平瀬露香(22) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・芭蕉句碑周辺を散策してから、坂を下りたいと思います。 

 

《法華宗(真門流) 法照寺》 

579-8032東大阪市東豊浦町9-12/072-981-2261

 

 

・・・椋ヶ根橋のたもとの暗渓、生駒山から下ってくる豊浦川渓流があります。上流には「豊浦山池」があります。恩智川の支流で、生駒山系・暗峠付近に発し西流、鷹殿町西部で恩智川右岸に注ぐ。豊浦町で枚岡神社境内から来る小流もあります。 

http://hiraoka.osaka-park.or.jp/facilities/

 

 

・・・素晴らしい景色にほれぼれします。これも、露香さんが出合わせてくれたのかと思うと、嬉しくなります。

 

 

《梅龍山「勧成院」》 

579-8032東大阪市東豊浦町8-5/072-981-2107 

http://www.nichirenshu-osakashi.org/map/tera_map/osakafu-tobu/kanjoin.html

★勧成院と松尾芭蕉句碑/勧成院は、山号を梅龍山という日蓮宗の寺院です。室町時代の永正2年(1505)に摂津国三島郡上牧(高槻市)の本澄寺の寺中として建立されましたが、明治27年(1894)現在の地に移築されました。この地は、もと法華宗の善導庵という寺院がありましたが、同6年に廃寺となり、その跡へ移されたものです。境内に入って右側に、寛政11年(1799)12月12日に豊浦村の俳人中村耒耜(らいし)が建てた「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑があります。この句は、元禄7年(1694)9月9日重陽、菊の節句に松尾芭蕉が伊賀上野から大阪へ向かう途中に詠んだものです。同年10月12日に大阪で芭蕉は亡くなりました。この碑は、もとは暗峠の街道筋にありましたが、山津波のため行方不明となっていたのを、大正2年(1823)に発見され、ここへ移されました。境内には、文政8年(1825)俳諧堂社中によって建碑された★中村耒耜の句碑もあります。また寺には、大正3年★生駒トンネル開さくにともなう犠牲者63人の氏名を列記した過去帳が残され、当時の難工事をしのばせます。東大阪市教育委員会

 

 

●「中村耒耜」句碑

流るれば細き音あり山清水 

文政8年(1825)6月、俳偕堂社中建立。耒耜は豊浦村の中村四端。二柳の門人。「俳偕堂」を主宰。名は貞明、号は四端・松廼舎・松廼翁・俳諧堂・二斗庵・鳳尾館。文政年間(1818~1830)に歿。耒耜は、河内国豊浦村★庄屋だったようです。「俳諧新十家類題集. 春,夏,秋,冬,雑部」編:俳諧堂耒耜、阿里園六轡。 

《参考》「耒耜」とは、中国で鋤と鍬のことをいう。耒は二叉、三叉になった鋤系の農具、耜はスコップ状の鍬系の農具。また耒を鋤の木製の柄、耜を鋤の刃あるいは刃をはめる部分であるとする説もある。

 

 

《参考》 

「暗越奈良街道を歩いた旅人たち 歩いて知る街道の歴史」著:杉山三記雄 

1943年(昭和18)生まれ。1966年(昭和41)関西大学法学部卒業。2003年(平成15)★東大阪市役所退職。平成17年3月東大阪まち・むら文化研究会代表就任。平成22年4月河内の郷土文化サークルセンター会長就任。現在、河内の郷土文化サークルセンター相談役。 

 

・・・いずれ「暗越奈良街道」を走破してみたいと思いますが、まずは中村耒耜「俳偕堂」、そして西村宗逸「六郷社」を調べてみたいと思います。