平瀬露香(29) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《御堂筋の歴史》 

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000239175.html

★昭和12年5月11日。御堂筋は困難を乗り越えて開通の日を迎えます。実に、着工より11年という長い歳月をかけての完成となりました。開通当初は、市民が「飛行場か?」と笑ったことが本当のようにのどかな風景でした。現在のように自動車が頻繁に行き来する時代ではなかったので、当然といえば当然なのかも知れません。電線を全て地下に配し、イチョウ並木を植えたことも、多くの人に"のどかな道"という印象を与えたようです。シンボルとも言えるイチョウ並木は完成時に植えられたもので、淀屋橋南詰から難波までの区間に約800本があります。ちなみに梅田から淀屋橋北詰までにあるのはプラタナス並木です。全長約4キロメートルの直線道路と開放感のある道幅、そして自然溢れる並木道が、御堂筋を世界でも類をみないほどの美しい道としています。 

https://www.osaka-jc.or.jp/2018/activity/special-project/459/

道路の完成に先駆けて開通していた地下鉄。梅田~心斎橋間は★昭和8年開通で、昭和10年には難波、昭和12年には天王寺までと延長されました。東京に次いで二番目の開通でしたが、市営としては初めて。駅の規模は東京よりも大きく、機能性だけでなく見た目の美しさも追求した豪華な施設でもありました。心斎橋駅にはアーチ型の高い天井があり、シャンデリアなどは当時の雰囲気を今に伝えています。

 

 

・・・当時の苦労を考えると、本当に感謝しかないですね。この工事で★「平瀬家」も取り壊されたのですから、もっと住みやすく美しい大阪をこれからも創造していく義務が私たちにはあります。 

 

《参考》日本生命保険本店本館-激動の時代と共に生き続けた品格ある建築- 

http://www.nikken.co.jp/ja/archives/history/04_03.html

1889年に創立された日本生命は、1902年に現在の地に本店を構えて以来、1世紀以上もこの地で営業を続けている。最初の赤レンガの洋館が建てられた頃、御堂筋はまだ★細い街路に過ぎず、正面玄関は心斎橋筋に面していたが、1936年に御堂筋に面した現在の本館建設が始まった。しかし戦争の影響によって北半分が完成した時点で工事は中断、戦後はGHQに接収され、1962年にようやく全体が完成したという数奇な運命を持つ。花崗岩に覆われた端正な外観は今なお「御堂筋らしさ」の源泉であり、周辺一帯ではこれからの御堂筋のために、上質な街づくりが進められている。

 

 

《平瀬本源氏物語》の解説より 

(前略)本写本は平瀬家の所有となった後、平瀬露香の没後も同家に伝えられており、山脇の調査時(1919ころ)は露香の養子である平瀬家第8代当主★平瀬三七雄(1876~1927)春齢・露秀とも称している所有とされており、1930年(昭和5年)ころの池田亀鑑の調査時には平瀬三七雄の夫人・陸(★平瀬家第9代当主)の所蔵とされている。(中略)本写本を受け継いだ平瀬家第9代当主は戦後になって元々平瀬家の一別宅であった★京都室町の家に居住していたために、本写本は一時期「京都平瀬家本」と呼ばれたこともある。写本は、重要文化財未指定であった竹河1帖を含め、1999年(平成11年)、東京の古美術商から文化庁が購入した。2008年(平成20年)1月19日から3月10日には平瀬露香の没後100年を記念して大阪府大阪市の大阪市立大阪歴史博物館において特別展『没後100年最後の粋人/平瀬露香』が開催され、当時すでに平瀬家を離れて文化庁保管となっていた「平瀬本源氏物語」のうち夕顔、紅葉賀、須磨、明石、藤裏葉、若菜上、若菜下、幻、匂宮、浮舟の各巻が「平瀬露香にゆかりのある文物の一つ」として展示された。 

 

【平瀬三七雄(春齢、露秀)】(1876~1927) 

富子助次郎の長男、「大正名器鑑」には、千種伊羅保や長崎など名器が平瀬三七雄蔵と記されている。1916年(大正5)時事新報社「第三回調査全国五拾万円以上資産家」には、七十万円★平瀬三七雄(銀行重役)東区北浜、財産種別 有価証券、骨董品、不動産。略歴:大阪府平民・富子助次郎氏の長男にして明治九年三月出生、先代平瀬亀之輔氏の養子となり四十年一月家督を相続す。現時「大阪貯蓄銀行」専務取締役の外東洋製紙、教育生命保険会社の監査役を兼ね居れり、と書かれている。晩年には、御堂筋の拡張工事に伴い本宅・控宅ともに取り壊され、新たに★京都室町一条の屋敷にはかつての控邸と全く同じ建物が建てられた。52歳没。 

★平瀬家第9代当主・陸(未亡人)平瀬家新宅五代市五郎長女。1971年80歳没。 

 

・・・平瀬家第10代当主は、東京にお住まいのようです。京都室町一条近くには★「金剛能楽堂」があります。平瀬家との深い縁を感じます。

 

 

★「能之秘書」/野上記念法政大学能楽研究所デジタルアーカイブより 

https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/cate4.html

全百十六曲を収める脇の型付。流儀は不明ながら、〈葵上〉の祈りで小袖を奪おうとするシテを後ろから打つ型を記すなど、古態の演出を伝え、書体からも慶長頃の写本と推定される。大阪の豪商で★金剛流の後援者として著名な★平瀬露香の旧蔵。露香の没後、未亡人が売りに出したのを、フランク・ホーレイが買い求めたもの。 

 

《金剛能楽堂》設計:大江建築アトリエ/施工:竹中工務店 

602-0912京都市上京区烏丸通中立売上ル/075-441-7222 

http://www.kongou-net.com/index.html

文化の香る町京都。金剛能楽堂は、その京都の中でも特に能楽と関わりの深い、かつての室町幕府の「花の御所」の近く(現在の京都御所の西向かい)に平成15年に開館しました。百三十余年の星霜を経た室町の旧金剛能楽堂より、先人の思いが詰まった能舞台をそのまま移築。21世紀の能楽堂の中に19世紀の舞台が融合する、時空を超えた空間が誕生しました。 

https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/12_vol_145/issue/02.html

 

【旧金剛能楽堂】四条室町の金剛宗家邸内に、旧能楽堂があった。旧能楽堂は昔の装いで、見所(客席)が4、5人が座る枡で囲ってある。老朽化のため旧金剛能楽堂は、百三十余年の歴史を閉ざす。

 

 

《NEWS》2017.11.28本経済新聞より 

能楽堂/京都で守りぬく能楽・金剛流二十六世宗家★金剛永謹さん 

能楽で5流あるシテ方のうち、金剛流宗家だけが関西(京都)を拠点にする。二十六世宗家の金剛永謹さん(66)は同市★四条室町にあった金剛能楽堂の老朽問題に直面した際、東京移転の選択肢もあった中で、2003年に京都御苑の西向かいに現在の能楽堂を開場した。この街は芸能に理解があるとの思いが決断の理由だ。旧能楽堂は室町末期、千利休の師として知られる茶人、武野紹鴎の屋敷があった場所だった。長年親しんできた場所なので、そこでの改修を考えたが、間口が狭く法律の関係で思うような能楽堂を建設できない。移転先を探す中で東京の土地も紹介された。だが、京都は能にゆかりが深く、長年活動してきたので支援者も多い。現在の能楽堂の土地が見つかったのは幸いだった。能舞台は旧能楽堂にあったのを解体して移築した。これは明治前半、京都御所にあった能舞台を模して造ったと聞く。それ以前の舞台は京都の市街地に大火を招いた禁門の変(1864年)で焼失。その後、石清水八幡宮(京都府八幡市)から能舞台を頂いたが、古かったため損壊。それで造ったのが現在の能舞台だ。室町時代、能は一般に親しまれていた。江戸時代には能は武家の式楽とされ、庶民から遠ざかった。だが、京都では有力な町衆が謡を愛好し続けた。室町時代、町衆が能に親しんでいた度合いは祇園祭の山鉾に現れている。現在の山鉾の体裁は応仁の乱(1467~77)の前後に整ったといい、その中に能から題材を得たものがかなりあるからだ。例えば、旧能楽堂があった菊水鉾町の「菊水鉾」。菊の露を飲んで長寿を得たという「枕慈童」(観世流の演目名は菊慈童)にちなんで、枕慈童の舞姿の人形を乗せている。「芦刈山」と「木賊(とくさ)山」「橋弁慶山」はそれぞれ能の同名曲が題材。「黒主山」は能「志賀」にちなむとされている。毎年の祇園祭で、京都の町衆は能にちなむ山鉾を目にしてきた。それだけでも、能との距離は近い。京都は東京や大阪に比べて町がコンパクト。文化人が互いに近くに住んでいる分、交流も密とされる。美人画の上村松園さんは能の仕舞に構図を得た「序の舞」を描いたが、演者のスケッチによく旧能楽堂においでになっていた。ご自身も金剛流の謡を習い、息子の松篁さん、孫の淳之さんも稽古されている。松篁さんとの関係では、鳳凰の図柄を描いてもらった能装束がある。3領ある「胴箔地鳳凰文長絹」のうちの1領だ。最初の1領は能を愛好した東本願寺の第23代・彰如上人から、曽祖父の謹之輔が頂いた。使っているうちに傷んできたので、京都画壇の堀井香披さんに写しをお願いし、さらに松篁さんに1領写しを頼んだ。彰如上人は京都画壇の竹内栖鳳に師事し、いただいた長絹の鳳凰は上人の筆だと伝わる。私は栖鳳がある程度、関わったのではないかと推測しているが、栖鳳は松園さんが師事した3人の画家の1人。面白い巡り合わせだ。能は約650年続く芸能だけに、ファンづくりは今も昔も変わらぬ課題。ただ、それ以上に能装束や道具類の制作技術がうまく継承されるかを心配する。今や「ここなら」といえる能装束店は京都に1店しかない状況。京都ばかりでなく、全国の能楽師がこの店に注文している。舞台に用いる扇や道具類を頼める店も京都にわずかばかり。そうした技術が京都に残っているのは町の厚みで、優位性ともいえるだろう。だが、演者の次世代の育成がうまく進んでも、装束や扇などの技術が継承されなければ、よい舞台を維持できない。行政が保護するのは難しいだろうが、何かよい手立てはないかと思う。

 

 

《参考》特別展「金剛宗家の能面と能装束」 

会期:2018年6月30日(土)~9月2日(日) 

会場:三井記念美術館/03-5777-8600 

103-0022東京都中央区日本橋室町2-1-1三井本館7階 

http://www.mitsui-museum.jp/

「金剛流は、中世に遡る大和猿楽四座の一つ「坂戸(さかど)金剛」に源を発する長い歴史がありますが、坂戸金剛家23世の金剛右京(氏慧・うじやす)が、跡継ぎがなく、伝家の能面54面を三井家の三井八郎右衛門(高公)に譲り、昭和11年に金剛宗家の絶家を遺言して没したといいます。しかし、能楽界の要請と推薦により、翌昭和12年に、京都で活躍していた「野村金剛家」から金剛巖(初世)を家元にたてることで金剛流が継承されました。現在は、★金剛永謹氏が金剛流26世を名乗られています。三井家に譲られた旧金剛家伝来の能面は、昭和59年に三井文庫に寄贈され、現在当館の所管となっています。このような金剛流とのかかわりから、今回、京都の金剛宗家に伝来する能面と能装束の展覧会を開催することとなりました。出品作品は能面58面、能装束27領、ほかに腰帯や扇など小道具が若干出品されます。金剛家の能面は、古くから野村家に伝わるもののほか、喜多家伝来のもの、金春家伝来のもの、大阪★平瀬家伝来のものに大きく分かれるようです。今回出品の能面の3分の1ほどが、永謹氏の蒐集によるものということで、同氏の能面への思い入れの深さと、演能当事者の目から見た能面観がうかがえるまたとない展覧会といえます」(三井記念美術館学芸部長・清水実)中世以来の幽玄の美の世界が広がります。