鉄(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・特別公開(4)で紹介した「熊野小学校」について、「都市像復活プログラム堺市熊野小学校景観整備プロジェクト」が掲載されている《「新建築」1996年12月号》が届きましたので、まず紹介しておきます。

 

 

・・・さて、そろそろ「古墳」について、納得・説得できるような内容に迫っていきたいと思います。 

 

《古墳時代(大和時代)》近つ飛鳥博物館「子ども考古学者の部屋」より 

http://www.chikatsu-asuka.jp/?s=child/01kofunjidai

古墳時代は今から1700年から1300年も前のことです。古墳時代の前の弥生時代は、日本に米づくりが入り、大きなムラが多くでき、争いがはじまりました。そして、ムラをまとめるようなクニができ、女王卑弥呼のいるような邪馬台国が栄えました。その少しあとの古墳時代は西日本を中心として、大きなまとまりができる時代です。それは、★鉄をたくさん手に入れ、武器やよろいをつくって武力で人々を支配しました。また、鉄は田畑を切り広げたり、水路をつくったりする道具にも多く使われ、米などもたくさんつくれるようになりました。古墳に葬(られた人は、古墳時代の指導者の人たちと、その一族の人たちです。仁徳天皇の墓として宮内庁(が管理している日本一大きな大仙古墳は、前方後円墳という形の山のような墳丘です。中には石室があり、墳丘の上には埴輪が立っています。  

 

・・・「鉄」が重要なポイントだと思います。古墳から発掘された埴輪や、お棺とともに納められた、鏡・剣・玉・武具・馬具などの副葬品が古墳文化の特徴です。古墳の規模や副葬品の数や豪華さから、その古墳に納められていた人物がどれだけ★力を持っていたかがわかります。 

 

《日本の金属の歴史》(株)福田博商店HPより 

http://www.castalloy.co.jp/jinrui_2.htm

古墳時代(西暦300~600)の遺跡から鉄製の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。又、この時代は大陸から原料の地金を輸入し、溶解鋳造していたようです。鉱石からの精錬については、福岡の太宰府で1600年前の製鉄炉跡が発掘されています。これは山の斜面に穴を掘り、底に木炭の粉と石英を練り合わせたものを詰め、その上に木炭と砂鉄を積み重ね、土を被せて点火し、自然通風で精錬したものと推定されています。この炉は弥生後期から古墳時代の製鉄跡と考えられています。又、この時代は大和朝廷が全国の権力基盤を強化した時期であり、日本の鉄の歴史に重要な時期であったと考えられています。それは全国各地に同じような古墳が数多く建設されたこと、又、同じような古墳が出土していること、更に、鉄製武器などの副葬品が増加していることから伺えます。応神陵古墳や、仁徳陵古墳のように巨大な古墳などの土木工事ができた最大の背景は★「鉄」であったと考えられています。尚、このような鉄資材は朝鮮から輸入されたとする意見と、吉備、出雲から運ばれたという意見に別れているようです。古墳後期になると、日本書紀や古今和歌集などの記事から、鉄生産時の送風技術が、これまでの自然通風から人工的な送風に進歩しています。

 

 

・・・武器としての「鉄」、そして土木工事としての「鉄」、まさしく「鉄」と「権力」は密接な関係にあるようです。 

 

《韓鍛冶》近畿鍛工品事業協同組合HPより 

http://www.kintan.jp/forging.html

古事記や日本書紀によると、4世紀当時、親交のあった百済から★応神天皇の要請により、卓素という鍛人(鍛造技術者・鍛冶師)が来朝し、韓鍛冶の法を伝えたとあります。その後、新羅が百済に侵入し日本は百済救援に出兵したが及ばず、任那の日本府も新羅に滅ぼされ、百済からは大量の人々が日本に移住し、「韓鍛冶」の帰化も相次ぎました。7世紀前半の元正天皇の頃には、韓鍛冶は近江をはじめ諸国に集落を造り、韓鍛冶百島など127人に姓を賜っています。鍛造の技術はこれらの人々によって広められました。初めは輸入していた原料の鉄も、やがて国内で砂鉄や磁鉄鉱などから製鉄が出来るようになりました。また、弥生時代は小さな槍鉋や鏃のようなものしか作れませんでしたが古墳時代には鎌や刀など大型の鍛造が出来るようになっています。8世紀初頭の大宝律令の軍防令によると、兵士は武器のほか鍬、斧、小斧、鎌、金箸などの鍛造した農具を持たねばなりませんでした。この頃、イナゴの被害や風害が相次ぎ、税収は大きく落ち込みました。その後も度々凶作に見舞われ、鍛造農具の量産は緊急事でした。また、度々の戦乱に刀剣などの武器も、平安期から非常に発達し、その技術は鋏、包丁、剃刀などの日用具や工作用刃物鍛冶の発達を促しました。16世紀に★鉄砲がポルトガルから伝来したとき、短期間にその製造技術を獲得したのも、それまでの鍛造技術が発達していたことを示しています。金敷と手鎚で鍛造加工していた時代から、機械による鍛造が始まったのは、はっきりしませんが明治維新前の頃と言われています。その後、生産量は徐々に拡大し、戦争中にはピークに達したが、まだ生産性は先進国に比べて格段の差がありました。それも敗戦により壊滅的な打撃を受けました。そして我々日本人はその絶望的といえる状況から立ち直り、品質、生産性の両面で、世界のトップクラスとの肩を並べるようになりました。

 

・・・鉄砲と言えば「堺」ですよね、その線から調べる必要がありそうです。

 

 

《日本の主な輸出入品》日本貿易会きっずサイトより 

http://www.jftc.or.jp/kids/kids_news/japan/item.html

日本の輸出額がもっとも大きい自動車は、アメリカへの輸出が多いのですが、アジアや中東への輸出も大きく伸びています。自動車を組み立てるために使う部品類は、アメリカへの輸出が一番多く、そのつぎに中国、タイ向けとなっています。これは、日系企業による、自動車の現地生産が増えていることによります。エンジン(原動機)でも、1位、2位、3位が、アメリカ、中国、タイの順となっています。★鉄鋼は、中国、タイ、韓国向けの輸出が多く、ビルや工場などの建設や自動車で使われています。 

 

《参考》 

●「鉄の歴史博物館」 

690-2801島根県雲南市吉田町吉田2533番地/0854-74-0043 

http://www.tetsunorekishimura.or.jp/

●「鉄の道文化圏」 

http://tetsunomichi.gr.jp/ 

島根県の安来市・奥出雲町・雲南市の2市1町のプロジェクトの核となる文化館を建設することにより鉄の文化を保存・公開し、それを通じて未来への新しい可能性を創造していくことを目的としています。 

●「鉄の歴史館」 

026-0002岩手県釜石市大平町3-12-7/0193-24-2211 

http://www.city.kamaishi.iwate.jp/tanoshimu/spot/detail/1191193_2452.html

●坂城町「鉄の展示館」 

389-0601長野県埴科郡坂城町坂城6313-2/0268-82-1128 

http://www.tetsu-museum.info/

●「新潟県立歴史博物館」 

940-2035新潟県長岡市関原町1丁目字権現堂2247番2/:0258-47-6130 

http://nbz.or.jp/?p=8948

★東京大学総合研究博物館「鉄―137億年の宇宙誌」展 

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2009Fe.html

 

《日本古代史と応神天皇》著:直木孝次郎 

河内は海を通じて発展し、政治的には大和に従属している時代でも、文化的には大和を凌駕している面があった。それを示すのが海人(あま)・海部(あまべ)の活動で『記・紀』には、四世紀末から五世紀前半にかけて海人・海部の動きが記されている。海人は海部とほぼ同意で、海を生活の舞台とし、多くは政権の首長に従属して漁業や航海を仕事とする人たちである。河内政権は海人の力を利用して発展したと考えられる。倭の王権を構成する諸豪族のうち、四世紀末まで最も強力であった大和の諸豪族の盟主の力は、高句麗との交戦に敗れて勢力を低下したのに対し、河内の豪族の支配下にある海人を主体とする軍は、高句麗に対し最後の勝利を得るところまでは行かなかったが、平壌近くの帯方に攻め入るなど、めざましく活動した。うち続く敗戦で倭王権の動揺するなか、倭王権を構成する豪族のうち、海人を率いる河内の豪族は勢力を高め、河内に新しい王権を樹立する機会をつかんだのではないだろうか。五世紀前半の河内の豪族が大和の豪族を超える武力を有していたことは、古墳★副葬品に鉄製武器の多いことで明らかである。 

【直木孝次郎】 

1919年神戸市に生まれる。1943年京都大学文学部卒業。大阪市立大学文学部教授・岡山大学文学部教授その他を経て、大阪市立大学名誉教授。 

2003年第11回井上靖文化賞/受賞理由「★実証に徹した穏健な論文は、弥生時代から奈良時代までにまたがって五百編にも及び、隠された歴史、史実に新たな光をあてた。また、全国の★遺跡保存運動にも尽力した。」 

 

 

《NEWS》近畿最大?淡路に鉄器工房跡2017.1.25神戸新聞NEXTより 

弥生時代の舟木遺跡兵庫県淡路市舟木にある弥生時代の山間地集落遺跡★「舟木遺跡」の発掘調査で、新たに鉄器生産工房跡と、手工業品を生産した可能性のある工房跡、鉄器57点などが見つかった。兵庫県と同市の両教育委員会が25日発表した。過去に同市で見つかった近畿最大の鉄器生産遺跡★「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(同市黒谷)を上回る規模と推定され、専門家は「弥生時代、淡路島が鉄器の製作や保有の地として有力視されていたことを裏付ける発見だ」と指摘する。同時に出土した土器の年代から、工房があったのは2世紀後半とみられる。見つかったのは4棟の大型の竪穴建物跡。うち3棟は敷地が円形で直径が10メートルを超える大型で、うち1棟から4基の炉の跡が確認された。柱が外側に寄り中央部が広いことから、作業をする空間だったと想定される。また4棟全てから鉄器製作に使ったとみられる石器を多数発見。鉄器は計57点あり、鍛冶関連のほかに針状鉄器など小型工具が出土した。針状鉄器は小さいものでは長さ4ミリ、幅1ミリで、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は「小型工具を使って何らかの手工業品を生産する大規模な工房群が存在した可能性がある」と指摘する。作られた物は出土していないが、木製品や皮革製品などが想定できるという。2009年に工房12棟と鉄器127点が見つかった五斗長「垣内遺跡」では、鉄鏃(てつぞく)(矢尻)などの武器類が多く出土した一方、舟木では明確に武器と認められるものはなかった。二つの集落はわずか約6キロの距離でほぼ同時期に存在していたが、生産物に違いがあることが判明。五斗長垣内が消滅した後も舟木で鉄器生産が続けられていたことも分かった。 

【舟木遺跡】 弥生時代後期~末期(1世紀~3世紀初頭)に存在したとみられ、1966(昭和41)年に発見された。面積は推定約40万平方メートル。91年の調査で見つかった出土物が、古代の中国で製作された青銅製の中国鏡の破片であることが明らかになっていた。 

 

《弥生時代後期の鍛冶工房跡「垣内遺跡」》2017.5.10毎日新聞より 

http://gossa-awaji.jp/

弥生時代後期の鉄器工房跡としては★国内最大級で、国史跡に指定されている淡路市黒谷の五斗長(ごっさ)垣内(かいと)遺跡の活用拠点施設に展示室が開設され、同遺跡を紹介するパネル10枚と、出土遺物の複製品(レプリカ)や鍛冶実験に使われた用具など計17点が公開されている。市教委の発掘調査で、同遺跡から弥生時代後期の竪穴建物23棟が確認された。うち12棟で床面が赤く焼けた炉跡が見つかっている。

 

 

・・・いろいろ調べてきましたが、「鉄」が古墳時代の重要な鍵であることは疑う余地がないみたいです。ということは、「鉄」に焦点をあてて百舌鳥・古市古墳群を考えていかなければならないと思うわけです。