HPより
http://www.kumagaigumi.co.jp/now/update75.html
今回、外壁と配水設備の改修工事を担当する熊谷組は、かつて1号館の施工を行っている。しかし当時とは施工内容はもちろん、その環境も違いすぎる。何しろ、改修する外壁の長さが直線で約1キロメートル、その工事には、また同距離にわたってアルミパネルを設置していくという、途方もない作業である。
《小ネタ》船場センタービルHPより
http://www.semba-center.com/koneta
平成27年に完成した新しい外壁は低汚染型の塗装を施したアルミパネルにパンチングで伝統的な着物の柄(紋)を施し、賑わいのある新しい外観として生まれ変わりました。夜間にはイルミネーションにより光の演出をし、昼間とは異なった賑わいのある表情が浮かび上がります。他に事例のない極めて革新的な試みにより、なにわを活性化する新名所の誕生です。でも、実はアルミパネルだけでなく、他に事例のない極めて革新的な試みがあるんです。堺筋と御堂筋の1階部分の壁に注目です。なんだか幾何学的な模様を配した石壁ですが、これがGRCにGCしたものなんです。なんのこっちゃ。GRCはGlassfiber Reinforced Cementの略で、要はセメントモルタルとガラス繊維の複合体のことです。最近ではビルの内外装をはじめ、住宅、土木環境分野に多彩に活用されています。高意匠性に優れ軽量、強靭であり不燃、しかも高耐久性があり、これだけ聞いてもすごい。さらにGC加工を施しています。GCはグラフィックコンクリート(Graphic Concrete)の略でざっくりいうと「洗い出し」の技法です。コンクリートの表層が硬化する前に模様を残して洗い出し、内在する砂や骨材、ガラス繊維を露出させる技法で、素材の持つ質感の違いでグラフィックパターンを映し出します。開発したのはフィンランドの★サムリ・ナーマンカ氏。1998年から6年かけて開発したそうな。お疲れ様です。このサムリ・ナーマンカ氏に協力をお願いし出来上がったのが船場センタービルの壁です。日本で初めてのGCらしいです。すばらしい。価格も1平方—メートル100,000円は下りません。いやらしい。御堂筋は「麻の葉」、堺筋は「波」の模様をイメージしたものになっており、遠くから見るとパターンが繰り返される模様が幾何学的でいい感じ、近寄って見るとガラスやなんやかんやが混ざった素材の風合いが奥行きをかもし出して、まるで遠くから見た縞柄の生地が細かく見るとたくさんの繊維が織り込まれているようで、製作者は「繊維の街」をこんな形で表現することを狙っていたそうです。ちょっと奥深すぎでそこまでイメージを膨らませるには座禅でも組んで庭の枯山水を眺めるぐらいの心持ちが必要です。まぁーそこまでせんでも、とりあえずは触りたくなったでしょ。
https://www.markupdancing.net/archive/sembacb_002.html
【サムリ・ナーマンカ(Samuli Naamanka)】
http://www.samulinaamanka.com/index.htm
・・・このように、じっくり大阪のマチやタテモノを見つめていくと、あらためてスゴイなあと感心するし、大阪を好きというより「大切にしていきたい」という思いが強くなっていきます。