早秋(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【金澤翔子】 

http://www.k-shoko.org/

1985年誕生。東京都出身。5歳から母の師事で書を始める。20歳、銀座書廊で個展。その後、建長寺、★建仁寺、東大寺、薬師寺、中尊寺、延暦寺、熊野大社、厳島神社、三輪明神大神神社、大宰府天満宮、伊勢神宮、春日大社等で個展・奉納揮毫。福岡県立美術館、愛媛県立美術館等で個展、ニューヨーク、チェコ、シンガポール、ドバイ、ロシア等で個展を開催する。NHK大河ドラマ「平清盛」揮毫。国体の開会式や天皇の御製を揮毫。紺綬褒章受章。日本福祉大学客員准教授。文部科学省スペシャルサポート大使。

 

 

★「拈華微笑(ねんげみしょう)」 

http://www.jyofukuji.com/10zengo/2009/04.htm

禅宗において禅の法脈を釈尊が摩訶迦葉に微妙の法門として付嘱したとする伝説のこと。禅宗の起源を説く寓話であり、公案の一つでもある。宋代以降の禅宗において、不立文字・教外別伝の立宗の基盤を示すものとして重用された。 

インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、会座の衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して微笑した。悟りは文字理論によって伝わるものではないという不立文字の意味を示しものであり、釈尊が迦葉尊者にのみ正法を授けたという伝灯の起源となった。この寓話の根拠は、偽経である大梵天王問仏決疑経であるという。

 

 

《参考》 

●「シナリー金澤翔子美術館」 

600-8217京都市下京区東境町191-2烏丸七条ビル/075-341-4530 

http://www.sinary.com/

https://www.facebook.com/pages/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%A5%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%AF%E7%A4%BE/483578748332226

●「金澤翔子美術館」 

972-0163福島県いわき市遠野町根岸字横道71番地/0246-89-2766 

http://kanazawa-shoko.jp/museum/index.php

 

 

・・・素晴らしい「揮毫」です。こちらを向けていただいて、本当に驚きました。


 

・・・続いて、各塔頭で開催されている展示会へ。

 

《西来院》 

605-0811京都市東山区大和大路四条下ル小松町584(建仁寺境内)/053-452-7584 https://kyoto-design.jp/spot/10651

鎌倉時代の中期に南宋から渡来した禅僧である蘭渓道隆が、京都建仁寺に住した際の住持寺が「西来院」です。蘭渓道隆は日本に禅宗を広めるため来朝し、大宰府に着きました。その後、京都の泉涌寺の来迎院に入り、院主の指示によって鎌倉の寿福寺に赴き、鎌倉幕府の執権・北条時頼の厚遇を得て建長寺を創建しました。その後、後嵯峨上皇の詔によって京都建仁寺に住しました。禅宗寺院の中でも西来院は高僧「蘭渓道隆」の寺として格式、佇まいに大変すぐれた寺院です。建仁寺の境内にあり、花見小路通りを挟んだ東に位置します。 

 

《参考》「未生御流」 

http://www.mishou-goryu.jp/

未生斎廣甫師(1791~1861)[未生家二代]が旧嵯峨御所大覚寺門跡猊下に召し出され旧嵯峨御所花務職に就任したのち、文政12年(1829)永宜旨(工芸諸匠の叙位の権限)により「御」の字を賜り「未生御流」と名のるようになりました。三代未生斎一廣甫師が早世ののち、大阪城においていけばな教授を行い名声のあった岡本家に対して旧嵯峨御所は「未生御流家元正統」と原則を定められました。以来、今日まで未生御流の許状は岡本家において授与されています。岡本政之進(廣栄斎逸甫初代家元)は当時の住居地であった大阪東区で小学校の創設など教育関係に尽力貢献し人望を集めた人です。いけばなに於いても人望が篤く流派を超えた多くのいけばな人が師の許に集まりました。二代目岡本ハル(廣進斎春甫)三代目岡本亀冶郎(廣栄斎玉芳)と継承され昭和36年に現家元岡本芳村(廣栄斎芳村)によって四代目が継がれています。「和の心」を尊び「伝統を極め尽くして尚、それを超えたところにこそ真の新しさが生まれる」と、いけばなに情熱を傾けて活動しております。

 

 

《両足院》 

604-0811京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町591/075-561-3216 

https://ryosokuin.com/

両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西禅師の法脈・黄龍派を受け継ぐ龍山徳見禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。知足院は、龍山徳見禅師の遺骨が知足院に葬られてからは、徳見禅師の法脈を継ぐ当院3世文林寿郁の両足院・一庵一麟の霊泉院などの黄龍派寺院の本院でした。創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。改称に関しては、諸説ありますが、一説として、時の天皇・後奈良天皇の諱名「知仁」に触れた事が原因とされています。以後両足院は、安土・桃山から江戸時代の8世利峰東鋭の代までは主に、饅頭の祖である林浄因の子孫によって、霊泉院は龍山和尚の生家・千葉氏出身の禅僧たちによって、護持されます。なお、霊泉院は、現在は霊源院と改められて今も存続します。また江戸初期までは、知足院と霊泉院が輪番で建仁寺開山堂・護国院を守塔していたこともあり、建仁寺開山明庵栄西禅師の直系黄龍派の中心寺院であったことがわかります。 

《アルスシムラ》 

https://shimuranoiro.com/ars/

アルスシムラの源流は、1927(昭和2)年の昭和学園設立にまでさかのぼります。創設者の一人、志村ふくみの両親であった小野元澄・豊は、柳宗悦の民藝運動、黒田辰秋・青田五良の上賀茂民藝協団、富本憲吉らと親交を結んでいました。そして、自ら理想的な教育を実践する場として、東京の成城小学校から教育者 谷騰(1892-1938)を招き、滋賀県近江八幡の地に、県内唯一の市立小学校である昭和学園を設立することに尽力しました。昭和学園では、大正新教育運動の理念のもと、創造性、自主性を重視した教育が行われました。母・豊からの影響で染織の道に入ったふくみは、紬織を「工芸」から「芸術」へと昇華させ、独自の美の世界を創造しました。ふくみの長女・洋子は母と同じ染織の道に進みながらも、ゲーテやルドルフ・シュタイナーの思想と出会い、1989年にふくみと都機工房を設立後は、日本伝統の着物という枠を超えて、「色」という普遍的な美を目指すようになりました。昭和学園設立から85年を経た2013年4月。時代に対する危機感の高まりとともに、社会に開かれた芸術教育の場を作りたいという希望のもと、志村ふくみ、長女・洋子、そして孫・昌司を中心として、京都にアルスシムラが設立されました。以来、アルスシムラでは全国から集まった多くの方々が学び、社会に巣立っています。 

★2014年度本科卒業生/第1回作品展 

2018年11月2日(金)~4日(日)於:両足院 

https://shimuranoiro.com/topics/2480/

 

・・・ふだん非公開の塔頭も、このような展示会で観ることができるのでいいですね。