・・・「船形埴輪」を追いかけて「大阪歴史博物館」に行ったわけですが、歴博に「杭全神社」関係資料の展示もありました。
★杭全神社「御田植神事」
547-0046大阪市平野区平野宮町2-1-67/06-6791-0208
2018年4月13日(金)
http://www.omoroide.com/aen/index.html
五穀豊穣を祈願する行事で、国の無形民俗文化財に指定されています。拝殿を田に見立て、猿楽の所作で行われる古い様式を今に残すもので、幼子姿の人形に飯を食べさせたり、放尿させるなどのユーモラスな場面が、見る者を和ませます。神事の中で蒔かれる種籾は「福の種」といい、金運・福徳のお守りとして、参拝者が自由に持ち帰ることができます。「福の種をまこうよー」と、翁面を付けたシテが稲もみをまき、最後に太郎坊と早乙女2人が苗に見立てた松葉で田植えの儀式を行って終了する。
・・・「放尿させるなどのユーモラスな場面」、実際に観てみたいものです。
・・・続いて、ブログ「世界遺産へ」石棺(2)で、「正覚寺(平野)」「若林(松原)」「高屋城(羽曳野)」の深~い関係について書きましたので、杭全神社の近くでもある「正覚寺」へ。杭全神社を出て、「坂上春子」さんの墓参りをしてから、「平野環濠跡」そして「平野川」を渡ります。
《坂上春子墓所》
坂上春子(生年不詳~承和元年834)は、坂上田村麻呂の娘。桓武天皇の妃となり、葛井親王・春日内親王を生む。戒名は慈心大姉。桓武天皇の崩御後、摂津国住吉郡平野庄(大阪市平野区)の領主で、兄弟である坂上広野を頼り平野庄に住む。坂上氏の尼寺の長寶寺(長宝寺)を開き、同寺は坂上氏累代の尼寺となる。長寶寺の寺伝や系譜によれば、明治になるまで平野の坂上氏は長寶寺に隣接して屋敷を構えていたとのことである。春子の墓は、杭全神社に隣接した平野宮町の長寶寺の墓所に坂上氏一族の墓と共にある。
《平野環濠跡》
http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000210327.html
平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。濠は平野川ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
《平野川》
http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000617.html
http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033889.html
大阪府柏原市古町の大和川右岸にある取水口を水源(一級河川の起点)とし北流。大阪市城東区森之宮と城東区中浜の境界で第二寝屋川に合流する。了意川、百済川、河内川あるいは竜華川とも呼ばれていた。かつては旧大和川(久宝寺川)から分岐し、ほぼ現在の流域に沿い、千間川(今川)、猫間川などと合流し、寝屋川に注いでいた。戦国時代以降は石山本願寺・大坂城の東側へ回り込み、外濠として機能していた。大和川の付け替え以前は現在よりも幅の大きな川であり、1620年(元和6)と1633年(寛永10)に立て続けに大洪水が起き、流域の柏原村も大きな被害を受ける。当時の代官 ★末吉孫左衛門長方は平野川に舟を通して物資を輸送させ、その利益を柏原村の復興にあてることを考えた。こうして「柏原舟」とよばれる物資運搬船が京橋と柏原を行き来するようになった。柏原舟の成功は他の河川流域における水運を促すきっかけにもなった。1704年に大和川の付け替えが行われたことにより、平野川は一旦水源を失うことになる。流域の村は樋を設けて水を流す事を幕府に願い出るも、幕府の許可が出る前に干害が起こってしまう。弓削村の庄屋★西村市郎衛門は幕府に無許可で樋を設けて井路川水路を設置したため捕らえられて客死、一家は断絶となった。江戸時代を通じて水運は盛んであったが、大和川付替え以降は川幅が細くなり、土砂が堆積し、さらに鉄道など他の交通手段の発展に伴い、柏原舟は明治時代末頃には姿を消した。大和川付替え以降でも大雨が降るとたびたび氾濫し洪水をひき起こしていた。
http://www.city.yao.osaka.jp/0000035439.html
そのため治水工事が度々行われ、抜本的な対策として、1929年(昭和4)に平野川分水路(城東運河)の開削が開始された。一旦は戦争の激化で工事が中断されたが、1958年(昭和33)に竣工した。
《坂上広野麿墓》平野区平野市町1-8(坂上公園内)
http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000210324.html
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009201.html
平安時代初期(800年ごろ)、えぞ攻略に功績を上げた坂上田村麿の子で、当地を領有し永住した。平野の名はこの広野がなまったものといわれている(坂上家累代の住居は、平野本町三丁目長宝寺の一角にあり、明治末まであった)。また当家から分かれた末吉家(朱印船貿易に従事、東南アジアへ末吉船で名をはせた)・土橋家(含翠堂の創設に尽力した)・成安家(道頓堀を開削)をはじめ七名家が平野を分割して治め、一族は平野と共に繁栄した。
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/058.html
・・・「旭神社」まで来ましたら、「だんじり」が出ていましたので、まずはそちらの方へ。
★平成30年 6月24日「正覚寺だんじり祭り」試験曳き