・・・露香さん(数寄者)の「数奇」な生い立ちを調べていますと、★「卜深庵木津家」HPに平瀬家歴代について、詳しく掲載されていました。
【松平不昧】(1751~1818)
松平治郷、出雲松江藩の第7代藩主。直政系越前松平家宗家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。藩の財政改革を果たし潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した。政治家としての治郷の評価は低いが、一説には財政を再建して裕福になったのを幕府から警戒されることを恐れて、あえて道楽者を演じていたともされる(越前松平家系統は親藩の雄として尊重されると同時に、過去の経緯から幕府に常に警戒されていた)。
《参考》「出雲文化伝承館」
693-0054島根県出雲市浜町520/0853-21-2460
http://izumo-zaidan.jp/tag/izumobunkadensyoukan/
「不昧(治郷)の茶道を一言で答えると、根本的には禅」。茶の湯に造詣が深い出雲文化伝承館の藤間亨名誉館長はこのように話す。十代前半から、父の松江藩六代藩主・松平宗衍(むねのぶ)から帝王学を学んだ不昧は、茶の湯に興味を持つとともに、★禅学の修行を行う。以来、心の中には常に禅の精神が宿っていた。その禅の心は藩の財政改革にも生かされ、不昧が松江藩中興の祖といわれる原点にもなった。東京都港区南麻布にある天真寺=豊吉宗雄住職=は、不昧の号を授けた大巓宗碩和尚の寺として知られる。茶人・不昧を語る上で京都大徳寺とともに、欠かすことができない場所だ。天真寺には不昧ゆかりの茶器や書、手紙、遺品が多数残されていて、茶道家や不昧研究家が一度は訪れる場所でもある。江戸・赤坂の藩邸で生まれた不昧(幼名・鶴太郎)は、藩邸から三-四キロ離れた天真寺をよく訪れたという。天真寺には直政(初代藩主)と綱近(三代藩主)の夫人の墓があり、参詣に訪れた不昧は、ここで生涯禅の師と仰いだ大巓和尚と親しくなる。1767(明和4)年、名を治郷と改め、★17歳で藩主になった不昧は、翌年から将軍家の茶道師範・伊佐幸琢から正式に「石州流」を学び、次いで禅学を大巓和尚から学び始める。このころ、既に親交のあった京都大徳寺の無学宗衍和尚から「三央庵宗納」の号を授かっている。不昧の号は1771(明和8)年、大巓和尚から授けられたのだが、実際に不昧を名乗るようになるのは56歳で隠居、剃髪した1806(文化3)年より後のことである。
《三代目木津宗詮》(1862~1939)
武者小路千家の宗匠筋・木津宗詮家は初代が★松平不昧公に師事し、その後武者小路千家八代一啜斎の門下となったことから始まる。一番有名なのが、のちに一代限りの宗泉名を貞明皇后から授かった★三代目宗詮(聿斎)、明治から昭和戦前に茶人としてより、むしろ数寄屋建築家・造園家として活躍した人である。大宮御所に貞明皇后の命で作った茶室・秋泉亭の設計。後に淡々斎が好んだ秋泉棚(楓の透かし)もこの茶室の名に由来して作られた。茶臼山の住友家・慶沢園、南禅寺畔の看松居(レストラン桜鶴園内)、奈良高畑・山田安民(ロート製薬創始者)邸棲霞園、延暦寺大書院、興福寺茶室・静観寮、四天王寺茶室・払塵亭など。しかも茶人としては、一時武者小路千家家元を預かっていたという功績がある。先代がなくなり当時10歳だった武者小路千家12代(後に愈好斎)が表千家にひきとられ、後に成人して再興するまでの間、家元預かりだった平瀬露香★息子の露秀からさらに預かった。
《赤松則村(円心)》(1277~1350)
鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。尊氏及び執事の高師直と弟の足利直義が対立した観応の擾乱においては尊氏に従い、尊氏の庶子で直義の養子である、直義方の直冬を追討するために軍を編成している最中、正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死した。享年74。家督と播磨守護は範資が相続したが、翌正平6年/観応2年(1351年)に範資も急死したため、摂津守護は孫の光範に、家督と播磨守護は則祐に受け継がれた。法名は法雲寺月潭円心。墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院。供養塔が兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺(法雲昌国禅寺)にある。
678-1277兵庫県赤穂郡上郡町苔縄637/0791-52-4129
http://kamigori-kankou.jp/?page_id=47
また、木像が兵庫県赤穂郡上郡町の宝林寺「円心館」にある。
678-1278兵庫県赤穂郡上郡町河野原279/0791-52-1277(松雲寺)
http://kamigori-kankou.jp/?page_id=51
http://kamigori-kankou.jp/wp/?page_id=59
《NEWS》2018.4.18神戸新聞NEXTより
建築年不詳だった鐘楼堂/棟札発見で文政6年と判明
★「たたら製鉄」に起源を持つ江戸時代の上方の豪商★平瀬家ゆかりの「大雲寺(兵庫県宍粟市山崎町上寺)」でこのほど、建築年不詳だった鐘楼堂の改修工事現場から、文政6(1823)年の建物であることを示す棟札が見つかった。隣の山門と同じく平瀬家が寄進したとの説もあったが、建築時期が異なり寄進者の名前もなく、地元の檀家らで建てたとの見方が強まっている。鐘楼堂と山門は屋根が解体されており、22日まで間近で見学できる。平瀬家は同市千種町の鉄山経営で栄えた千草屋の家系で、江戸時代に山崎に店を構え、★その分家が大坂で両替商として財をなした。江戸から明治にかけて「最後の粋人」と呼ばれた文化人、平瀬露香が輩出したことでも知られる。大雲寺は山崎平瀬家の菩提寺で、その山門は露香の父★春温が1845年に寄進した。隣接する鐘楼堂は、戦時中に供出した梵鐘の銘に1694年建立と記されていたが、当初のままなのか、改築されたのかは諸説あった。鐘楼堂の棟札は「文政六未年四月大工播州三木なめら町紅粉屋卯兵衛」などと読めるが、誤字が多く、漢字を習っていない人物が書いたとみられる。裏側は大正5(1916)年に改修した際の棟札として使われていたが、鬼瓦にも文政5年の銘が見つかり、文政期に建立された可能性が高いという。同寺の加藤昭彦住職(64)は「鐘楼堂の歴史が分かり感慨深い。解体修理のまたとない機会に、見事な彫刻などを見てもらいたい」と話していた。
《大雲寺》
671-2571兵庫県宍粟市山崎町上寺169/0790-62-0765
★弘化2年(1845)5月26日に再建された山門
http://www.jodo-daiunji.jp/歴史 沿革/
当山の過去帳によると再建の費用は千草屋平瀬家の一寄進によるものと記載されており、施主名は、大坂梶木町★平瀬宗十郎、山崎本町★平瀬源右衛門の両名となっています。とりわけ平瀬宗十郎(春温)は当時大坂で両替商を営む豪商でありました。平成20 年、大阪歴史博物館において、没後 100 年最後の粋人「平瀬露香展」が盛大に開催されましたが、その先代の人にあたります。
《参考》ノンフィクション作家(古代史研究家)「久慈力」ブログより
https://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11504552134.html
「橋下徹―突出した異能者の源流」第二章たたら製鉄の聖地、宍粟市千種町
●宍粟郡と千種町はタタラ製鉄の聖地
『千種町史』(編纂・千種町史編纂委員会)によれば、千種川流域には1983年現在、約85ケ所以上の製鉄遺跡が把握されているという。このうちの佐用郡南光町の西下野遺跡は8世紀初頭、その北に接する宍粟市千種町西河内(にしごうち)の高保木遺跡が鎌倉・室町時代、同じく西河内の天児屋(てんごや)遺跡は鎌倉時代に創業されたという。八世紀初頭というと奈良時代にあたる。現在の宍粟市の千種町地域は、『播磨国風土記』「敷草(しくさ)村(現在の千種町)に鉄を生ず」とあるように、古代から木炭の火で砂鉄を溶かすたたら製鉄が盛んであった。そこはたたらの聖地であった。千種町の西河内には天児屋鉄山遺跡(兵庫県指定史跡)があり、この製鉄遺跡は鎌倉時代から約百年前まで稼働していたという。この鉱山では技能を持つ鍛冶大工、ふいごがかりの番子(ばんこ)、木を切り炭を焼く山子(やまこ)、向こう槌を打つ手子(てご)など家族を含めて350人も生活していたという(鳥羽弘迭毅著『たたらと村―千草鉄とその周辺』千草町教育委員会)。約500メートル四方に及ぶ、江戸時代では最大級の鉄山であった。ここには現在、たたらの里学習館も造られている。千種町内には、このほかに15カ所程度の鉄山、たたら場があったという。千種川支流の河内川上流にも三室鉄山がある。隣の波賀町には揖保川に沿って、やはり15程度の鉄山、たたら場があったようだ。これらの地域は、農耕地として利用できる平地ではなく、山間僻地が多かったために、サンカの居住地とかさなったり、河川の汚染がともなったために、あるいは木材の確保、森林の破壊で両者の衝突もあったと考えられる。
●宍粟鉄は長船、姫路、大阪などで珍重され、名刀が造られた
宍粟郡で造られた鉄は千種鉄、宍粟鉄と呼ばれ、これらの良質な鉄は陸路や高瀬舟で揖保川の網干(あぼし)、市川の下流の姫路や吉井川の長船(おさふね)などに運ばれ、海路で大阪方面にも運搬された。備前の長船では、名の知れた刀鍛冶により、「ちくさはがね」を使って優れた刀が作られた。また、大阪の鍛冶屋町に、宍粟郡の地名にちなんだ千種屋などの鉄問屋があり、宍粟郡の播磨鉄を取り扱い、刀匠が好んで使用したという。宍粟郡の鉱山師で最も有名な★平瀬源右衛門は、寛永年間、長男を千草町に住まわせ、鉱山経営に当たらせ、郡内の中心地の山崎に千草屋を開き、これを次男にまかせ、大阪に鉄問屋★千草屋を設けて、これを三男・道閑に経営させた(鳥羽弘毅著『たたらと村』)。千草屋は鉄の生産販売を一手に握り、巨万の富を築いたという。宍粟郡と大阪は鉄の流通でも結びついていた。姫路では宍粟鉄を使った播磨鍋が作られ、全国的にも有名であった(『千種町史』)。柴田弘武著『全国「別所」地名事典(下巻) 鉄と俘囚の民族誌―蝦夷「征伐」の真相』(彩流社)は「千種鉄の刀剣の歴史は、古く平安時代にまでさかのぼり、平安中期10世紀の後半、宍粟郡に家時という刀鍛冶が住んでいて、細身の刀を鍛えた。播州宍粟鉄または千種鉄は水折れ折れ口白く光至極細やかなるを上とする。この鉄にて作った道具は刃色白く細やかに見える。備前の鍛冶は多くこと鉄を使う」という内容を紹介している。
《たたらのふるさと西播磨》
https://chikusatown.net/guide/books/harima.html
《平瀬家》
平瀬家は★赤松則村(円心)の子孫との言い伝えを持ち、大阪で両替商「千種屋」を営んでいた豪商で、最盛期には住友や鴻池に次ぐほどの勢力を誇ったとされる。しかし、住友や鴻池が幕末から明治時代にかけて後に財閥と呼ばれるような近代的な経営体に変化していったのと比べると平瀬家は露香の時代、旧態依然とした体制のままにとどまり明治以後に始めた事業はほとんどが成果を上げられずに衰退する一方であり、明治時代後期には平瀬家の別宅や所蔵品の売り立てを何度も行うまでの窮乏状態になっている。
【第4代当主平瀬春郷】(1977~1821)
春郷は半仙と号した。このころの平瀬家は経営が安定し、資産を蓄積していった時期にあたり、このころから茶道具の蒐集が本格化していく。茶道具の購入は純粋にその愛好と執着によるものと、財産保全のために投資するという側面もあったようである。柴田勝家が織田信長から一国の代わりに拝領した「柴田井戸」をはじめ、「千種伊羅簿」・直斎好みの「名取河香合」等を入手している。また、本宅屋敷木犀居(もくせいきょ)の普請を行い、常釜を掛けて商談や社交など、茶の湯を積極的に楽しんだ。なお、同家には武者小路千家七代直斎と次代の一啜斎からの書状が多数残されていて、両家と武者小路千家との深い交流を知ることができる。
【第5代当主平瀬水】(1806~1835)
文化3年(1806)に★春郷の子として生まれている。はじめ亀之助、のちに宗十郎と名乗り、士潤(しじゅん)と号し、文政3年(1820)に家督を相続している。水は生来病弱であったため、義兄の呑光(どんこう)(勝古)が家政を補佐している。天保元年(1830)、播州山崎で病気療養中に、水の養生所として浮世小路御霊筋の「小路座敷(浮世小路別宅)」の普請が行われていて、この時に直斎好みの茶室「一方庵」が武者小路千家から移築されている。なお、七代露香(ろこう)はこの一方庵のあった小路座敷で大半を暮らし、「一方庵」と号している。水は茶の湯を松斎に師事し、文政11年(1821)12月21日から5日間にわたり、梶木町の卜深庵で連会茶事を行っている。水は小路座敷で病気療養をしつつ、読書や茶の湯を楽しんでいたようである。
【第6代当主平瀬宗十郎】(1818~1866)
五代春郷の六男で、兄水が天保6年(1835)に亡くなったことにより、18歳で家督を相続した。はじめ収五郎、のちに宗十郎と名乗り、士陽(しよう)と号している。天保6年(1835五)に家督を相続している。春温(はるあつ)は茶の湯を松斎に師事し、武者小路千家十代以心斎の門人録には天保10年(1839九)に小習六ヶ条と唐物点・茶通箱を松斎の取次ぎで受けている。松斎の他会記「昨今茶事扣」に、春温が卜深庵で催した13回分の茶事の会記が記録されている。春温は実際に茶事を通じ松斎の指導を受けている。嘉永3年(1850)、春温は本宅東隣の控邸の改造をし、玄関・茶室・開きの間・腰掛待合・砂雪隠・中門・水屋・懐石料理室・袴付等を包含する大茶亭としている。この控邸は天保2年(1831)に春郷が尼崎屋市右衛門から代銀55貫目で本宅東隣を買い取ったもので、同7年(1836)に台所・居間・茶室等を春郷が普請したものである。茶室には二代得浅斎の参禅の師である大徳寺拙叟宗益(せっそうそうえき)筆の額が掲げられた又隠(ゆういん)写しで、その露地は松斎の作庭である。露地には堺南宗寺集雲庵(しゅううんあん)の袈裟型蹲踞(つくばい)と織部灯篭が据えられていた。又隠写しには六畳の続きの間があった。茶室の造作にも松斎が関係していたと考えられる。
【第7代当主平瀬亀之助】(1839~1908)
平瀬露香は、のちに平瀬家第6代当主となった平瀬宗十郎と千種屋の奉公人の娘の子として生まれたものの、★平瀬宗十郎は、平瀬家第5代当主★平瀬水(1806~1835)の六男であり、当時の宗十郎は当主となることなど考えられない部屋住みの身であったため、父母は結婚を認められず、実母は実家に帰されて露香は分家の子として育てられ、兄が早世したために宗十郎が平瀬家の第6代当主となった後も、正妻(露香出生後に結婚した相手であって露香の実母ではない)との間に男子が生まれず、宗十郎の男子が露香独りであったために、結果的に露香は10代半ばで本家に迎えられて、結局平瀬家第7代当主となった。
そのようないきさつから露香は若いときから本業(=商売)に熱心ではなく道楽に走った生活をしていたともいわれており、まだ父親が存命中であった★17歳のころには「放蕩が過ぎる」ことを理由に京都★「天竜寺」に謹慎のために預けられたこともある。さらに父親が死去して家督を相続した後も支配人から理由を付けられて明治元年から二年にかけて一度隠居させられている。このような複雑な事情で露香は第7代の当主となったが、当主となった後もさまざまな事業の運営のほとんどは前代からの従業員たちに任せきりであり、これは同人が平瀬家の当主となるまでの複雑な事情に加え、同人の道楽にふけっていた素行を不安視する人物が平瀬家の中にも多かったためであると見られている。
【平瀬三七雄】(1876~1927)春齢・露秀とも称している。
新聞記事文庫 資金(5-003)時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)
時事新報社「第三回調査」全国五拾万円以上資産家
大阪府平民富子助次郎氏の長男にして明治9年3月出生、先代★平瀬亀之輔氏の養子となり40年1月家督を相続す。現時大阪貯蓄銀行専務取締役の外東洋製紙、教育生命保険会社の監査役を兼ね居れり。七十万円 平瀬三七雄(銀行重役)東区北浜
財産種別 有価証券、骨董品、不動産